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第2話:二つの剣

目が覚めてから、すでに半日が過ぎていた。


近藤勇は、もとい、足利義輝となった俺は、侍女たちが平伏する大広間を静かに見渡した。

豪華な襖絵。天井から吊り下げられた絢爛な飾り。

耳に届くのは、風雅な音色ばかりで、かつて聞いた、血と汗と悲鳴が入り混じった音ではない。

全てが、馴染まない。

着物一つとってもそうだ。こんな上質な絹の狩衣を着たことなどない。体のどこかを締め付けているわけではないのに、ひどく窮屈で、落ち着かない。


「殿下、本日は御前試合にて、武芸の鍛錬をされるとか。ご準備を」


そう告げる近侍の男の声も、どこか遠い。

(御前試合……)

その言葉に、近藤はわずかに胸が高鳴るのを感じた。

刀を握る。

その感触だけが、唯一の現実だった。


御所の庭に出ると、すでに数人の武者が集まっていた。

皆、見るからに剣の腕が立ちそうな者たちだが、その瞳に「志」や「覚悟」は見えない。

(利権か。血筋か)

かつて新選組で隊士たちの目を見て、その心根を見抜いたように、彼らの内面が透けて見えるような気がした。


竹刀を手に取る。

(なんだ、この軽さは……)

竹刀は、これまで近藤が振るってきた木刀や真剣よりも、はるかに軽く、しなやかだった。

相手は、御所でも随一の剣客として知られる男だという。

男が構える。その構えは、流れるように美しく、隙がなかった。

(ああ……わかる。この剣は、俺の知ってる剣だ……)

それは、足利義輝の記憶に深く刻まれた、研ぎ澄まされた剣技の記憶だった。


「参る!」


男が叫ぶ。

その声とともに、竹刀が閃光のように飛んできた。

近藤の体は、考えるよりも早く動いた。

足が、腰が、腕が、義輝の記憶に忠実に反応する。

まるで、別の誰かが戦っているかのように、流れるような剣技で相手の攻撃を受け流し、隙を突く。

一瞬の内に、男の喉元に竹刀を突きつけていた。


「ま、参りました……!」


男は、息をのんでそう言った。

周りからは、どよめきと、拍手が上がる。

その拍手は、どこか上滑りして、近藤の胸には響かなかった。

それは、血と汗と命を賭けて戦った自分には、あまりにも遠い、ただの儀式的な音だった。


「違う。これは、俺の剣じゃない」


近藤の胸から、怒りのような感情がこみ上げてくる。

あの夜、池田屋で仲間と背中を預け合い、血と酒にまみれて叫んだ剣。

土方と並び立ち、血にまみれても決して折れなかった剣。

芹沢鴨という悪を斬り、その上で自らの道を進んだ剣。

それこそが、俺の剣だ。この軽やかな剣は、近藤勇の魂ではない。


武者たちが去った後も、近藤は一人、庭に残った。

庭は不気味に整いすぎていた。一輪の草木も乱れていない完璧な空間。

遠くから聞こえる、風鈴の澄んだ音色が、その静寂をさらに強調する。

まるで、この世界そのものが、誰かが作り上げた精巧な箱庭のようで、近藤の神経を逆撫でする。

手に持った竹刀を真剣に持ち替え、素振りを始める。

将軍・足利義輝としての、美しく洗練された剣。

そして、新選組局長・近藤勇としての、泥臭く、命を懸けた剣。

二つの剣の記憶が、頭の中で激しくぶつかり合う。


義輝の剣は、相手の動きを読み、無駄なく正確に仕留める。

近藤の剣は、相手の魂の叫びを聞き、そのすべてを受け止めた上で、渾身の一撃を叩き込む。


──剣を振るたびに、義輝の剣が骨を軋ませ、近藤の剣が血を燃やす。その二つが、胸の奥で火花を散らし、融合しようともがく。その度に、全身の筋肉が悲鳴を上げ、腕の筋が千切れそうになるほどの激痛が走る。

竹刀を振るたび、空気が裂ける鋭い風音が耳奥を打ち、乾いた木の香りが鼻をくすぐる。掌にしみる汗が、なぜか舌の奥で鉄の味を思い出させた。

その苦痛こそが、近藤に安堵をもたらした。


「……これだ」


静かに呟く。

もし、このまま、この二つの剣が融合したらどうなる?

俺は、近藤勇として生きるのか、それとも足利義輝として生きていくのか?

この世界そのものが、もしかしたら俺が見ている死の夢ではないのか?

ならば、この剣を振るうこと自体が、夢の中での戦いなのか?

そんなことを考えても、答えなど出ない。だが、これだけはわかる。

この体と、この刀が、俺の魂を、また一つにしてくれている。

その音のすべてが、俺がここにいることを、証明してくれていた。


刀を通して、自分の体が、魂が、再び一つになっていくのを感じる。

それは、かつての自分とは違う。将軍・足利義輝の能力と、新選組局長の魂が、今、ここに、新しい一つの剣となって融合したのだ。


その時、一人の男が静かに近づいてきた。

その男の鋭い眼光は、周りの武者たちとは全く違っていた。

男の目は、まるで深い湖の底を覗き込むように、静かで、しかし、その奥には、決して晴れることのない曇り空のような迷いが潜んでいた。

近藤は、その男の瞳に、刀を振るうことへの純粋な「志」と、「迷い」を見出した。

男は、ただ近藤の素振りを見ていた。


男は一度、口を開きかけたが、何かを飲み込むように黙り込む。一瞬、苦しげに息を吐き、そして──


「……将軍様。あなたは、なぜ刀を振るうので?」


それは、近藤が最も聞きたかった言葉であり、この世界で、初めて心から交わす、言葉だった。

男の名は、明智光秀といった。

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