文貞編 壱
なんの因果か、出会うはずのない剣と遣手の邂逅。
私はそれに、運命と名付けた。
別府の屋敷は、端正だった。
庭木の刈り込みは形よく、廊下の艶も控えめながら品がある。
家人たちの言葉遣いも柔らかく、静かだが笑いもあり、怒声も響くことは稀だ。
厳しさのなかに調和があり、格式のなかに礼があった。
位が高いと評される所以は、そこにあった。
文貞が育ったのは、そういう家だった。
だからこそ、最初に受けた優しさや期待が後に重苦しくのしかかった。
兄――別府正隆は、誰が見ても申し分のない才子だった。
初めて竹刀を握った日から才能を開花させ、打ち込みの度に父や兄弟子達の褒め言葉響いた。
それだけではない。礼儀正しく、筆もぶれず、言葉遣いも整っていた。
誰もが彼を誉め、彼に期待し、彼の将来を口にした。
父もまた、大いに期待をかけた。
正隆がそばにいるときだけ、声に熱が宿るのだった。
正隆も、それに応えた。
稽古を怠らず、書を読み、立ち居振る舞いにもケチをつかせない。
ただし――文貞に対してだけは、別だった。
兄の目にはあからさまな侮りがあった。
木刀を握る様を見て、わざとらしく肩を竦める。
すれ違いざま、小さく嘲る声で「なんだその無様で醜い構えは。何処の流派の物真似だ?」と笑う。
それを聞いた周りの者が皆、苦笑まじりに目を伏せた。
文貞には、刀を振るう才がなかった。
竹刀を構えれば手が震え、足捌きも安定しない。
打ち込みは浅く、受けても受けきれず竹刀を取りこぼす、気を抜いてないのに反応が遅れ、肩を打ち据えられた。
書を開けば筆先が泳ぎ、弓を引けば的の外に消える。
それでも、誰からも怒鳴られたこともなかった。
ただ静かに、徐々にないものとして扱われていった。
名を呼ばれない。予定を聞かれない。稽古の輪に入れてもらえない。
食事時にも呼ばれない。道場の掃除すらさせてもらえない。
――別府家の空気は、変わらなかった。
ただ一つ、文貞だけが、その「空気の外」にいた。
十を迎えたある春の日、父に呼び出された。
座敷の床の間に、硯のにおいとともに一通の書付が置かれていた。
「内藤家に養子に出す。遠い親戚だ。向こうで静かに暮らすがいい」
それだけを言い、父は背を向けた。
母は何も言わず、ただ目を伏せた。
説明も慰めもなかったが、咎めもなかった。
ただ、関心そのものが――なかった。
出立の日の朝、空は薄く霞み、庭石の影が少し長かった。
けれど、屋敷を離れて吸った春の風は、不思議と胸に染み込んだ。
それが、「別府文貞」の終わり日の記憶だった。