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空の夢  作者: 中條利昭
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6 あの雲の向こうで

 リバレインは、己の目を疑った。

「フェザンさん……!? なぜ、ここに……」

「よっ、元気か?」

 返ってきたのは、あまりにもいつも通りな、気の抜ける挨拶だった。だが、その朗らかな瞳の奥に宿る光だけは、けっして笑ってはいなかった。それが、リバレインの背筋をぞっとさせた。

「ボンベルタ元総督の命令で人攫いをした気分は、どうだ?」

「……ッ! ご存知、だったのですか」

 もはや、隠し通すことはできない。リバレインは悟り、懐に隠していた拳銃に手をかける。その手を、フェザンはじっと見つめている。

「どこで気づいた? ヒカリエの正体」

「……あなたが自室でだけ使っている筆と酷似した筆を、彼女が持っていたのを見て、勘付きました。それが、あなたが奥方様のために作られたという筆だと、聞いたことがありましたので」

 フェザンは、壁際で眠るヒカリエに、慈しむような、それでいて少しだけ呆れたような目を向けた。

「このバカ……誰にも見せるなと、あれほど言っただろうに」

「それも驚きですが、あなたがここを知っていたことの方が、僕は驚きです」

「ああ。おまえさんがこの村に赴任してきたときから知ってたよ。見事に跡をつけさせてくれたおかげで、ここも、パスワードもお見通しよ。おまえさんが作った置き物から、指紋をいただくのも簡単だったしな」

 淡々と語られる事実に、リバレインは戦慄した。すべて、筒抜けだったというのか。

「……ならば、なぜ今まで僕を泳がせていたのですか。始末する機会など、いくらでもあったはずです。それとも、僕を殺す勇気がなかったとでも?」

 挑発するように言うと、リバレインは懐から拳銃を抜き、フェザンへと向けた。

 だが、フェザンは表情ひとつ変えない。

 ただ、その瞳に、深い悲しみの色を浮かべた。

「撃つべきだと思うなら、撃て。だがな、その引き金を引いたら、もうおしまいだ。おまえさんとは、もうただの友人に戻れなくなる。オレは、まだおまえさんと友だちでいたい」

 その言葉が、リバレインの心を躊躇わせる。しかし、

「……それが、僕の使命なのです」

 彼は、意を決して引き金を引いた。

 乾いた銃声が、狭い坑道に木霊こだまする。しかし、手応えはなかった。フェザンの身体は、まるで陽炎のように揺らめき、銃弾は彼のいた場所の背後の岩壁に、虚しく突き刺さった。

「なっ!?」

 最低限の動きで弾丸を避けたフェザンは、心底悲しそうな表情をリバレインに見せる。

「その程度の拳銃なら、避けるくらい、そう難しくはねえよ」

 普通の人間に、そんな芸当などできるはずがない。難しくないはずなんてない。

 リバレインは眉間に皺を寄せる。

「……あなたは、いったい何者なんですか」

「本当に何も知らねえんだな、おまえさんは。オレは、ミラ・スワルフツァ軍の元将軍だよ。長年、最前線にいただけの、ただのしがない兵隊だ」

 その言葉に、リバレインの脳裏に、軍学校で耳にしたひとつの伝説が蘇った。

「……聞いたことがあります。二十年前、戦場の最前線に立ち続けてきた最強の将軍が、ある日突然、姿を消したと。その男は、たったひとりで武装した敵陣に乗り込み、傷ひとつ負わずに制圧したことがあると……それが、あなただったというのですか」

「……」

 フェザンは答えなかった。だが、その沈黙こそが、何より雄弁な肯定だった。

「軍では、今もあなたの武勇伝が語り継がれています。まさか、その伝説の偉人が、あなただったとは……」

 リバレインの声が、次第に熱を帯びていく。

「ならば、なおさら許せません! 我が軍は、冷戦下の今も、来るべき日に備え緊張の糸を緩めてはいません! 当時のあなたと共に最前線に立っていた将軍も、『英雄』の下で再び戦おうとされている! それなのに、なぜあなたは! こんな辺境の村で、二十年も道草を食っているのですか! 最強の将軍と謳われた、あなたの魂はどこへ行ったのです!」

 それは、国に全てを捧げて生きてきた男の、魂からの叫びだった。この男も、かつては自分と同じ魂を持っていたはずだ。なのに、なぜ。

 フェザンは、その叫びを静かに受け止めると、ぽつり、と呟いた。

「……そんなくだらないモン、とっくに捨てたよ」

「くだらない?」

「そうだ。おまえさんにとっては命より大事な使命かもしれねえ。昔のオレも、そう信じて疑わなかった。だがな、残り少ない資源を奪い合うために、仲間も、敵も、何の罪もない民間人も、みんな浪費していく。そんな生き方が、心底バカバカしくなっちまったんだ。だから、やめた。……ミオも、そんなくだらないものの、犠牲者だ」

 フェザンの声が、温度を失っていく。

「オレはもう軍人じゃねえ。国のことなんざ、どうでもいい。戦争したけりゃ勝手にすればいい。だがな」

 彼の瞳が、初めて剥き出しの殺意を宿した。

「オレの大切なモンを、これ以上奪うってんなら……許せるわけ、ねえよなあ?」

 その瞬間、リバレインは全身の肌が粟立つのを感じた。目の前の男から放たれる覇気が、空気を震わせる。

 ——消えた。

 そう認識したときには、すでに懐に潜り込まれていた。リバレインの顎を狙う掌底が、下から突き上げられる。咄嗟に身を捻ってそれを躱し、後方へ跳ぶ。気がつけば、ふたりの立ち位置は、完全に入れ替わっていた。

 額に滲む冷や汗を、リバレインは隠せない。

「おまえさんは、四人目だ」

 フェザンが静かに告げた。

「何のです」

「ボンベルタの命令で、この村に潜入してきたスパイの」

「……初耳です」

「だろうな。あのクソ野郎も鬼畜だぜ。自分の部下を三人も殺してる奴がいる場所に、何も知らせずにおまえさんを送り込むんだからよ」

 リバレインは、息を呑んだ。

 フェザンは、寂しそうに眉を曲げたまま続ける。

「おまえさんがボンベルタの手下だってことは、一目見て分かった。しかも、わざとらしくオレに近づいてきた。気づかない方が無理だろ。そんなかわいそうなおまえさんには、さすがに同情したよ」

「同情?」

「だから、何も知らないふりをしてやることにした。このまま、ミオの痕跡なんて何ひとつ見つけられずに、ただの友人として、おまえさんと笑いあって歳をとるのも、悪くねえなってな。……まさか、ミオとそっくりな絵を描く娘が、向こうからやってくるとは思わなかったが。で、ヒカリエのことは、もうボンベルタに報告したのか?」

「……当然です」

 その一言が、どうしてか喉に引っかかりそうになった。いつのまにか、リバレインはフェザンから目を背けていた。

「そうか」

 その一言は、いつもの快活なフェザンからは想像できないほど、掠れていた。

「ミオの娘なら、あの男は喜んで手に入れるだろうな」

 次の瞬間、フェザンの右手の親指が、僅かに動いた。リバレインがその意味を理解するより早く、弾かれた小石が彼の右目に直撃する。

 一瞬の怯み。視界が赤く染まる。狭くなったリバレインの視野から、フェザンは消えていた。死角である右側へ瞬時に回り込んだと理解した瞬間、右肩が寸分の狂いもなく脱臼させられる。

「……ッ!」

 激痛に銃を取り落としそうになる腕を掴まれ、その銃口が、フェザンの手によって自らのこめかみに突きつけられた。

 そのとき、初めてフェザンと会った日のことが、走馬灯のように思い出された。


 ラビナ村へ、リバレインは役人として赴任した。表向きは、辺境の村の行政を担うため。だが、真の目的は、この村に隠遁いんとんしているはずの男、フェザンの監視と、彼が十七年前に逃した妻、ミオの行方を探ることだった。

 だが、十七年だ。これだけの歳月が流れ、何も手がかりがない以上、この任務に見込みなどないことは明白だった。この任務に成功するまで、都に帰ることは許されない。つまり、これは実質的な左遷だ。自分は、敬愛するボンベルタ元総督に見限られたのだ。その事実が、彼の心を重く蝕んでいた。

 村長に案内され、監視対象である男の小道具店を訪れたとき、リバレインは思わず息を呑んだ。棚に並ぶ品々の、なんと美しく、温かいことか。無骨だが、作り手の魂が込められたそれらは、任務の空虚さで凍てついていた彼の心を、ほんの少しだけ溶かした。

「とても素敵な品々ですね。特に、このペンダントトップには……心惹かれます」

 真っ白な鉱石を、繊細な鳥の羽の形に削り出したそれから、目が離せなかった。それは、偽りのない本心だった。

 すると、店の主であるフェザンは、意外な言葉を口にした。

「ほう。……じゃあ、おまえさん、作ってみるか?」

 買うのではなく、作る。その提案に、リバレインは呆気に取られた。

「いえ、僕はそれほど器用ではありませんので……」

「そうか? 『作りたい』って顔に見えたがな」

 フェザンは悪戯っぽく笑う。

「手先の器用さなんて、慣れりゃどうにかなる。もし、やりてえって思うなら、喜んで教えるぜ。おまえさんとは、なんだか仲良くなれそうな気がする」

 そのとき、隣にいた村長が「うむ。お主たちは、きっと良い友になるじゃろう」と、しわがれた声で笑った。

 友。

 その言葉が、リバレインの胸の奥を、不思議な感覚でくすぐった。

 大戦が続く中、彼はただひたすらに戦場に身を投じてきた。仲間はいても、友は作らなかった。別れが、あまりにも辛くなるからだ。

 だが、この男となら。この、太陽のように屈託なく笑う男となら。ボンベルタ元総督に見限られた自分なら。

「——ぜひ、教えてください! 師匠!」

 それが任務のためだったのか、それとも本心だったのか、自分でも分からなかった。

「師匠じゃねえ。友だち、だろ?」

 差し出された、ごつごつとした大きな手を、リバレインは迷うことなく固く握り返していた。


 現実の痛みが、甘い記憶を引き裂く。

 リバレインの身体からは、完全に力が抜けていた。心地の良い脱力感さえある。

 自分が本当にただの役人で、偶然この村に赴任してきて、偶然この男と出会っていたのなら——。そんなありえない『もし』が、脳裏をよぎって、消えた。

「なあ、リバレイン」

 フェザンの声が、耳元で静かに響く。

「どうしてだろうな。……おまえさんと初めて会った日のことを、思い出しちまった」

 その声には、万感の思いが込められていた。

「オレさ、あのときから、本気でおまえさんと親友になれると思ってたんだぜ?」

 こめかみに突きつけられた銃口の冷たさとは裏腹に、その言葉は、あまりにも温かかった。

「……ええ、僕もです」

 リバレインは、最期の力を振り絞って、そう答えた。

「我が友よ」

 そして、世界が弾けた。


 フェザンは、崩れ落ちるリバレインの亡骸を、そっと抱きとめた。

「おまえさんは悪くねえ。おまえさんは、ただ、自分の信じるもののために全力を尽くした、最高の男だ。だから——」

 その頬を、一筋の涙が伝う。

「——おまえさんが、あの雲の向こうで、くだらない使命なんかに囚われず、笑って暮らせることを、心から祈らせてもらう」

 亡骸を肩に担ぎ、フェザンは静かに転移装置へと向かう。

「追っ手が来るってことは、あいつがまだミオの行方を掴めてないってこと。そう思って先延ばしにしてたが——」

 彼の脳裏に、ヒカリエと、若き日のミオの笑顔が浮かんだ。頭の中で並べてみると、本当によく似ている。

「……あいつの旅を、邪魔させるわけにはいかねえんだ。おまえも、そう思うだろ? ミオ」


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