1 鉱山村の小道具店
空気を切り裂くモーター音が途絶えると、辺りは深い静寂に包まれた。
ヒカリエは愛用のスクーターから降り立ち、その機体にそっと手を触れる。次の瞬間、金属の塊はまばゆい光の粒子へと分解され、あっという間に彼女の手のひらに収まるほどの滑らかな球体に収束した。それをポーチにしまうと、ようやく一息つく。
「寒い……」
吐き出した息が、目の前で真っ白な塊になって冬の近い空気に溶けていく。分厚いウインドブレイカーを着込んでいても、山間の冷気は容赦なく肌を刺した。
ゴーグルを外し、現れた村の全景に、ヒカリエは目を細める。
深い森に抱かれるように、山肌に寄り添うようにして、白い家々が肩を寄せ合っていた。建物の壁も、家々を繋ぐ石畳の道も、真っ白な鉱石がふんだんに使われている。けれど、そこに都会的な洗練さはなく、むしろ質実剛健で、どこか温かい空気が流れていた。どの家も背が低く、いくつかの煙突からは夕餉の支度だろうか、細く白い煙が立ち上っている。
「ここがラビナ村……」
地図上にある名前しか知らず、山奥にふさわしい質素な村かとヒカリエは思っていたが、思っていたよりも活気を感じた。
頭上には、どこまでも続く灰色の高い雲。その下に、綿菓子のような小さな雲がいくつか、ぷかぷかと浮いている。遥か遠くに霞んで見える山脈のさらに奥では、灰色の雲から夕暮れを示す淡い橙色がかすかに透けていた。
ヒカリエは冷たい空気を胸いっぱいに吸い込み、満足そうに背筋を伸ばした。
「うん、天気はばっちりだ!」
石畳の道を歩いていると、トートバッグを肩にかけて歩く女性が目に入った。歳は三十代から四十くらいだろうか。化粧っ気は少なく、少々ふくよかな体格をしている。ややくすんだ青色のスカートと薄桃色のコートはあきらかに高価なものではなく、近所に買い物に出かける格好に見えた。主婦か、買い出し中の自営業者といったところだろうか。
ヒカリエは人懐こい笑みを浮かべて声をかける。
「こんにちはー! 旅の者です。どこかでしばらく泊まりたいと思っているのですが、どちらに伺えばよいでしょうか」
女性は驚いたように顔を上げたが、ヒカリエの姿を見ると、すぐに柔和な表情になった。
「あらあら、まあ。それなら、まずは村長さんのところに行くのがいいかな。案内してあげる」
「案内まで! ありがとうございます!」
「ちょうど村役場の方面に行こうとしてたから、ちょうどいいの」
親切な申し出に甘え、女性のあとをついて歩く。
「素敵な村ですね。こんなに山奥にあるのに、床が石造りに整備されているなんて」
「ええ。ここは石の生産が主要産業だから。ほら、向こうにゴツゴツした山があるでしょ?」
女性が指を刺した先には、岩肌が露わになった山々が間近に迫っていた。茶色の砂や岩が多いが、ところどころ真っ白な岩肌が見受けられる。
「あそこの岩は、磨けばすごく綺麗になるの。特に、大理石は高く売れるわね」
「大理石! 行ってみたい!」
「平日のうちは鉱石堀りのお仕事の邪魔になってしまうから、一般人は山に入れないけど、休日になったらぜひ行ってみるといいわ。この村はそれほど裕福じゃないけど、優しい人ばかりだから、みんな歓迎してくれるはずよ」
ヒカリエはそっと胸を撫で下ろす。これまで様々な町や村を回ってきたが、ここはかなり治安が良さそうだ。
女性は微笑みながら続ける。
「これから村長のところに行くんだけど、たぶん、フェザンさんのところに挨拶に行くように言われると思うわよ」
「フェザンさん?」
「ええ、小道具屋の店主のおじさん。宿屋も兼ねてるの。村長も私も、この村の人はみんな、あの人にはお世話になっててね。小道具どころか、なんでも屋さんみたいなところもあるんだけど」
「なんでも屋さん、ですか」
「うん。人相はちょっと悪いかもだけど、怖い人じゃないから安心して。すごくのほほんとした、人のいいおじさんだから」
そう言って女性はくすくすと笑った。そして、心配そうにヒカリエの顔を覗き込む。
「それにしても、こんな若い娘さんが一人旅だなんて、大変でしょう? よくここまで無事で来られたわね」
「私、こう見えて強いんですよ」
ヒカリエは悪戯っぽく笑い、力瘤を作った。
「父が武術家で、護身術とかはきっちり叩き込まれましたから。何度か危ない目に遭いかけましたけど、なんとかやってきました」
「あらまあ、たくましいのね」
女性は感心したように頷いた。
ほどなくして、こぢんまりとした石造りの役所にたどり着く。その前では、腰の曲がった老人が、黙々と箒で落ち葉を掃いていた。なんと、その人こそが村長だった。
事情を話すと、村長は「おお、そうかそうか」と皺の刻まれた顔をほころばせ、女性の言った通り、フェザンという人物を紹介してくれた。手渡された手書きの地図は、温かみがあって、少しだけインクが滲んでいた。
地図を頼りに歩くこと、三分。
『小道具店』とだけ書かれた小さな木製の看板。それが、簡素な石造りの二階建ての家の壁に、ぽつんと掲げられていた。
ドアベルの代わりに、重い扉を軽く叩いて、中へと足を踏み入れる。
「すみませーん」
薄暗い店内。棚には、工具や日用品、木製の小物入れ、用途のわからない木彫りの置物などが雑然と並べられている。店の奥、カウンターの向こう側で、無精髭を生やした熟年の男性が、椅子に深く腰掛け、腕を組んで居眠りしている横顔が見えた。
あの人が、フェザンさんかな。
ヒカリエは、彼の眠りを妨げないよう、そっと息を殺した。
その視線が、ふと入り口のそばにあった石造りの置き時計に吸い寄せられる。
青い文字盤が、店内の乏しい光を拾って、星屑のようにキラキラと輝いていた。
「きれい……」
思わず、感嘆の声が漏れた。
「その青色は、いたって普通の合成顔料で染めているが、キラキラとしたところは、この村で採った鉱石を削ったものだ。それを顔料に混ぜてる」
はっと顔を上げる。カウンターの向こうで眠っていたはずの男が、いつの間にか目を覚まし、大きなあくびをしていた。
そして、ヒカリエの方を向いた彼の左顔に、彼女は息を呑んだ。左の眉尻から耳たぶにかけて、まるで顔を分断するかのように、一本の古い切り傷が走っている。その生々しい痕跡が、彼の穏やかそうな寝顔の印象を、一瞬で不気味なものへと塗り替えた。
心臓が、どきりと跳ねる。
だが、好奇心は恐怖に勝った。
「このキラキラ、ほしいです!」
指を差して言うと、フェザンは片眉を上げた。
「親指の先くらいのサイズで、家が買えるほど高いが、いいか?」
「う……。さすがにそんなお金は……」
ヒカリエがしょげ返ると、フェザンは「ガハハ」と豪快に笑う。
その声はどこか温かくて、落ち着くものだった。
「だろうな。で、見ねえ顔だが、旅人か?」
村長からの紹介で来たことを伝えると、彼は「こんなところまでわざわざ大変だなあ」と、顔の傷が引き攣るのも構わずに、からりと笑った。その快活な笑顔は、先ほど感じた不気味さを嘘のように霧散させ、ヒカリエはほっと胸を撫で下ろした。
「旅の目的は?」
「今のうちに、世界中を回れるだけ回っておきたいんです」
「今のうち? ああ……冷戦中ってことか」
フェザンの目が、少しだけ遠くを見る。
この世界では、石油や天然ガスなどの資源が、三十年から四十年後には枯渇すると言われている。かつて人々は、その残り少ない資源を巡って、血で血を洗う大戦を繰り返していた。聞けば、彼女たちの祖先は、別の豊かな世界から迫害され、この痩せた大地に追いやられたのだ。
さらに、別の世界の者たちは、嫌がらせとばかりにこの世界全体を雲で覆い隠し、空をも奪ったと、ヒカリエは聞いたことがあった。
だが、一年前、ひとりの『英雄』が現れた。彼は、これまでどんな兵器を使っても傷ひとつつけることができなかった別世界への『扉』をこじ開ける技術を開発したのだ。そして、奪われたものを取り戻すと、全世界に約束した。その夢に人々は熱狂し、醜い奪い合いは、ひとまずの静寂を得た。
まだ『扉』の開放は叶っていないが、確かな手応えはあったようで、現在はその新技術を強化する研究が行われているらしい。まもなく完成するという噂を、ひとつ前に訪れた町でヒカリエは耳にしていた。
「そうです。もし、例の『英雄』さんの作戦が失敗して、また戦争が始まったら、もう旅なんてできなくなりますから。それに」
ヒカリエは窓の外に広がる一面の雲を見上げる。
「あの雲があるうちに、色んな景色を見ておきたいなって。雲がなくなったら、同じ景色はもう二度と見られなくなっちゃいますから」
「ほうほう。それは面白い発想だ。あの雲を大切にするような発想は、初めて聞いたよ」
「前の町でも言われました」
ヒカリエは照れ笑いを浮かべる。
「私って変ですかね」
「変だな」
「まだ会って数分なのに即答された!」
ショックを受けるヒカリエに、フェザンは「ガハハ! わりいわりい!」と笑う。その後、彼も窓の向こうを見て、物思いにふけるような、遠い目をした。
「……奪われた資源と空を取り戻したら、世界はどう変わるんだろうな。案外、今より悪くなっちまったりな」
「私は歴史に詳しくありませんけど、この世界を覆い隠して、私たちから空を奪った悪者から、取り戻すだけです。悪くなるはずがありませんよ、きっと」
根拠のない、しかし揺るぎない確信を込めた言葉に、フェザンは一瞬きょとんとし、やがて吹き出した。
「ああ。違いねえや」
話を聞き終えたフェザンは、一週間の滞在をあっさりと許可してくれた。宿代はタダでいい、と言う。
「その代わり、店の仕事を手伝ってくれ。オレは忙しいから、そうしてくれると助かる」
「でも、さっき居眠りしてましたよね?」
ヒカリエがすかさず指摘すると、フェザンは悪びれもせずに言った。
「いくら忙しくても、オレは寝たいときに寝る。で、寝てたから、なおさら忙しくなったってわけだ。あー忙しー忙しー」
のらりくらりとしたその態度に、ヒカリエは少し呆れながらも、思わず笑ってしまった。
「わかりました。何でも手伝います!」
その快諾に、フェザンは満足そうに頷くと、さっそくカウンターの裏から、ふたつの木箱を取り出した。
「じゃあ、まずはこのお茶碗六つと、ツルハシを届けてきてくれ」