水底の残響
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※プロットを共有し、誤字脱字の確認や執筆の補助、構成の相談でGemini(AI)と協力しています
「この先は、呪われた水底だ。生きた人間が行く場所じゃない」
老いた船頭の声が、湿った空気に溶けていく。
背後には、錆びた金属と藻に覆われた巨大な建造物の残骸が、霞む視界の向こうにぼんやりと浮かんでいた。
ここは"水没都市"と呼ばれる異世界の一角。
かつて栄華を誇った文明が、一夜にして大洪水に飲み込まれたという伝説が残る場所だ。
俺は"探索者"の一人として、この水没都市に足を踏み入れていた。
目的は、この世界の"水"にまつわる異常現象の調査。
最近、水没都市の周辺で原因不明の精神錯乱や失踪事件が多発しているという。
人々はそれを『水底の亡霊』の仕業だと囁き、恐れていた。
船頭が去り、静寂が訪れる。
水面は鏡のように滑らかで、空の鉛色の雲を映していた。
しかしその奥には、底知れない闇が広がっているように感じられる。
俺は防水装備を身につけ、酸素ボンベの残量を確認する。
水没都市の探索は、常に死と隣り合わせだ。
ゆっくりと水中に潜っていく。
視界は一瞬にして緑がかった闇に包まれた。
水は冷たく、肌を締め付ける。
しかし、奇妙なことに嫌な重さは感じなかった。
まるで空気の中を漂っているかのような浮遊感。
数メートル潜ると、巨大な建造物の輪郭がはっきりと見えてきた。
それはかつての高層ビルだろうか。
ガラス窓は割れ、内部は藻や泥に覆われている。
魚達が無数の亡霊のように、その間を縫って泳いでいた。
探索を進めるうち、奇妙な現象が起こり始めた。
最初は、微かな水音だった。
ペチャン、ペチャン
まるで誰かが水面で手を叩いているような音。
だが、上には誰もいない。
魚の動きも不自然ではない。
幻聴か、と最初は思った。
しかし、その音は次第に鮮明になり。
まるで耳元で水面を叩いているかのように聞こえるようになった。
──……助けて……──
声だ。水の中から響く、か細い女性の声。
それは助けを求める声でありながら、同時に底知れない誘惑を含んでいるようにも聞こえた。
俺は、声のする方へと引き寄せられるように泳いだ。
辿り着いたのは、かつて広場だったと思しき場所。
そこには、巨大な石像が横たわっていて。
その石像の顔は、苦痛に歪んでいるように見える。
石像の足元に、小さな光が見えた。
近づくと、それは水中に沈んだ白い日記だった。
防水加工が施されているらしく、文字はかろうじて読み取れた。
『水が、全てを奪った。空は灰色に染まり、大地は水底に沈んだ。私は、ただ見ていることしかできなかった。』
『声が聞こえる。水の中から、私を呼ぶ声が。それは、死んだはずの家族の声だ。』
『水に触れると、過去が見える。あの日の絶望が、鮮明に蘇る。』
『もう、抗えない。水が、私を呼んでいる。』
日記の最後のページは、乱暴に書きなぐられていて判読不能だった。
しかしその内容は、俺の背筋を凍らせた。
水に触れると過去が見える? 水の中から声が聞こえる?
まさに今、俺が体験していることではないか。
その時、あの水音がさらに大きくなった。
ペチャン、ペチャン、ペチャン
ペチャン、ペチャン、ペチャン
──……こっちへ……──
声は石像の奥から聞こえる。
そこはかつて、地下へと続く通路だったのだろう。
入り口は崩れ、瓦礫が道を塞いでいたが、水の中では瓦礫も軽々と動かせる。
俺は、日記に書かれていた「水に触れると過去が見える」という言葉を思い出した。
それが、この異常現象の原因なのか? だがなぜ今、俺にだけ聞こえる?
通路の奥へと進む。
水はさらに冷たく、暗くなった。
光が届かない場所で、俺はライトを点灯させた。
するとその光が、水中で蠢く無数の影を照らし出した。
それは、人だった。
水中で漂う、無数の人影。
彼らは、まるで水に溶けているかのように半透明で、しかし確かに、手足を動かしている。
彼らの顔は苦痛に歪み、口は開いているが、声は聞こえない。
だが、彼らの動きが、まるで俺を招いているかのように見えた。
──……来て……──
声は、もはや女性の声だけではない。
子供の声。男の声。老人の声。
無数の声が混じり合い、水中で響き渡る。
彼らは、水没都市の住人達だ。
大洪水で命を落とし、今も水底を彷徨う亡霊達。
彼らの影が、俺の周囲を取り囲む。
触れようと手を伸ばすと、影は水のようにすり抜けていく。
瞬間、俺の脳裏に鮮明な映像がフラッシュバックした。
巨大な波が、都市を飲み込む。
人々が叫び、逃げ惑う。
水が、全てを押し流し。
全てを奪っていく。
絶望。恐怖。そして、諦め。
それは、水没都市が滅びた瞬間の光景だった。
彼らの記憶が、水を通して俺に流れ込んできたのだ。
──……一人に……しないで……──
声が直接、脳に響く。
それは死者の魂の集合体であり、それぞれの絶望や後悔、あるいは安堵が、混然一体となって。
彼らは、孤独だったのだ。
水底に囚われ、永遠に彷徨い続ける孤独。
彼らは俺を、彼らの仲間として迎え入れようとしている。
俺は恐怖に駆られ、逃げようとした。
しかし、身体が動かない。
水が、俺の身体を締め付けているかのように重い。
無数の影が、俺の身体にまとわりつく。
彼らの冷たい手が、俺の肌を撫でる。
──……永遠に……一緒だ……──
声は、もはや囁きではない。
水底の底から響く、歓喜の叫びだ。
俺の視界が、水の色に染まっていく。
緑がかった闇が、次第に濃い青へと変わっていく。
俺は水の中で、自分の身体が溶けていくのを感じた。
肉体が、水と一体になっていく。
意識が遠のき過去の記憶が、水のように流れ去っていく。
最後に聞こえたのは、無数の声が混じり合った、不気味な笑い声だった。
数日後、水没都市の調査に向かった探索者達が、奇妙な報告をした。
「水底から、微かな水音が聞こえるんです。まるで、誰かが呼んでいるような……」
彼らは、その音が、水没都市の亡霊達の囁きだとは知らない。
そして、その水音が、新たな仲間を水底へと誘う。
終わりのない残響だということも。
ご一読いただき、感謝いたします