2 小道具店の弟子
フェザンに渡された地図を頼りに、ヒカリエはまず一軒目の家へと向かった。子どもが三人いるというその家は、村の中心から少し外れた場所にある、可愛らしい木造の建物だった。
呼び鈴を鳴らし、待機する。すると、ドアの向こうからドタドタと誰かが近づいてくる音がした。音がドアのすぐそばまできたかと思うと、ドタン、という大きな物音と、「痛っ!」という女性のくぐもった悲鳴が聞こえてきた。
何事かとヒカリエが身構えていると、ガチャリと音を立ててドアが開く。そこに立っていたのは、膝を手でこすり、今にも涙が溢れそうになっている妙齢の女性だった。
「いてて……どなた?」
「こんにちは。フェザンさんに頼まれて、お茶碗をお届けにきました」
ヒカリエが梱包材で丁寧に包まれた六つのお茶碗を差し出すと、奥さんは「ありがとう」と受け取りながらも、首を傾げた。
「あら? 六つもあるわ。たしか、五つしか頼んでいなかったはずだけど……」
奥さんは困ったように眉を下げたが、すぐに諦めたようにふっと笑みをこぼし、梱包材に包まれたお茶碗ひとつをヒカリエに渡した。
「もう、本当にフェザンさんはドジなんだから。ひとつ、返しておいてね」
さっき派手にこけてたあなたも、大概のドジだと思うけど……。
ヒカリエは心の中でそっと呟きながら、にこりと微笑んでその場をあとにした。
次に向かったのは、鉱山で働く男の家だった。
出てきたのは、ヒカリエとさほど背丈の変わらない、小柄だが筋肉質な若い男だ。日に焼けた顔に、人の良さそうな笑顔を浮かべている。
修繕されたツルハシを受け取ると、男はそれをまじまじと眺め、「あれ?」と小さく声を上げた。
「どうかしましたか?」
「いや……なんだか、柄が少し短くなってるような気がして」
まただ。ヒカリエは、先ほどのお茶碗の件もあり、これもフェザンのミスに違いないと確信した。
「すみません! きっと、フェザンさんの間違いで……」
「いやいや、いいんだよ」
慌てて頭を下げるヒカリエを、男は笑って制した。
「うっかり者のフェザンさんのことだから、きっとどこかに傷でもつけちまったんだろう。それを隠すために、ちょいと短く削ったに違いねえや」
男は悪戯っぽく片目をつぶる。
「まあ、使い勝手はあまり変わらんだろうし、大丈夫、大丈夫。わざわざありがとうな」
そう言って笑う彼の顔に、不満の色は少しも見えなかった。
二件の配達を終え、ヒカリエは小道具店へと戻った。フェザンに、お茶碗がひとつ多かったことを伝えると、彼は悪びれもせずに鼻を鳴らす。
「サービスだよ、サービス。あのドジな奥さんと、あそこのやんちゃなガキどものことだ。どうせすぐにひとつくらい割っちまう」
嘘か本当か分からないその言葉に、ヒカリエは半信半疑の目を向ける。
「もう一度届けてきてやれ」
「ええー!?」
「そうだ。どうせならひとつ追加してやろう。多めに作っておいたんだ」
フェザンは棚からもうひとつお茶碗を取り出し、梱包してヒカリエに渡した。
「料金は五つ分なんですよね?」
「細かいことは気にするな」
「それでよくサービスできますね」
「問題ねえよ。なにせ、この村の全員が固定客だからな」
カッカッカッ、とフェザンは快活に笑う。
「そういうものですか……」
不満を漏らしながらも、ヒカリエは持って帰ってきたお茶碗を手に、再びあの家へと向かう羽目になった。
家の前にたどり着いた、まさにそのときだった。
パリン、と。家の中から、何かが割れる甲高い音が響いた。
おそるおそる呼び鈴を鳴らすと、先ほどの奥さんが、泣きそうな顔でドアを開ける。
「ごめんなさーい! さっきもらったばかりのお茶碗、早速ひとつ割っちゃったの!」
ヒカリエは、手に持った追加のお茶碗ふたつをそっと差し出した。
「……こちら、サービスらしいです」
ひとつならともかく、なぜかふたつあるお茶碗に、奥さんは目を丸くした後、ぱあっと顔を輝かせた。その満面の笑みに、ヒカリエは苦笑いを返すしかなかった。
店に戻ってくる頃には、空の橙色はすっかり深みを増し、山々の稜線を黒い影へと変えていた。
店の中にフェザンの姿はない。カウンターの奥も覗いてみたが、もぬけの殻だった。
「どこかに行ったのかな」
すると、作業スペースの方から、ゴリ、ゴリ、と何か硬いものを削る音が聞こえてきた。
カウンターを回り込んで奥へ進むと、そこにいたのはフェザンではなかった。
ランプの灯りの下、作業台に向かって黙々と鉱石を削っている、大柄な男の背中。
その気配に気づいたのか、男がゆっくりと顔を上げた。
三十代後半から四十代前半だろうか。歳を重ねた渋みはあるが、それを補って余りあるほどに、整った爽やかな顔立ちをしていた。通った鼻筋、理知的な光を宿す瞳。
ヒカリエの心臓が、きゅんと音を立てた。
「ヒカリエさん、ですよね。フェザンさんから伺っています」
低く、それでいて穏やかで、耳に心地よく響く声。どきり、と胸が高鳴る。こんな気持ちになったのは、いつ以来だろう。
「僕はリバレインと申します。フェザンさんの弟子を、やらせてもらっています」
彼が立ち上がって丁寧にお辞儀をする。その紳士的な振る舞いに、ヒカリエの頬が微かに熱を持った。
そのとき、店の奥、住居スペースに繋がる扉が開き、エプロンをつけたフェザンがひょっこりと顔を出した。
「弟子じゃなくて友だちだ、っていつも言ってるだろうが」
フェザンは呆れたように言うと、リバレインの隣に立つ。長身のリバレインの隣に立つと、小柄なフェザンはまるで子どものように小さく見えた。
「それほど、あなたの腕前に敬意を払っているということですよ」
リバレインは、悪戯が成功した子どものように微笑んだ。
フェザンが改めて紹介してくれる。リバレインは村役場に勤める公務員で、二年前にこの村に赴任してきたとのこと。そして、仕事が終わると趣味でフェザンの下で小道具作りを学んでいるのだという。
「見てください、フェザンさん。まだ完成はしてないですが、どうでしょうか」
リバレインが、作りかけのペンダントトップをフェザンに見せた。村で採れた鉱石を、鳥の羽の形に削り出したものだ。繊細で、美しい。
「ほう。よくできてるじゃねえか。これ、おまえさんが初めてここに来たときに、おまえさんが気に入ったやつによく似てるな」
「え! 覚えていらっしゃったんですか! そうなんです! あれは結局売れてしまいましたが、その代わりに僕自身が作るんだと決意して、ここまで頑張ってきたんです!」
「そうか。この品質のまま磨き切ったなら、充分ウチの店頭に並べられるな。いや、おまえさんなら、もう自分の店を出せるんじゃないか?」
「それはさすがに買い被りすぎでは」
「友に嘘はつかねえよ」
フェザンがぶっきらぼうに褒めると、リバレインは花がパッと開くような、幼い笑みを浮かべた。
その無邪気な笑顔に、ヒカリエの心は、また少し、彼の方へと傾いていくのを感じていた。