言葉は思考を結晶化する
僅かながらですが文章に携わる者として、敗北宣言のようになってしまいます。しかし、往々にして中途半端な言語化をしてしまうので、自戒を込めて書きます。
「思考を言語化する方法」「正しい言葉遣い」「論理的思考ができるようになる方法」あるいは、「論理的文章の書き方」。ネット、書店を眺めると、言葉の力、その利点についての言説が溢れています。
ここ、小説家になろうに集う皆様は、言葉の力の強さを理解されていると思います。思考をクリアにし、他者とコミュニケーションを取り、出来事を記録する。言葉はその全てに関わり、私たちの精神活動を大いにエンパワーします。
その力は素晴らしいものです。けれど、その裏側にある負の側面、言葉による制約について、今回は考えてみます。今回取り上げることは、言葉の利点に比べれば些細なものです。しかしながら、自覚的でないと、ときに落とし穴にはまってしまうのではないかと思うのです。
悩み事があるときに誰か他の人に相談して話をする、あるいは、思考が混乱したときに紙に書き出して文章化する。すると、モヤモヤしていた気持ちが落ち着いたり、考えがまとまったりする。そういった経験、お持ちの方は多いでしょう。人間は言葉によって世界を分析し、高度な思考をする生き物です。自分の感情をとらえ、衝動的な行動を抑制するには必須です。
そうして言葉によってまとまった考えを、話していると、読んでいると、あたかも当初からの自分の考えのように思えてくることはないでしょうか。特に、過去に書いた文章を繰り返し読むと。当時の自分はこんなことを考えていたのだ、と。少なくとも、私はその傾向があります。ここに落とし穴があります。その文章、本当にあなたの「考えそのもの」の記録でしょうか?
言葉、特に文章は、書き手の感じ取った世界、思考を、その意味範囲、規則によって切り取ったものです。もし、その過程で使われた語彙セットが、文法運用能力が、思考の型が、中途半端なものだったなら、本当に切り取られたそれは、あなたの「考えそのもの」と言えるでしょうか。
詳しく見ていきましょう。
言葉には必ず、「正しさ」が付随します。言葉は他者とのコミュニケーション、意志疎通の道具としての機能を持つのだから当然です。単語には意味範囲があり、場合によっては定義がある。単語が連なった文は正しい文法規則が決まっている。文がまとまった文章、特に論説文は、論理的に正しい文章構成によって書かなくてはいけない。物語なら、ストーリーの型、展開の自然さが必要でしょう。これらがあるからこそ、人間は他者とコミュニケーションを取り、同時に脈々と続く言葉による思考を受け継ぐことができるのです。「正しさ」は言葉に欠かせないものです。
しかし、思考の始まりには、そこに収まりきらない、文章、文、単語以前のもやもや、漠然とした何か、思考の原型――想いなり、発想なり、感情の高まりなり――があるはずなのです。カオスで、混沌として、粗削りで、何なら間違っているかもしれない。そういったものです。これの中に、思考の答えが紛れていないとは限りません。けれど、言語化され、言葉で考えをまとめるときには、言葉による「正しさ」という型にはめ込まれ、収まらないものはそぎ落とされるのです。語彙や思考の型が少ないと、それはより顕著です。
では、そうして思考がそぎ落とされるのに対処するには、どうしたらよいのか。定石は、単語を覚え、漢字を覚えて語彙を増やすこと。文法規則の運用を訓練し、複雑な文を作れるようになること。論理的思考を訓練し、複雑な思考に対応した文章を書けるようになること。それらに地道に取り組むしかない、それが答えでしょう。
しかし、言葉はどんなに細密にしても、「正しさ」が付随する以上、原理的に「思考そのもの」を表すことは不可能です。
具体例を書いていきます。
これを読んでいらっしゃる皆様は、日本語の文章を読んでいるので、日本語で思考できる人が多いでしょう。そして多くは日本で教育を受けているでしょう。小学校では、「つなぎ言葉を使いましょう」と習ったでしょう。次の文章を読んでください。
「久しぶりに旅行に行ったが、いい思い出になった」
では次は?
「彼は文筆家だが、語彙が貧弱だ」
一般に逆接を表す接続助詞の「~が、」も、単純接続の用法があると分かります。
「~て、」での接続はもっと複雑です。
「玄関を出て、ドアを閉めた」(時間の経過・順序)
「100円から50円を引いて、50円になる」(論理的帰結)
「悲しくて、泣いた」(因果関係)
「嬉しくて、楽しくて」(並列)
と、多岐にわたります。
これらは、混然となって、判別が難しい使用例、多くあります。これらを、英語に訳せ、対応する接続詞はあるか、と問われれば、瞬時には難しいと答える人、多いでしょう。
これは、日本語が非論理的な言語だからという声が聞こえそうです。しかし、日本語と英語に限りません。
例えば、アラビア語には、接続詞、接頭辞として、「wa-」(ワ)、「fa-」(ファ)、「sa-」(サ)などがあります。接続詞waは英語のandの意として、「そして~」「……と~」と訳されることが多いです。faは、「それゆえ」「そしてそれから」などと訳されることが多いですが、意味は幅広く使われ、完全に対応する日本語の接続詞は、たぶんありません。接頭辞のsaはもっと複雑で、意味上は「近い未来を表す」とされます。「今まさに~~しそうだ」「今から~~しそうだ」など、使われる場面によって、適切な訳が変わってきます。
言語間の思考の違いは、異なる歴史を辿ってきた以上、あると言えそうです。つまり、一つの言語で思考する限り、たどり着けない考えがある。言葉による制約は無くせない、ということです。
話が脱線しました。言葉一般の話に戻ります。原理的にできなくても、実用上は思考に支障がない運用レベルまで、訓練すれば到達できることはできます。しかしながら、そのレベルまで到達するには、時間と努力が必要なことは確かです。敗北宣言のようになってしまいますが、努力が続かない(私のような)場合はどうするのか。
言葉の特性とその限界に、自覚的でいるしかない、そう思います。
上の方で書いた、「あたかも、当初からの自分の考えのように思える」というのは、私の場合は文章になって、文字化されると顕著です。特に、PC上で活字になると。思考が固まってしまい、手直しができなくなります。後になって、書き込めなかったアイディアを足すのは極めて苦手です。さらに苦手なのが、PC上での執筆です。PC上で直打ちすると、ああでもない、こうでもないとタイピングとデリートを繰り返すことになります。そして、一つ消すたびに、豊穣だった思考の履歴が、一緒に消えていきます。
だから私は、文章を書くときは、紙に手書きします。1枚目の紙に、アイディアを思いつく限り書き出し、論理の流れを図にしながら、書きたい事項を選択していきます。そして、2枚目以降の紙に、ぐちゃぐちゃと推敲しながら、草稿にします。最後に、PCにタイピングして固定します。使った紙、メモ、殴り書き、まとまっているとは言えないそれですが、保管しています。思考の履歴を残すものとして。
言葉の強大な力、その力を活かすために、中途半端な言語化による弊害にはまらないために、言葉を使うことによる制約に、自覚的でいたいです。
こんなことを長々と書いているなら、言葉の訓練をしろ。はい、その通りでございます。おあとがよろしいようで。




