4 傷跡
その夜、ヒカリエが寝静まった後も、フェザンの部屋のランプは静かに灯っていた。
彼は作業机に向かい、焼き上がったばかりの食器に、繊細な筆運びで装飾を施していた。彼の手の中にある筆は、白と金色の装飾が施された、ヒカリエが持っていたものと揃いの品だった。
作業が一段落し、ふう、と深く息をつく。凝り固まった肩を回しながら、何気なく壁に立てかけてあった鏡に目をやった。
そこに映るのは、疲れの滲む、無骨な中年男の顔。
フェザンは、その顔の左半分を走る古い傷跡を、そっと指でなぞった。ざらりとした感触が、指先に過去の痛みを蘇らせる。
「……ミオ」
絞り出すように呟かれたその名は、静寂の中に溶けて消えた。
——あれは、十七年前のことだった。
その日は、妻であるミオの誕生日だった。
フェザンは、彼女のために作った特注の絵筆十本セットをプレゼントした。そのすべてに、白と金色の装飾が施されている。
「これは、世界に二セットしかない、とっておきの筆だ」
「わあ、きれい……! ありがとう、あなた」
生まれたばかりの娘を腕に抱いたまま、ミオは心から喜んでくれた。その弾んだ声が、ゴホッ、と苦しげな咳に変わる。フェザンは慌てて彼女の背中を支えた。
「最近、また喘息がひどくなってきたな」
「そうね……。この子のことを、守らないといけないのに」
ミオは愛おしそうに娘の頬を撫でると、ふと顔を上げた。その視線の先、壁にかけられた一枚の絵に、フェザンの目も吸い寄せられる。
それは、先日ミオが『空の夢』を見て描いたという、空の絵だった。ただひたすらに青いその世界は、あまりに美しく、魂ごと吸い込まれてしまいそうなほどの引力を持っていた。
「本物の空を、三人で見るまでは、くたばってなんていられないわよね」
「ああ……そうだな」
フェザンは力なく頷いた。空が奪われて五百年。自分が生きているうちに、その願いが叶うことはないだろう。そう思いながらも、彼はその言葉を飲み込んだ。
そのときだった。村の穏やかな空気が一変した気配がした。それは、この平和な村にはそぐわない、冷たく、そして敵意に満ちた空気だった。
「……ミオ。家の裏にある転移装置の使い方は、分かるな?」
「ええ、分かるけど……どうして?」
「念のためだ。すぐに使えるように、保存食を持って準備しておいてくれ」
ミオの不安げな顔に、フェザンは努めて穏やかに微笑みかける。そして、彼女の唇に、そっと自分のそれを重ねた。
「行ってくる」
この家の裏には、秘密の転移装置が設置してあった。半径三千キロメートル圏内の指定した五箇所へと瞬時に移動できる、高価な代物だ。材料の調達のためと言い訳してはいたが、本当は、フェザンという、この平和な村にいるべきでない男のせいで巻き起こるかもしれない悲劇に備えた、最後の切り札だった。
フェザンが店の外に出ると、百メートル先の村の入り口に、あきらかにこの村の者ではない、長身の男たちが四人立っていた。上質な軍服に身を包んだその顔には、見覚えがある。
「ボンベルタ総督の側近か……」
三大大国ミラ・スワルフツァの軍を統べる男、ボンベルタ総督。フェザンは過去に彼へミオを紹介し、彼女の絵を見せてしまったことがあった。そのときの、獲物を見つけた肉食獣のような瞳を、彼は一生忘れないことだろう。あの日の後悔が、今、最悪の形で現実になろうとしていた。
フェザンはゆっくりと男たちへ接近する。
軍人たちは、何かにつけて村長に威圧的な態度を取っていたが、フェザンの姿を認めると、用済みとばかりに村長の肩を突き飛ばし、まっすぐにこちらへ向かってきた。
「総督の側近が、こんな田舎の村に何の用だ」
フェザンが静かに問うと、先頭に立つ男が、貼り付けたような笑みを浮かべた。
「フェザン殿。我々の顔を覚えていらっしゃったとは光栄です。ご家族はお元気で?」
「ああ。娘は毎日元気に泣き叫んでるよ。だが、妻は元々病弱でな。今は喘息で苦しんでる。近づかないでもらえると助かるんだが」
牽制の言葉も、男には通じない。
「それはお気の毒に。総督閣下は、最高の薬と看護師を用意してお待ちだとおっしゃっておられます」
「ミオを専属の画家にしたいという話なら、断ったはずだ。彼女はそれを望んでいない」
「この国において、総督の意志は絶対。総督は一度決めたことを、何十年かけてでもやり通されるお方です」
「力に溺れた下衆らしい、下品な野望だな」
フェザンの侮蔑の言葉に、若い軍人のひとりが激昂した。
「貴様! 今の発言を取り消せ!」
リーダー格の男がそれを手で制す。
「ご存知の通り、総督は手段を選びません。ここは、素直に従うのが吉かと」
「その言葉、そっくりそのまま返してやる。去れ」
交渉の余地はない。そう悟った瞬間、リーダー格の男は、手にしていたライフルを、躊躇なく村長に向けた。
「てめえ!」
「おい、拘束しろ」
男の号令で、残りの三人がフェザンに飛びかかる。抵抗すれば、村長が撃たれる。フェザンは、唇を噛み締め、なすすべなく手錠をかけられた。
「ミオ様の元へ、ご案内願おうか」
フェザンは舌打ちし、渋々自宅の方へと歩き出す。そして、ありったけの声を張り上げた。
「逃げろ、ミオォォッ!!」
その叫びと同時に、背中にライフルのグリップによる強烈な一撃を食らう。だが、彼は倒れない。歯を食いしばり、仁王立ちで耐えた。軍人たちが散り散りに走り出すが、彼らはどの家がフェザンの店なのかを知らないため、なかなかフェザンの小道具店にはたどり着けない。
「クソが!」
リーダー格の男は苛立ちを隠さず、腰の短剣を抜き放つと、力任せにフェザンへと切りつけた。後ろ手に縛られたままでは、完全に避けることはできない。鋭い痛みが左顔面を走り、生温かい血が視界を赤く染めた。
「我々は、多少の犠牲が出ても構わぬと許可を得ている。村の人間を無差別に殺されたくなければ、ミオ様の居場所へ案内しろ」
左顔を血で濡らしながらも、フェザンはいつものように「へいへい」と軽く応じた。
自宅兼店舗に戻ると、そこにはもうミオと娘の姿はなかった。プレゼントした筆も、そして、あの『空の夢』の絵も。
「どこへ逃した?」
「こっちだ」
フェザンは店の奥へと進み、隠し扉を開けて転移装置を見せる。
「この辺鄙な村に、なぜこんな物が……」
「ただの商売道具だよ。金だけはあったんでな。まあ、ミオがどこに逃げたかはわからんが、せいぜい手分けして探しなよ」
「その余裕は何だ? 何を企んでいる?」
「何も。ただ、ミオを最初に捕まえたやつは、オレが必ず殺してやる」
室温が下がるほどのフェザンの覇気に、男たちは身震いをした。
リーダー格の男が「……余計なことはするなよ」と冷や汗を掻きながら警告し、転移装置に触れる。指紋認証エラーが発生したのを見て、フェザンは笑う。
「指紋認証を突破したとしても、その次が無理なんだよな。使えるようにしてやるから、手錠、外してくれよ」
そう嘯いてみると、リーダー各の男はしばし逡巡したが、「いいだろう」と頷いた。フェザンの手錠を外す。
「どうも」
フェザンは転移装置を起動させるふりをしながら、懐に隠し持っていた硬い鉱石で、その心臓部を力任せに叩き割った。
ガシャン、と鈍い音が響く。
「何をしている!」
男がライフルのグリップで殴りかかってくるが、今度はその手首を、フェザンは片手でがっしりと掴み、止めていた。
「へへっ。これで、もうミオは追えない。おまえさんたちも、このオレもな」
「貴様……!」
四人の軍人が、一斉にフェザンへと銃口を向ける。
その殺意のど真ん中で、フェザンは鉱石を握りしめ、挑戦的に笑ってみせた。