第17話:新しき世の胎動
長篠の戦いから、ひと月が過ぎた。
設楽原の戦場跡は、すでに人々の手で清められ、死者の弔いも終えられていた。
だが、近藤勇(義輝)の心には、まだ戦いの余韻が残っていた。
夜、一人、御所の庭に立つと、遠くでカラスの羽ばたく音が聞こえた。
昼間は賑やかな都も、夜になると、静寂に包まれる。
しかし、その静寂の奥には、長篠で見た、無数の屍と、血の匂いが、今も残っているような気がした。
近藤は、静かに、刀の手入れをしていた。
刀を拭う布の擦過音だけが、静かな庭に響く。
彼の脳裏に、鳥羽・伏見の戦いの記憶がフラッシュバックする。
「鳥羽伏見の夜、同じ鉄の味が舌に乗ったことを、義輝だけが知っている。」
喉の奥に鉄が滲み、勝利の二字は舌の上で重かった。
だが、その一方で、近藤の心には、確かな決意が芽生えていた。
「義は血を洗うか、血を増すか…」
近藤は、静かにそう呟くと、刀を鞘に収めた。
その様子を、明智光秀が見つめていた。
光秀は、戦後処理に追われていた。
彼の手元には、分厚い帳面が積まれていた。
それは、長篠で戦死した武士たちの名簿、そして、その遺族に渡す扶持の額が、詳細に記されたものだった。
光秀は、筆を執り、新たに条文を書き加える。
「筆先が乾いて『カサ』、墨が石で『ギリ』、釘が板で『トン、トン、トン』――条文は音になって都へ走る。」
光秀は、条文の最後に、「射撃時静寂」「伝令二重化」という言葉を書き加えた。
それは、長篠の戦いで得た教訓を、制度として定着させるためのものだった。
「辻では若党が小声で『掠めねば懐が寒い』とぼやく。触れ札の下、米一升の慰労金が袋の口を塞いだ。」
光秀は、制度の軋みと、その対処を冷静に見据えていた。
その頃、京の都は、将軍の勝利に沸き立っていた。
町角では、子供たちが、将軍の勝利を歌った。
子「父は帰らぬの?」
母「将軍様は名を記した。忘れさせぬ印だ。」
商人「帳簿が狂わぬ世こそ、腹が減らぬ世だ。」
人々の会話は、将軍の武士道が、言葉だけでなく、彼らの生活に、確かな安心をもたらしたことを示していた。
近藤は、森長可を呼び出した。
長可は、父の死を乗り越え、真の武士として成長していた。
彼の瞳は、かつての怯えを失い、将軍への忠義に満ちていた。
「長可。お前を、将軍直属の部隊の隊長に命じる」
近藤の言葉に、長可の目が、大きく見開かれた。
「将軍様…この長可、命に代えましても、将軍様の御為に…」
長可は、そう言って、深く頭を下げた。
近藤は、長可に、一本の刀を差し出した。
それは、父・森可成が使っていた脇指だった。
「父の脇指を腰に差し直し、鍔が『コト』と鳴った音だけが答えとなった。」
それは、父の死を乗り越え、真の武士として、成長していく、最初の一歩だった。
近藤は、光秀に、三箇条の布告を命じた。
それは、「私闘を禁ず」「兵糧の私益化を禁ず」「民の冥加を先とす」という、将軍の武士道を示す、具体的な政策だった。
辻の板は釘音を三度響かせ、墨は朝霧に艶を帯びた。条の終わりに“扶持”の一字が濃く沈む。
将軍の思想は、すでに、言葉だけでなく、制度として、天下に広がり始めていた。
それは、近藤勇が、この時代の「武士道」という名の革命を起こす、最初の一歩だった。
そして、その革命は、これから、天下を巻き込み、さらなる大きな戦いへと発展していく。




