葡萄の坂
記憶にあるはずがないのに、懐かしい風景というのはある。
一つ角を曲がった先の小道は、葡萄畑の間をうねうねと下っていた。
丁寧に積まれた石垣と石段で縁どられた畑の葡萄は葉を大きく広げていて、明るい陽射しが緑に透けている。若い葡萄の房は豊穣の壁画のモチーフそのままに垂れていて、一部はほんのり色づいていた。
私は石垣の間の坂道をのんびりと下って行った。
つづら折りの青と緑の風景に、名前を知らない赤い花が朱をさした。家だ。その白っぽい明るいクリーム色の壁にオレンジの屋根の小さな家の庭は、急な石段の脇を石垣で段々に囲って作られており、オリーブやレモンの木の間に、ハーブと花の鉢が並んでいた。
「あっ」
一抱えもある大きな壷を抱えた女性が、庭の石段の端でバランスを崩したのを見た私は、咄嗟に駆け寄って手を貸した。
「ありがとうございます」
その品の良い婦人は壷を降ろすと、狼狽を面に表すまいと努めつつ、鼓動が早くなっているのであろう胸を控えめに抑えながら礼を言った。
お礼に……と、私はその婦人の家のテラスでワインを頂くことになった。
§§§
「この辺りでワインを作り始めたのは、それほど昔ではないのです」
水持ちの悪い穀物を育てるのに向かない貧しい土地だった。そこに一人の旅人が葡萄をもたらしたのだと、彼女は語った。
「ワインは旅の方がもたらした恵みだから、この辺りの者は旅の方にワインをよくふるまいます」
良い風習に乾杯して、私はワインの香りを楽しんだ。
華やかな果実の香りに心地よい樽香。生き生きとした酸味に程よい渋みが調和している。
色もいいと褒めると、テラスに置かれた小さなテーブルの向かいに座った彼女は微笑んだ。
「あなたの目の色もよく似ていますね」
「そうですか。もっと暗い色だと思いますが」
「日差しの加減でしょうか。ここに葡萄をもたらした旅の方も葡萄酒色の眼だったそうですよ」
「へえ、それはいささか創作っぽく聞こえますね」
少しシニカルになってしまった口調が、彼女を意地にさせてしまったらしい。
「嘘ではありません。その旅人をもてなしたのは私の曾祖母なのです」
彼女は一枚の絵を持ち出してきた。
「これがその旅人を描いた絵です。……あなたによく似ているわ」
たしかに、その絵の中の古臭い形の帽子を被った男は、私によく似ている。
「でもこれはあなたの曾祖母がお書きになった絵ではありませんね」
「……はい」
あの頃は戦争があって、この辺りも被害がひどく、絵を描くような余裕はなかった。
これは絵具も新しい。おそらくは彼女が描いた物だろう。
「想い出の……絵なのです」
「そうですか」
私は通りすがりの客人として、それ以上踏み込んだことは聞かず、後は黙ってワインを頂き、礼儀正しく退出の挨拶をした。
「ずっと旅をなさっているのですか?」
「ええ。ひとところに住むというのは、あまり向かないたちなのですよ」
彼女は、胸にしまっていることを切り出すかどうかひどく葛藤している顔をしていたが、私は促すことはしなかった。それでも彼女はどうにも衝動をこらえきれなかったようで、小さな声で私に尋ねた。
「旅の間に奇妙な話というのはお聞きになりますか?」
「……ええ、まぁ」
「生まれる前の人生の記憶を持っている人の話というのはお聞きになったことはありますか?」
私は微笑した。
彼女は、ひどく突拍子もない話を変なタイミングで不適切な相手にしてしまったのではないかと動揺し、その頬に薄く朱を上らせた。……ああ、そういうところは変わらないものなのか。
「おとぎ話の類でなら知っていますよ。不老不死と同じ、伝承の中の存在ですね」
「伝承……ええ、そうですね」
「ロマンチックな話ですが、もし現実だとしたらそれほど良いものではないでしょう」
彼女は私の眼をじっと見つめて、それから視線を落とした。
「そうなのですね」
「ごきげんよう。美味しいワインをありがとう。ここに立ち寄ってよかった」
「また、いつでも来てくださいな」
「ええ、またいずれ」と定番の断り文句を口にして、私はその小さな家を後にした。
葡萄の坂を下り切った先の港から出た船からは、生まれ変わったあの人が平穏に暮らす家は、もう見分けられなかった。
打ち明けたなら。その衝動の甘さも取り返しのつかない過ちの苦さも知るがゆえに、悠久は沈黙を選ばせる。あなたが……の言葉の先は、ただ幸あらんことを祈る定型句。
生く日々に良き実りを
お読みいただきありがとうございました。
感想、評価☆、リアクションなどいただけますと大変励みになります。




