SSSSS級冒険者、日本で温泉に行く@草津温泉編
俺はSSSSS級冒険者アレス。
ダンジョンを攻略中だったはずが、気づけばニホンとかいう異世界に飛ばされていた。
一文無し。
おまけにこの世界では魔力が一切通じない。相棒だった愛剣も、職務質問という名の不審者狩りにあった警察とやらに没収された。
生きるため、俺は不本意ながら労働という名のクエストをこなす日々を送っていた。そして今日待ちにまった、久しぶりの休日だ。
理由は特にない。ただ、朝目が覚めた瞬間、無性に旅に出たくなった。
昔はよく、気分転換にドラゴン狩りなどに出かけたものだ。なぜあの時あんな危険な場所を選んだのかは、今となってはあまり思い出せないが。
ともあれ、俺はスマホとかいう魔道具を器用に使いこなし、クサツとやらの宿をポチッと予約した。
目的地は温泉街らしい。魔物のいない世界で、たまにはのんびりと骨休めと洒落込むか。
カタン、コトンと心地よいリズムを刻みながら、電車は東京のビル群をすっかり置き去りにして、緑豊かな車窓の景色へと移り変わっていく。
特急電車というものに乗るのは、生まれて初めてだ。
元いた世界では、移動といえば自分の足か、せいぜい飛竜の背中だった。時間を気にする習慣などない。いつだって俺の行動原理は気分だけだ。
案の定、乗り換えの慌ただしいホームで特急券とやらの存在に気づいたときには、それをじっくり買う時間など残されていなかった。だが、わざわざ次の便まで待つなどご免こうむる。そんな無駄な時間は、俺のクエストリストには存在しない。
とりあえず走り込んできた電車に飛び乗り、巡回してきた「シャショウ」とかいう青い制服の男を捕まえて事情を話した。
するとどうだ。その場でサクッと追加の切符を手配してくれたではないか。
ほう。見事な臨機応変さだ。
マニュアル通りに突っ立っているだけの役人どもとは格が違う。あの手際の良さと度胸、きっとこの世界でも優秀な冒険者になれる素質がある。今度スカウトでもしてみるか。
窓から流れ去る景色を眺めながら、俺はポケットからスマホを取り出し、これからの温泉の計画に思いを馳せるのだった。
草津に降り立った瞬間、冷気が突き刺さってきた。
「寒っっっ!!」
東京を出たときは、まだ秋の気配を引きずった生温い風が吹いていたというのに、なんだこの気温は。
我が身を振り返れば、今の装備はペラペラの半袖一枚のみ。周囲を見渡せば、行き交う人間どもは皆しっかりと長袖や上着を羽織っている。
……まあ、いつも行き当たりばったりで生きているのだから自業自得といえばそれまでだが、流石にこの冷風は肌の芯までしみる。こんな時、火ひとつでも起こせる火魔法でも使えれば一瞬で暖をとれるものを。文明の利便性と引き換えに、異世界とはなんと不便な場所だ。
ガタガタと歯を鳴らしていると、周囲の人間たちが一斉にざわめきながら移動し始めた。どうやらここからさらに、バスとかいう鉄の箱馬車に乗って温泉街の中心へ向かうらしい。
行き先なんてよく分からんが、ここで突っ立って凍死するよりはマシだ。周囲の群衆に流されるがまま、俺もぞろぞろとバスの列に混ざって乗り込んだ。
揺られる車内から窓の外をぼんやり眺めていると、遠くに奇妙な山が見えた。
不自然に丸みを帯びた、ぽっこりとしたコブのような山容。フッ、愚か者どもはただの自然の地形だと思っているようだが、俺の目はごまかせない。
あれは間違いなく、大地に擬態した太古の巨人が眠っている姿だ。不用意に近づけば、あの巨体が突如として起き上がり、盛大な大あくびとともに暴れ出すに違いない。ふっ、退屈しない街へ来たものだ。
バスはガタゴトと山道を登り、いよいよ湯けむりの立ち込める目的地へと近づいていく。
バスターミナルに降り立った瞬間、鼻をくすぐったのは、ツンと尖った強烈な硫黄の匂いだった。
「……ほう」
肺を満たすその気配に、俺は思わず小さく息を呑んだ。この熱気を含んだ香りは、昔、瘴気を纏う巨竜を討伐しに深山へ足を踏み入れた時のそれにそっくりだ。懐かしい記憶が脳裏をよぎる。悪くない。
だが、今の俺に求められているのは戦闘ではなく、空腹を満たすことだ。
まずはバス停の目の前にあった店に飛び込み、メニューも見ずにテキトーに注文を済ませた。出てきたのは、温かい蕎麦と、山盛りの天ぷらだ。
一口かじって、思わず目を見開いた。衣はサクサクと心地よい音を立て、中のキノコは噛むほどに芳醇な旨味が口いっぱいに広がる。異世界の食べ物も、なかなかにやるではないか。
腹ごしらえを完璧に済ませた俺は、行き先も定まらぬまま、とりあえず目の前の坂道を下ることにした。
ユバタケとかいう名所があるらしい。
急な坂を軽やかに下っていくと、突如として視界が大きく開けた。
寂れた山あいの街並みの中に、そこだけがまるで別世界のように異国情緒を漂わせている。古風な木造建築がひしめき合い、多種多様な店が軒を連ねるその景色は、かつて俺が旅したどの迷宮都市とも違う、独特の活気に満ちていた。観光客の群れがあちこちで歓声をあげている。
ふむ。悪くない。一目で気に入ったぞ。
そして、ついに辿り着いたのが噂の「湯畑」だ。
最初は名前を聞いて、「一体どんな畑から温泉が収穫できるというんだ?」と首を傾げたものだが、実際に目の当たりにして言葉を失った。
この集落のど真ん中に、凄まじい量の温泉がとめどなく湧き出し、もうもうと白い湯煙を天へと突き上げている。その圧倒的な湯量と、大地が脈打つような熱気は、流石の俺であっても一瞬気圧されるほどの迫力だった。
俺はしばしその光景に見入り、スマホの魔道具を取り出してあちこちの写真を収めると、湯けむりが漂う石畳の街路へと足を踏み出していくのだった。
歩き疲れた足を休めようと見つけたのは、アシユとかいう小さな浴場だ。
半袖一枚で冷え切った足をドボンと浸した瞬間、全身の毛穴という毛穴から「ふおお……」と得体の知れない感嘆の声が漏れ出した。
「ほう、温かい……」
凍てついていた血液がゆっくりと巡り始め、冷え切った肉体がみるみるうちに生き返っていく。これはいい。戦闘前のコンディション調整には持ってこいの名所だ。
と、極上の温もりに浸っていると、どこからともなく胃袋を刺激する香ばしい匂いがかすめた。
「……飯か」
本能に導かれるまま、俺は足湯からサッと足を上げ、匂いの元へと一直線に向かった。
そこに並んでいたのは、「マンジウ」なる丸い物体だ。
店先で売られていたのは「アゲマンジウ」。小麦粉の生地を油で揚げるパンの類なら知っているが、甘い餡の詰まった饅頭を揚げるなど初耳だ。どれ、と一口かじってみる。
サクッ、フワッ、そして中から熱々の甘みがトロリと溢れ出す。悪くない、いや、かなりうまいぞ。
勢いに乗ってもう一つの饅頭も買って食ってみた。
「……ん?」
一口食べて、俺は思わず動きを止めた。こいつは……餡子の中に、さらに別の餡子が仕込んである。いわば、「アンコ・イン・アンコ」の二重構造だ。
食べる前から「さぞ甘ったるくて胸焼けがするだろう」と身構えたが、実際に口にしてみると意外にもしつこくなく、ペロリと平らげてしまった。侮れん街だ。
さらに食欲のエンジンがかかった俺は、周囲の店から「コンニャク」と「オンセンタマゴ」も買い求めて胃に放り込んだ。
コンニャクと卵――まあ、味のほうはぶっちゃけ「普通だな」という感想しか出てこないが、旅の道中における栄養補給としては合格点だ。
どうやら温泉卵とやらは、店によって色々なバリエーションがあるらしい。これから街を歩いていて、また面白そうな卵を見かけたら食い潰してやるとしよう。
温泉街の湯気と香ばしい匂いに包まれながら、俺の気ままな食べ歩きはまだまだ続く。
湯畑の周りをさらにうろついていると、今度は「カオユ」とかいう奇妙な設備を見つけた。
説明書きを見ると、どうやら木箱のようなものの穴に顔を突っ込み、その下を流れる温泉から立ち上るスチームを直接浴びる仕組みらしい。
どれ、とばかりに顔を突っ込んでみたところ。
「……ほう、これは……!」
もわっと顔全体を包み込む温泉の蒸気は、想像以上に心地よかった。冷え切った鼻や頬の奥まで熱が行き渡り、全身がじんわりとほぐれていく。気のせいか、日々のハードワークですさんでいた肌のキメがキュッと引き締まり、数歳若返ったような気さえする。うん、美容にも効くとは侮れない魔道具だ。
十分に顔を蒸かしたところで、そろそろ日が傾いてきた。今日の宿にチェックインするとしよう。
スマホの地図を開き、ここから近場だなと踏んで歩き出したのだが。
「……なんだこの斜度は」
聞いていた話と違う。いや、近場なのは直線距離の話だったらしい。草津という街は、もともと険しい山肌にへばりつくように作られているせいか、あっちを向いてもこっちを向いても、容赦のない急坂ばかりだ。
半袖一枚で冷えた体にこの登り坂はキツい。荷物を抱えてハァハァと息を弾ませながら、俺は険しい表情で足を進めた。
「ふん……。この急坂、もし我が『SSSSSSSSS級冒険者』としての強靭な脚力を持っていなければ、途中で力尽きてリタイアしていたところだな」
険しいダンジョンを攻略するかのような気迫で坂を制覇し、ようやく目的のホテルへとたどり着いた。
自動ドアをくぐって中に入ってみると、内装はごく普通だ。格安のプランを選んだのだから文句は言うまい、値段の割には十分綺麗な部類だろう。
フロントの受付係に「湯畑までどれくらいかかる?」と尋ねたところ、返ってきたのは衝撃の事実だった。
「あちらに『秘密の通路』がございますので、そちらを使っていただければ、すぐに湯畑に出られますよ」
……なんだって?
俺は思わず受付係の顔を凝視した。そんな便利なショートカットがあるなら、もっと早く教えてほしかったものだ。あの死闘を思わせる地獄の急坂を登る前に知っていれば、無駄な体力を使わずに済んだものを。
まあいい。これも旅のスパイスだ。
部屋に荷物を放り投げた俺は、教えてもらったばかりの「秘密の通路」を通り、再び夜の湯畑へと繰り出すのだった。
ホテルの秘密の通路を抜けて外に出ると、夜の冷気の中にやたらと人間の行列ができていた。
「……ほう」
理由なんて関係ない。人が群がっているところに、何か面白いクエストが落ちているのは冒険者の常識だ。俺も思考を停止させ、そのまま列の流れに身を任せてチケットを買い、建物の中へと潜入した。
どうやらこれから「クサツ・ユモミウタ」とかいうショーが始まるらしい。なんだそれは、名前を聞いてもさっぱり分からんが、まあ見てやろう。
中に入ると、だだっ広い板の間に巨大な湯船が張られており、その中には妙な太い棒が6本ほど突き立っている。湯船の周りは柵で囲まれており、どうやら客は外側から観覧する仕組みのようだ。
すでに1階は人間の群れで埋め尽くされていたため、俺は賢明な判断として2階へと回ることにした。
見上げると、正面の特等席の、やや隅っこではあるが、最前列の椅子がポツンと空いている。座って見物できるなら文句はない。俺はふんぞり返るようにそこに腰を下ろした。
そして、ついにショーが幕を開けた。
流れてきたのは、何とも珍妙で耳に残るリズムの音楽。その調べに合わせて、和服姿の女たちがひらひらと舞い踊り始める。
ほう? これはあれか、この世界の伝統的な盆踊り的なやつか? いや、よく見るとキレのある動きのようにも見えるし、かつて異世界で見かけた謎の宗教儀式のステップ……いや、クラブとやらの「パラパラ」に見えなくもない。独特な世界観だ。
音楽に合わせた踊りが一段落すると、女たちは湯船の中央へと進み出た。そして、そこにあった大木のような棒を両手で構え、右へ左へと豪快に回転させながら、熱そうなお湯をバシャバシャとかき混ぜ始めた。
ザバーン、ザバーン。
リズミカルな水音とともに、湯気がさらにもうもうと立ち込める。
ふむ。歌や踊りも悪くはないが、俺の耳を捉えて離さなかったのは、その木製の棒が湯船の縁や水流とぶつかって響く「カコーン、カコーン」という乾いた美しい音色だった。あれはいい。耳に心地よい響きだ。
あとで流れてきた解説によると、もともとはこの熱すぎる温泉の温度を下げるために、こうして棒で掻き混ぜていたのが始まりらしい。
なるほどな。
温度を下げるだけなら、バケツで冷水をドバドバぶち込むのが一番手っ取り早いだろう。だが、それをやったら温泉の成分が薄まり、効能がガタ落ちしてしまう。それでは何のためにわざわざマグマのような湯に浸かりにきているのか分からない。まさに「本末転倒」というやつだ。
聞けば、ここ草津を流れる温泉は本来、人がそのまま入るには危険すぎるほどの高温らしい。その熱さを保ったまま、いかにして入浴に適した状態にするか――その先人たちの知恵が生んだ伝統芸というわけか。理にかなっている。
湯気が立ち込める舞台を眺めながら、俺は大きくうなずき、スマホのカメラでその珍妙かつ風情ある光景をバッチリと記録に収めるのだった。
ショーの会場を出て、夜の温泉街の空気を胸いっぱいに吸い込む。
テキトーに飛び込んだ割には、なかなかに見応えのある伝統芸能だった。あとでスマホの魔道具で調べたところ、どうやらこの街では超有名な名物スポットだったらしい。ふっ、事前に調べずとも、我が嗅覚で面白いものにぶち当たるのはいつものことだ。
興奮冷めやらぬ足取りで街を歩いていると、ショーの最中に聞きつけた情報が脳裏に蘇った。この辺りには、誰でも無料で入れる「共同浴場」がいくつもあるらしい。
ほう、タダで入れる温泉だと? それは試さぬ手はない。
まずは、ショーの建物のすぐ隣にあった「白旗の湯」という小さな木造の建物に狙いを定めた。
ここのお湯は特に温度が高いらしい。ふん、いくら熱かろうが、数々のマグマ地帯を生き抜いてきた我が耐えられないわけがない。
「どれどれ……」
気負いなく勢いよくお湯の中に体を滑り込ませた瞬間。
「あちぃぃぃぃぃぃっっっ!!!」
限界というものがあるだろ、ボケが!!
殺人的な熱湯が肌を容赦なく焼き尽くし、我が脳髄にダイレクトに警報が鳴り響いた。驚愕のあまり、反射的に猛ダッシュで外へ飛び出そうとしたものだから、濡れた床で盛大に足を滑らせ、派手にすっ転んでしまった。
痛恨の失態。SSSSSSSSS級冒険者アレス、人生最大の不覚。
あまりの無様な有様だったのだろう。近くを通りかかったガキが、冷ややかな目で俺を見下ろしながら「おじさん、温泉に攻撃されてやんの」と抜かした。
違うわ、これは攻撃ではなく不意打ちだ。ドラゴンの灼熱のブレスすら正面から防ぎきったこの俺が、まさか草津の温泉如きに敗北を喫するとは……!
ケツの痛みを必死にこらえながら這う這うの体で外に出ると、近くのベンチに座っていた老婆がボソッと呟く声が聞こえてきた。
「あんな温度じゃ、いかん」
……まったくその通りだ。ワイトもそう思います。
散々な目に遭い、全身の毛穴から冷や汗をかいたが、冒険者のプライドがここで引き下がることを許さない。俺は気を取り直し、すぐ近くにある有料の温泉施設、「御座の湯」へと足を踏み入げることにした。
さっきの秘密基地のような無料風呂とは違い、こちらは建物も広く、洗練されている。
中に入ると、横長に大きく開けた浴槽が二つ、湯煙の中に堂々と鎮座していた。窓辺には涼むためのベンチもあり、いかにも万人向けだ。
「ふむ、風呂に入るとしよう」
そう思って洗い場の方へ向かってみたのだが、そこで我が目は点になった。
なんだ、この異常なまでの長蛇の列は?
体を洗うためのスペースに、男たちがずらりと並んで順番を待っている。並んでいる男たちはもちろん全員、一糸まとわぬ全裸だ。
何事だと思って壁の看板に目をやると、こう書かれていた。
“湯船にでた後体を洗わないでください”
なるほど。温泉の効能や純度を最大限に維持するため、湯に入った後洗うのではなく、あらかじめ全身の汚れを綺麗に落としてから、浸かるのがこの湯の流儀らしい。だからこそ、みんな律儀に順番を待っているのだ。
だが、洗い場の数に対して客の数が多すぎる。結果として、男たちが、国籍問わず全員ツルツルの全裸で一列に並んで順番待ちをしているという、外から見たら猛烈にシュールすぎる光景が完成していた。端にいた海外から来たらしい巨漢の外国人観光客も、周囲の日本人たちに習って真面目な顔で全裸の列に加わっている。
……いや、正直に言えば、チャチャッと簡単なかけ湯だけで済ませてもバチは当たらんだろうに、と思う。まあ、皆の思考に細かくケチをつけるのは野暮というものだ。我が知ったことではない。
俺は全裸の行列を横目に、サクッと手短にかけ湯だけを済ませると、極上の湯船へと静かに体を沈めた。
ふう……極楽だ。
なお、我が温泉を満喫し、のんびりとくつろぎ、いざ風呂を出るその瞬間まで、あの全裸の行列が途切れることは一度もなかった。
次に向かったのは、伝統ある共同浴場「地蔵の湯」だ。
まず一歩足を踏み入れた瞬間の感想は「狭っっ!!」これに尽きる。
なんとこの風呂、靴の置き場も独立した脱衣所も存在しない。脱いだ服はすべて風呂場の中に直接放り込むスタイルだ。そんな手狭な浴槽に、屈強な男どもが何人も肩を寄せ合ってひしめき合っている姿は、傍から見たらかなりシュールな光景だった。
「ふん……」
俺は何とかスペースを見つけ、素早く服を脱ぎ捨てて湯船へと滑り込んだ。
じっと湯に浸かりながらぼんやりしていると、壁の向こうから何やら話し声が聞こえてきた。どうやら、隣の女性用スペースとの間は壁一枚で隔てられているらしく、狭いのは男側だけでなく女側も同じらしい。
ほう?
風呂に浸かりながら、壁越しに聞こえてくる若い女たちの他愛のない雑談に耳を傾けるとは、思いがけず趣深いシチュエーションではないか。俺は目を細め、ダンジョンで敵の足音を聴き分けるかのように全神経を集中させて聞き耳をそばだてた。
だが、その至福の時間は長くは続かなかった。
ガラガラッと荒々しく戸が開き、酔っ払ったのか何なのか、やたらと声のデカいおっさんどもが二人、ドカドカと入ってきたのだ。
その騒音と同時に、向こう側から聞こえていた楽しげな話し声が消えてしまった。
「……チッ」
せっかくの優雅な楽しみを邪魔された俺は、長居は無用とばかりに早々にその温泉を立ち去ることにした。
その後も、「千代の湯」なる共同浴場へと足を伸ばした。
ここも無料だからか相変わらずのコンパクトさで、もはや温泉というよりは「独房か?」とツッコミを入れたくなるレベルだったが、肝心のお湯加減のほうはすこぶる良好だった。
その後は気ままに他の温泉をハシゴし、美味い飯を食らい、湯けむりに包まれたノスタルジックな温泉街を心ゆくまで観光して回った。
ふう、文字数もいい感じにかさんできたし、そろそろ今日のところはこの辺にしておこうか。
まったく、行く前は「ただの異世界の寂れた村」くらいに思っていたが、蓋を開けてみれば草津温泉、なかなかに面白かったぞ。
またいつか気が向いたら、魔力を失ったこの体で再び訪れてやってもいい。
ここは、我がお気に入りの観光地リストの一つとして、記憶の奥深くに刻んでおいてやるとしよう。
切符駆け込んだのも転んだのも実話です。




