5 彼の使命
ヒカリエがこの村を旅立つ日の明け方。
フェザンは、いつものように日課の散歩に出ていた。冷たく澄んだ空気を肺いっぱいに吸い込み、ゆっくりと村を一周する十五分ほどのコース。それが終われば、ヒカリエと共に朝食をとり、約束の『空の夢』へと向かうはずだった。
役場の前を通りがかると、村長が箒を手に、落ち葉を掃いていた。
「よう、村長。朝から精が出るな」
「おお、フェザンか。お主こそ、早いな」
挨拶を交わすフェザンに、村長は思い出したように「そういえば」と声をかけてきた。
「リバレインのこと、聞いたか?」
「リバレイン? いや、何も」
「それがな、昨晩、急に都から通達があってな。明日付けで、急遽異動になったそうなんだ。あんなに村のために尽くしてくれたというのに、あまりにも一方的で……」
村長の言葉が、フェザンの脳天を鈍器で殴りつけたかのような衝撃を与えた。
リバレイン。異動。なぜ、このタイミングで。
脳裏に、あの純真な笑顔で、白と金色の筆について語るヒカリエの姿がよぎる。
まさか——。
最悪の予感が、全身の血を凍らせた。
「すまん、村長! 急用だ!」
フェザンは、困惑する村長に背を向け、全力で駆け出した。自宅までの三分が、永遠のように長く感じられる。
店の扉を蹴破るように開け、家の中へ転がり込む。
「ヒカリエ!」
返事はない。
階段を二段飛ばしで駆け上がり、彼女に貸していた部屋の扉を開け放つ。
もぬけの殻だった。綺麗に整えられたベッドの上には、誰の温もりも残っていない。そして、部屋の隅に置いてあったはずの、彼女の画家道具一式が、跡形もなく消え失せていた。
「……しまった!」
吐き捨てた言葉は、誰に届くでもなく、がらんとした部屋に虚しく響いた。フェザンは踵を返し、家を飛び出した。
その頃、ヒカリエはリバレインと共に、薄暗い鉱山の中を歩いていた。
「フェザンさん、急用で遅れるなんて、なんだか寂しいですね」
「本当にね。でも、大丈夫。あの人なら、『空の夢』に着く頃には、きっと用事を済ませて合流してくれるさ」
リバレインの穏やかな言葉に、ヒカリエは「だといいんですけど」と笑った。
右手にはライト、左手には先ほどリバレインにもらった携帯食料。それを齧りながら、ひんやりとした坑道を進む。壁には電池式のランプが等間隔に設置されており、足元はおぼつかないものの、視界は充分に確保されていた。
だが、五分ほど歩いた頃だろうか。
ヒカリエは、身体に奇妙な重さを感じ始めた。視界がゆっくりと揺れ、地面を踏みしめる足から、力が抜けていく。
「あれ……?」
「どうしたんだい?」
隣を歩くリバレインが、心配そうに顔を覗き込む。
「なんだか、急に……眠たく……」
「朝、早かったからね。無理もないさ」
リバレインの声が、やけに遠く聞こえる。
ヒカリエの視界が、水の中にいるかのように、どんどんぼやけていく。抗えない眠気が、津波のように意識を飲み込んでいく。
「大丈夫。次に目が覚めた時には、もう目的地にたどり着いているよ」
その言葉が耳たぶを打った。だが、脳がその意味を理解する前に、ぷつり、と。ヒカリエの意識は、深い闇の中へと落ちていった。
崩れ落ちる彼女の身体を、リバレインは静かに受け止める。
「——都に、ね」
気を失ったヒカリエを肩に担ぎ、リバレインは彼女が手から落としたライトと、食べかけの携帯食料を拾い上げた。
「しっかり薬が効いてくれたようだね。……よく眠っている」
その寝顔に、一瞬だけ、罪悪感にも似た感情が胸をよぎるが、すぐにそれを振り払う。
彼は、迷うことなく鉱山の奥へと進み、やがて現れた三叉路を、躊躇なく左へと折れた。
その道は、「立ち入り禁止」と書かれた古びた看板と、一本のロープで無造作に塞がれていた。その先は、誘導灯もなく、完全な闇が口を開けている。
硬い岩盤の地面に、極力足跡を残さぬよう細心の注意を払いながら、リバレインは闇の中へと足を踏み入れた。ライトを消し、左手でごつごつした岩壁をなぞりながら、記憶だけを頼りに百メートルほど進む。
やがて、指先が、他とは僅かに感触の異なる岩肌を探り当てた。彼自身が仕込んだ、隠しスイッチだ。
それを押し込むと、ゴゴゴ、と低い音を立てて、目の前の岩壁が左右に開いた。現れたのは、人感センサー付きのライトと、一台の転移装置だけが置かれた、殺風景な小部屋だった。
リバレインは、ヒカリエの身体をそっと壁際に座らせると、転移装置へと向き直る。
「どうか、許してほしい。……これが、僕の使命なんだ」
誰にともなく呟き、装置に手をかざす。指紋認証は、問題なくクリアした。
次に、記憶していたパスワードを打ち込む。しかし。
〈入力したパスワードが間違っています。もう一度正確に入力してください〉
無機質な電子音と共に、赤い警告表示が点滅した。
「ん?」
入力ミスかと思い、もう一度、より慎重にパスワードを打ち込む。だが、結果は同じだった。
「どういうことだ……?」
ありえない事態に、リバレインの額に冷たい汗が浮かぶ。
そのとき。彼の背後、開かれたままの入り口から、静かな声がかけられた。
「パスワードなら、昨日、変えといたぜ」
はっとして振り返る。
そこには、扉に背を預け、腕を組んだフェザンが、いつものような朗らかな瞳で、こちらを見据えて立っていた。