3 形見
リバレインが帰宅した頃には、すっかり日が落ちていた。店内にふたりきりになると、フェザンは「腹、減ったろ」と言って、キッチンへ戻る。
「手伝います!」
「いいよいいよ、もうほとんどできてるし、キッチン狭いからさ」
「でも……せっかくタダで泊まらせてもらっているのに」
「じゃあ、明日の夕飯を任されてやってくれるか?」
「はい!」
十分後、食卓に並んだのは、湯気の立つ熱々のシチューだった。この村で採れたというゴツゴツした根菜と、干し肉をじっくり煮込んだもので、香辛料の代わりに木の実を砕いたものが使われているらしい。スプーンですくって口に運ぶと、素朴だが深い味わいが、冷えた身体にじんわりと染み渡っていく。
「おいしい……!」
「そいつはよかった」
シチューにがっつくヒカリエに優しい笑みを浮かべ、フェザンは正面の席に座ってシチューを食べ始めた。
夢中で食べ進めるヒカリエは、ふと思いついたように顔を上げた。
「フェザンさん。この辺りに、知る人ぞ知る絶景みたいな場所ってありませんか?」
その問いに、フェザンのスプーンを運ぶ手が、ぴたりと止まった。数秒の逡巡の後、彼はわざとらしく視線を泳がせる。
「……ねえな」
「怪しいです」
ヒカリエはジト目でフェザンを見つめた。
「ぜひ、見てみたいです。お手伝いでもなんでもしますから、教えていただけませんか?」
食い下がるヒカリエに、フェザンはため息をつくと、観念したように言った。
「……じゃあ、おまえさんの絵を見せてみろ。オレはこう見えて、絵を見る目はある。絵を見て、画家の本質を見抜くくらいにはな。その本性が、充分に信用できるものなら、教えてやるよ」
フェザンの小柄ながらもがっちりとした風体を、ヒカリエは見つめる。
「絵のことがわかるなんて、意外ですね」
「失礼だな」
「あ、すみません! つい!」
「まあ、手先が器用には見えないとは、よく言われるよ。それより、絵はあるか?」
「はい! あります!」
ヒカリエは勢いよく椅子から立ち上がる。
「メシ食ってからにしな」
「す、すみません……思い立ったら、すぐ身体が動いちゃって」
フェザンは呆れたように笑う。
「思い立ってこんな辺鄙な村まで来るんだ。大したもんだよ、おまえさんは。歳は?」
「十八です」
「十八、か……」
「どうしたんですか? もしかして、別れた奥さんについていったお子さんがそれくらいのお年とか?」
「変な妄想してんじゃねえよ。別れた奥さんってなんだよ」
「す、すみません……。なんとなく、ここが家族で暮らすために作られた家に見えたので」
そのヒカリエの指摘に、フェザンは笑みを消し、静かに尋ねた。
「……その心は?」
「おうちの綺麗さやコンセントの形状からして、築二十年くらいに見えました。このキッチンテーブルもそれくらいの年季がありますし、ひとり暮らし用にしては大きいです。二階のお部屋も二部屋あって、似た間取りのようですし、夫婦おふたりの個室だったのかな、って見受けました。その奥さんの部屋だった部屋を、旅人の宿として運用してるのかなー、って」
「なるほどな。いい着眼点だ」
フェザンはそれ以上何も言わなかった。
食後、ヒカリエは二階の自室からスケッチブックと画材道具一式を持ってきた。これまでの旅で描いてきた水彩画のポストカードを、テーブルの上に一枚一枚並べていく。
フェザンは、その中の一枚、霧深い湖と森を描いた絵を手に取った。あまりに鮮やかで、透明感のある色彩。まるで、その場の空気の湿り気まで伝わってくるようだ。
「ほう……これは大したもんだ」
彼は心底感嘆したように呟いた。
「どんな筆や顔料で描いてるんだ?」
「こちらです」
ヒカリエは道具箱から絵の具セットを取り出す。
「絵の具は、ごく普通のものです。ただ、絵筆だけは、昔からずっと使っている古いものを使ってます。たくさんの絵筆を使ってきましたが、これが一番手に馴染むんです」
彼女が差し出した十本の絵筆の持ち手には、白と金色の緻密な装飾が施されていた。
「でも、少し前にこの一番太い絵筆の毛を傷つけちゃったんですよね。これくらいの小さな絵だとあまり使わないので問題ないのですが。またどこかで買い足さなきゃ」
絵筆に目を向けていたヒカリエが顔を上げると、フェザンの表情が凍りついていた。目を見開き、まるで時が止まったかのように硬直している。
「フェザンさん? どうしたんですか?」
「……いや。上等な筆だな、と思ってな」
フェザンは、なんとかそれだけを絞り出した。その声は、微かに震えている。
「ですよね! 旅の途中で、あちこちのお店を巡って探してるんですけど、同じものはどこにもないんです。すごく上等なものなのは間違いないんですけど。……これ、私の産みの母の、形見なんです」
ヒカリエは、少しだけ寂しそうに微笑んだ。
「私、赤ん坊の頃に母を亡くしてて。物心がついたときには、私を拾ってくれた今のお父さんの家にいたんです。母と私が道端で倒れていたのを、商人だったお母さんが見つけてくれたそうで。そのときはまだ母にも息があったらしいんですけど、町に運ぶ頃にはもう……。そんな母が唯一持っていたのが、この絵筆たちと、一枚の『空の絵』だったんです」
「空の絵……」
フェザンが、うわごとのように繰り返す。
「はい。広いキャンバスに、ただ一面の青い空が描かれているんです。本当に、青だけ。でも、不思議とすごく綺麗で……写真で見たどんな青空よりも、ずっと素敵に見えるんです。その絵を見ながら育ったから、いつか私も、あの雲の向こうにある本物の空を見てみたいって思うようになりました。そして、『英雄』さんが、空を取り戻してくれると約束してくれた。その日が来るのが、私は楽しみで楽しみで仕方がないんです」
夢中で話し続けていたヒカリエは、はっと我に返った。
「あ! すみません! つい、自分の話ばかり……」
「いや、いいんだ」
フェザンは、静かに首を振った。
「その夢、叶うといいな。いや……おまえさんなら、必ず叶えられる」
その声には、不思議なほどの確信が込められていた。そして、彼はヒカリエの瞳を、射抜くようにまっすぐに見つめる。
「約束してくれ。その絵は、この村にいるうちは誰にも見せるな。おまえさんの道具も、だ。いいな?」
有無を言わさぬ、真剣な眼差し。
ヒカリエは戸惑いながらも、こくりと頷いた。
「……それなら、教えてやろう。『空の夢』について」
「空の、夢?」
「ああ。ここの村人だけが知る、鉱山の奥深くにある縦穴だ。そこではな、朝の限られた時間だけ、頭上から射す陽光が、薄い岩壁に分厚く凍てついた氷を透かすことで、壁一面の真っ白な大理石が、鮮やかな青色に染め上げられる。まるで、本物の空のようにな」
それから三日後の昼下がり。
ヒカリエは、店の作業場でリバレインと二人、小さな木製の置き物を作っていた。彫刻刀で猫の形を彫り出そうとしているが、なかなか思うようにいかない。この三日間、空いた時間を見つけては作業していたが、完成にはまだほど遠かった。
「フェザンさんが、『空の夢』を旅の人に教えるなんて、珍しいですね」
リバレインが、自分の手元から目を離さずに言った。
「そうみたいですね。あまり観光客が来てほしくないとかで。リバレインさんは、行ったことあるんですか?」
「ええ。フェザンさんではなく、八百屋の娘さんに教えてもらって。……それはもう、神秘的でした。言葉では言い表せないほどの感動でしたよ。今は山に入れませんが、じきに入れるようになるので、楽しみにしておいてください」
「はい、とても楽しみです。四日後、私がこの村を旅立つ日の明け方に、連れて行ってくださる約束なんです」
ヒカリエは、木を削るリバレインのたくましい腕を、そっと盗み見る。あの腕に、抱きしめられたら、どんな感じがするのだろう。硬いのだろうか。それとも、やわらかいのだろうか。そんなことを考えて、顔が熱くなる。
恋、というほどではない。と思う。だが、このままここに居続けたら、いつか本当に恋をしてしまう予感があった。旅の間はひとつの場所に一週間以上留まらないと決めた過去の自分を少し恨めしく思う一方で、そのルールのおかげで深く踏み込まずに済むことに、どこか安堵している自分もいた。
そんな邪念を振り払うべく、ヒカリエは話を変えた。
「フェザンさんの顔の傷、昔はやんちゃしてたんでしょうかね。なにか、ご存じですか?」
「ふふ、そんな感じがしますよね。僕もよく知りません。聞いたら何事もないかのように教えてくれそうではあるのですが、踏み入れちゃいけない領域な気がして」
「わかります!」
「でしょ?」
リバレインは穏やかに笑う。
「フェザンさんは、ずっと年下の僕に、高圧的な態度ひとつ取らず、友人のように接してくださる。それが、すごく嬉しいんです。本当に、あの人に出会えてよかった」
そのとき、店に人が入ってくる足音がした。
「フェザンさーん」
「はーい」
ヒカリエは手元の作業を中断し、店へ戻る。そこにいたのは、先日彼女がツルハシを届けた小柄な男だった。
「よう、お嬢ちゃん。フェザンさんは不在かい?」
「こんにちは! 今、森の方に、なんとかっていうイタチを狩りに行ってるみたいです」
「イタチ? なんでまた」
「さあ……私にも分かりません」
「そっか。まあ、いいや。それよりよ! フェザンさんに修繕してもらったツルハシなんだけど、以前よりも格段に使いやすくなったんだ! その礼を言いたくてさ!」
「え?」
そのツルハシは、刃こぼれしていた頭部をフェザンが修繕したが、なぜか柄も短くなっていたというものだ。
「柄が短くなってよ、めちゃくちゃ振りやすくなったんだ! 体の小さい俺に合わせてくれたのかって聞きたかったんだが……まあ、どうせあの人なら『偶然だ』って誤魔化すか。ともかく、ありがとうって伝えておいてくれ!」
男は嵐のように言うだけ言って、満足そうに去っていった。
フェザンが村のみんなから愛されている理由が、またひとつ分かった気がした。
「よし、できた」
作業場で、リバレインが満足そうな声を上げた。彼の手には、犬の置き物が完成していた。均一な四本の脚でテーブルに立つその姿はたくましく、今しがた目の前で出来上がったとは思えないほどの完成度だった。
「すごい! かわいいですね!」
「あはは、どうもありがとう」
それに比べて、自分の猫は、脚の太さも長さもバラバラだ。これ以上削れば、どんどん短足になる未来しか見えない。胴体も顔も、なぜか異様に平べったい。
「私のは、もうこれ以上どうしようもないかな……」
「最初はそんなものだよ。それに、これはこれで味があると思うけどな」
慰めてくれるリバレインの言葉に、「うぅ……」と唸りながら、ヒカリエはとあることを思いついた。
彼女は二階の自室から絵の具セットを持ってくると、不格好な猫の置物に筆を入れる。平たい胴体が、かえって小さなキャンバスとして功を奏した。リバレインをイメージした一本の大きな木と、まだ見ぬ空想の空、太陽を、その狭い世界に描き込んでいく。そして、あっというまに美しくも力強い風景画ができあがった。
「これ、もしよかったら、どうぞ」
ヒカリエが完成した猫の置物を差し出すと、リバレインは一瞬、呆気に取られたような顔をした。
「え?」
「私がここにいた証です。世界にひとつだけの、貴重な品ですよ」
背筋を伸ばして得意げに言ってみたものの、すぐに恥ずかしくなって顔が赤くなる。
「それに、ほら、私は旅人ですから。荷物は少ない方がいいので」
リバレインは、彼女の言葉にふわりと微笑むと、その小さな置き物を、壊れ物に触れるかのように、そっと受け取った。
「ありがとう、ヒカリエちゃん。大切にするよ」
「どういたしまして」
ヒカリエは満面の笑みを返した。ここを離れる日が刻一刻と近づいているのだと実感しながら。