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デカルトが思考する部屋の扉には蝶番がついていなければならない 

掲載日:2026/05/19

 最近またウィトゲンシュタインについて考えているが、それについての話をデカルトをウィトゲンシュタインが批判したらどうなるか、という形で説明してみたい。

 

 まず、デカルトは「我思う故に我あり」と言った。これは近代的な意味での個人・自我の発生とみる事もできるし、また絶対確実な真理を追い求めようとする近代的な理性の発芽とも考えられる。いずれにしろ、哲学史的にも、人類史的にも重要な考えだ。

 

 デカルトが何故こんな事を考えようとしたかと言うと、彼は絶対確実なものを求めようとした。この絶対確実な真理を求めるという作用自体が近代的なものだとも考えられるが、とにかくデカルトはそのように考えようとした。

 

 デカルトが考えたのは、「もし自分が見ているもの、聞いているもの、感じているもの全てが嘘だったら」という問いだ。デカルトは次のように考えた。

 

 「もし私が見ているもの、感じているもの全てが悪霊が見せている夢のようなものだったとしたらどうだろう。…いや、それでも絶対確実なものは一つだけある。それは思考している「私」だ。私の感官知覚が全て偽られていたとしても、今こうして思考している私だけは確実に存在する。我思う故に我あり」

 

 デカルトが考えたのはこのような事だった。ここまでは単なる哲学のおさらいである。

 

 デカルトのこの思考は、類似の思考が他にも見られる。莊子の「胡蝶の夢」とかラッセルの「世界五分前仮説」とかだ。特に「世界五分前仮説」はかなり近い。


 これは、仮に世界が五分前に作られていたとしても、我々はそれを見破る事はできない、という話だ。なぜなら、「五分以前」の時間の記憶ですら、五分前に作られている可能性を否定できないからだ。「十年前の記憶」もそれを十年前であるかのように五分前に脳にインプットされたと考えると、世界は五分前にできたという仮定を否定できない。


 こうした思考というのは哲学的には独我論という風に取り扱われる。人間の意識はそのように世界を見る。

 

 こうした独我論的な考えというのは、どちらかと言うと歴史的に嫌われてきたように思う。というのは、こうした思考は世界の客観的な存在を否定するものであり、それは我々の素朴な常識と反するからだ。


 これは常識に反するのだが、しかしその可能性を常識は論理的には否定できない。だから、こうした独我論的な世界観はなんとなく遠ざけられてきたように思う。

 


 ただ、デカルトは以上のような考えを「本気で」考えたわけではなかった。彼は日常生活と哲学を分けていたし、そのあたりは冷静だった。彼はあくまで確定できる真実を発見する為にそう考えただけだ。


 この文章内では、この、デカルトが「本気で「我思う故に我あり」を考えた事がなかった」という事実が非常に重要となる。

 

 ※

 一種の思考実験だが、もしデカルトが本気で自分が見ているもの全てを悪霊が見せた幻影だと考えていたらどうなるだろうか。おそらく、彼は日常生活を送る事が不可能になったに違いない。

 

 友人や恋人が目の前に現れても、「失せろ、幻影が!」と叫んで斬りつけるかもしれない。彼は殺人罪で捕まるかもしれない。裁判所に引き出され、死罪を受けるかもしれないが、その時でも彼は「君らは全て悪霊が見せている幻影に過ぎない」とせせら笑うかもしれない。

 

 同様に、彼が目の前に出された食事を「これは幻なんだ」と言って一切食べなかったらどうだろうか。空腹の感覚に彼は耐えられなくなるかもしれないが、空腹の感覚も悪霊の幻惑の一種だと考え、我慢したらどうだろう。彼はいずれ餓死するだろう。そうなると、彼は「我思う故に我あり」と言う事もできなくなる。

 

 デカルトという人は賢い人だったから、あくまでも自分の思考を哲学の為の道具だと割り切っていた。だから彼は、真剣に考え込んで、「我思う故に我あり」という定理を発見したものの、それを本気で受け取る事はできなかった。もし本気で受け取っていたら、彼はその定理を記した書物を出版する事はできなかっただろう。

 

 さて、ここにあるのは、デカルトという個人が、徹底的に思索する、その主体ではあるものの、彼はその主体の成立条件そのものを思索はしなかった、という事実である。私はこの事を重く見たい。

 

 デカルトの後、何百年後のウィトゲンシュタインという哲学者はこの問題を別な風に考えた。彼は「確実性の問題」で次のように言っている。

 

 「ドアの蝶番はついていなければならない」

 

 この言葉だけだと意味不明だろうから説明する。また、私のこの文章ではデカルトと絡めて説明する。

 

 デカルトという一個人が独我論的に閉じこもり、一人で思索するのはもちろん勝手だろう。同じように、デカルトという一個人が「私」という考える主体を絶対的な存在とみなし、その他にみえる全てを悪霊の見せる幻と考えるのも彼の勝手である。そこまでなら問題は起こらない。

 

 だが、違う風にも考えられる。もし全てが悪霊の見せる幻ならば、何故、世界はデカルトにとってこんな好都合にできているのだろうか。デカルトが思索している部屋の扉の蝶番を外して持っていくといういたずらを悪霊は何故しないのだろうか。

 

 それだけではない。例えば地球は丸いとか、重力というものがあるとか、フランスという国があるとか、様々な科学的な力は合理的に働いているとか、なんでもいいが、そうした世界の体系にある程度の整合性があるのは何故だろうか。

 

 これはラッセルの「世界五分前仮説」も同じだが、仮に世界が五分前にできていたとしても、何故世界は『このように』好都合にできているのだろうか。悪霊が見せている幻影なら、デカルトを次の瞬間にたぬきに替えたり、あるいは一瞬で息の根を止めたりする事もありえないではない。


 だが、現実ーーつまりデカルトが感じ、見ている夢の世界ではそのような事は起きない。世界はそれなりのものとして機能している。別に、機能させる必要もないのに。

 

 ウィトゲンシュタインが「ドアの蝶番はついていなければならない」と言ったのは、「全てを疑おうとしたら、疑う事すらできない」という真理について語る為だった。

 

 この事は今説明したような事象だ。デカルトが世界の全てを疑う事はできる。デカルト以外の誰でも全てを疑う事はできる。

 

 統合失調症患者が、世界の全てを疑い、隣人が電波を発していると「確信」して隣人を刺し殺す、というような事件は実際に起こっている。彼は隣人の電波を止める事には成功したかもしれないが、その代わり彼は法定に引きずり出され、精神病院に放り込まれるか、刑務所に送られる。あるいはひどい場合には死罪となる。

 

 これらの事は、人は全てを疑う事はできるが、しかしそうなると、疑っている主体そのものは、彼が疑っている世界の体系によって成立している為に、かえってその矛盾が露見するというものだ。


 彼が世界の体系を否定しようと、その否定そのものも、彼の否定を許す彼の存在が前提される。彼の存在を可能にするのは、彼が否定している世界そのものなのだ。

 

 これは先に説明したような、デカルトが食事を幻影だと思い、一切食べなかったら、彼は餓死して、疑う事も不可能になる、と同じ事を意味している。

 

 デカルトの「我思う故に我あり」をウィトゲンシュタインが批判するとしたら、「とはいえ、彼が思索している部屋の扉には蝶番がついていなければならない」という風になるだろう。私はそう考える。これは人は考える以前に生きている、という事だ。

 

 これは、人間の生育過程で言えば、自己意識の出来上がった人間は、自己という一つの完全な、統一的な身体・心を持っているように感じるのに、実際には、その人間が一人の人間として成立するには、彼以外の他者が彼を養い、生育しなければならないという事実に該当する。

 

 彼は世界を疑う事はできる。だが、彼が世界を疑う為には、先に、世界が彼の生存を赦し、彼を生かさなければならなかった。しかし彼はそれを忘れている。

 

 ※

 私はこの事は色々な形に応用できると思う。

 

 例えば、私のような人間はその典型でもあるが、私は日本社会批判や、日本の大衆批判の文章をよく書いている。

 

 こうした文章は私のストレス発散で出てきているものだが、とはいえ、私は日本社会から出ていく気はない。私は日本社会に生かされている。私が純粋な思考者として、自分が生きている社会を批判している時、私はそれを忘れている。

 

 確かに、今の日本社会には色々な問題がある。その問題を指摘するのは間違いではないし、正しい場合もある。だが、自分という存在を成立している世界そのものを批判するという事は、その世界が生かしている彼の思考主体そのものも批判されなければならないのではないか。

 

 この事は、頭脳の優れた人間ほどに置き去りにしている事に思われる。彼は生きている。彼は、少なくとも、彼がいる社会を批判する事が許される世界に生きているのである。

 

 この人物が例えば、明治維新を全否定としたとしよう。

 

 「明治維新というのはけしからん。イギリスがアヘン戦争という邪悪な形で得た金が倒幕に使用されている。邪悪な金を供給されている革命である故にそれは邪悪だ。許されるものではない」

 

 このような舌鋒があったとする。それはその通りかもしれない。しかし、その邪悪な歴史の上に立って生存している彼は邪悪ではないのだろうか。そのように主張する彼の頭脳だけでは、歴史の中で免責されているのだろうか。

 

 私はこうした事で「社会を否定するのは駄目だ」とか「日本の歴史を日本人は称えるべきだ」と言いたいわけではない。そうではなく、私はそこに思考の限界というものが、カントが見出した理性の限界のように存在するのではないかと思うだけだ。

 

 彼が存在する社会の全てを頭脳は否定できるが、そういう人に「じゃあ、北朝鮮に移住してください。あなたにはその方が良いでしょう」と言っても、彼は「おお、よろこんで!」とは言わないだろう。

 

 なぜなら、北朝鮮という国では、北朝鮮の国家体制を批判する事は許されていないからだ。つまり、彼の批判精神は、彼が批判している対象からの庇護を失う事によって死んでしまうのである。彼が批判できるのは、日本やイギリス、フランス、アメリカといった「自国を批判する事が許されている社会」であるからだ。

 

 私はこの事実を完全に無視して、純粋無垢な思考の絶対性だけを際立たせる事には問題があるのではないかと思っている。ただ、これは私の私自身への疑問として育んできたもので、もっぱら自分への批判として考えている。

 

 人は考える前に生きている。だが、思考は生を忘れる。私もまた、生を越えた純粋な知性へのあこがれがあった。超越的な思考の希求があった。

 

 しかし思考は、生の中に失墜していく。それは思考が思考である事の悲劇であるように思う。

 

 思惟する主体は「何故、私はこの時代のこの国、この家庭に生まれたのだろう。もっと違う時代の違う国の違う家庭に生まれればよかった」と考える事はできる。

 

 だが、彼がそのように考える事ができるのは、「その時代、その国、その家庭」に生まれたからなのだ。思考は現実を突破して違う世界を夢見る事はできるだろう。だがその能力を彼は現実の世界から付与された。彼が一人で彼に成ったのなら話は別だが、人は一人で生きられない。

 

 この事は、思考する主体が、自らの存在の全体、生の全体を一つの宿命として受け入れなければならない事を意味していると私には思われる。思考は生に対して敗北していく。だが、その敗北の認識こそが新たな思索を、新たな観念の世界を開いていく。


 それは、以前のような純水で清潔で完全に正しい言葉の集積ではない。それは現実の自分が負っている業を含んだものだ。自己という宿命を受け入れた言葉だ。

 

 私はこのような不純な言葉の方が、一見、正しく清潔で矛盾がない正論の数々よりも「良い」ように思う。それは、無垢である事が不可能だと発見した人の言葉だ。その言葉の中にはその人の思索が純粋でいはいられないという宿命を負った、そういうものになるはずだ。




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