葉院編 肆
葉院が椎を守った瞬間――
観客席、控えの席、関係者一同に戦慄が走った。
「乱入……っ!?」「あの女、何者だ!?」
どよめきと騒然が渦を巻く中、関係者席にいた部鮫が立ち上がり、顔を真っ赤にして叫んだ。
「何者だッ!!試合の最中になんたる無礼ッ!!つまみ出せィッ!!!」
だが、その声が言い切る前に、背後から静かな声が耳に入る。
「……無礼といえば、貴殿のほうが先に線を越えておられるのでは?」
部鮫が振り向くと、そこにはいつの間にか得玲久斗が立っていた。
穏やかな笑みを浮かべてはいるが、その瞳は鋭く、氷のような視線で部鮫を見つめる。
「な、何のことだ? 私にやましいことなど……」
「惚けても無駄です。道着に仕込まれていた護板――あれだけ急所を的確に撃たれて怯まぬ人間など存在しない。私は最初から、椎殿の技が通じていないことに違和感を持っておりました」
汗が、部鮫の頬を伝い落ちる。
「……で、では何だ。私の推薦者が規定を逸脱していたと? 証拠など……」
「今すぐ奉行にお伝えして、場を正式に検めてもらってもらいましょう。私は一向にかまいません。……ただし、今あの場に立っている者が“椎殿の代わりに戦う”ことを認めていただけるのならば、私は口を噤みましょう」
静かな言葉。その裏に潜む圧に、部鮫は喉を鳴らした。
(気づいて……いや、何らかの企みをしてくることは感づいておったか……)
得玲久斗はわずかに目を細めた。
「――如何に?」
部鮫は脂を浮かべた額を拭い、審判に聞こえるよう大声で叫んだ。
「構わん!! その女が護法術の娘の代わりに戦ううことを、ここに認めるッ!!」
ざわつく観衆。審判が困惑しながらも頷き、仕切り直しのため手を掲げた。
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周囲がざわつく中、睨みあう二人。
太郎丸は椎を見送る葉院に向かって、首を傾げながらにたりと笑う。
「また女があいてかぁ?さっきみたいにぶっとばして、おでがかつぞぉ!」
葉院は肩を軽く回しながら、口角を吊り上げた。
「イカサマしてやがるくせによく言うぜ。……いいから来いよ、木偶の坊」
その言葉を葉院が言い終わると同時に、審判が檜扇を振り上げる。
「再開――ッ!!」
叫び声とともに、太郎丸が巨躯を揺らして突進する。
大太刀をこれでもかと振り回し、風鳴りとともに土煙が渦を巻いた。
「こんどこそぶったぎってやるぅぅ!!」
刃を左右から振るい、剣速というより“質量”で圧す連撃。
土俵の砂が弾け、空気が唸る。
だが――葉院は、躱す。
身を低くし、太刀筋の隙間を泳ぐように抜けていく。
(……っ、すご……い)
試合場の側で、椎は思わず息を止めていた。
その動きは寸分の無駄もなく、まるで敵の刃の軌道さえ知っていたかのような余裕さえある。
「よけるなァッ!とまれェッ!」
焦れた叫びとともに踏み込みがわずかに粗くなる。
その瞬間を逃さない。葉院の目が鋭くなった。
太郎丸が右脚を深く踏み込み、重心がわずかに沈んだ瞬間――
葉院は回り込むように低く踏み込み、太郎丸に肉薄する。
どの観衆のどんな反応より早く、椎の脳裏には“あの時”の光景がよみがえっていた。
道場破りに深く刃を突き立てた葉院の姿。
血の飛沫と、床に崩れ落ちた男の背。
顔も着物も血塗れだった、あの“何かが変わってしまった人”の顔。
(また、あの時みたいに……)
だが。
葉院は――斬らなかった。
太郎丸の大太刀が振り抜かれる一拍前――彼女の身体は、すでに動いていた。
風のような速さの踏み込みから、回転を活かした一撃が鋭く走る。
ガンッ!
鈍い音とともに、葉院の一撃が太郎丸の右手の甲を正確に捉えた。
「っがぁ……!」
太郎丸の口から、試合開始以来はじめて「痛み」の色が混ざった声が漏れた。
その手が一瞬たわみ、大太刀の柄からわずかに力が抜ける。
葉院は軽く息を吐きながら、口の端を上げてつぶやく。
「意外だな。膝やら肘やらは守られてるが、小手は着いてなかったか」
観客席の空気が、微かに震える。
太郎丸は怒気をにじませて歯を食いしばり、大太刀を持ち直す。
そして――その場面を、椎は呆然と見つめていた。
葉院の腕ならばあの瞬間、太郎丸の手を斬るのは容易だった。
力も、速さも、間合いも、十分だった――それでも彼女は斬らなかった。
(……あの人は、いま……)
葉院の動きに、“あの日”の面影はなかった。
そこに宿っていたのは――父と彼女が使う“椎流護法術”。斬るためではなく、争いを止めるための所作。
(……護法術で、闘ってる……)
温かいものが、胸に広がる。
今の葉院は、あのときの“怪物”じゃない。
この人は――この人は今、わたしの誇りを抱えて立ってくれている。
椎は、思わず拳を胸の上で握りしめた。
葉院は一歩も引かず、太郎丸と相対する。
淡々と大太刀を受け流し、常に効く場所を探っていく。
土を蹴って地を撫でるようにひらりと身をかわす。
その速さと正確さで、太郎丸の仕込まれた護板のない箇所を一撃ごとに鋭く叩き、突く。
「く……そ……っ!」
最初は声を飲み込み、じっと耐えていた太郎丸だが、やがて肩を竦め、踏み込みの勢いが明らかに鈍りはじめる。
大太刀を無理に振り回すたびに、小さな呻きが漏れるようになった。
葉院は隙を逃さない。
一瞬、太郎丸の振りが遅れた瞬間――大太刀を高く構えたままわずかに刃を晒したその峰を、思い切り叩きつける。
ガキンッ!
金属同士がほとばしる火花の音を立て、場内が息を呑む。
大太刀を握る太郎丸の手首がギリリと軋み、思わず柄を緩めたまま膝から崩れそうになる。
「が……がぁッ!」
ついに太郎丸の大太刀は、衝撃に押し負けて地面へと落ちかけた。
葉院は距離を取り、威風堂々とした構えで太郎丸を間違える。
しばらくの間――
ただ、葉院の動きと、太郎丸の荒い息遣いだけが、場内に満ちていた。
観客席では、誰もがその光景に釘づけになっている。
勝利を決する刃ではなく、守りを貫く峰の一撃を目の当たりにし、全員が唖然と息を呑んでいた。
──この先、いったい何が起こるのか。
試合場を包む静謐と緊張感は、消える気配を見せない。
そうして、刹那の間――葉院は隼のような速さで間合いを詰める。
「――ッ!!」
声のない悲鳴を発し、太郎丸は大太刀を横薙ぎに振るった。
葉院は腰を落とし、大上段に構え直すと、そのまま勢いよく振り下ろす。
ガキィンッ……!
澄んだ、鈍い金属音が響いた瞬間、互いの刀身が火花を散らしながら砕け散る。
砕片が砂煙とともに舞う中、椎の脳裏にはかつての父の姿が映った。
あれこそ、椎流護法術奥義、鉄砕。武器を破壊し戦意を断つ“護りの剣”。
葉院はそれを、あの見るからに頑丈そうな大太刀を破壊したのだ。
砕けた刀が試合場に転がり、二人は互いの顔を見据える。
「さて……規則だと、武器が破壊された場合は新しい武器に持ち替えてから試合再開、だったっけ?」
葉院の声は、元の飄々とした雰囲気を纏っていた。
太郎丸は瞳を見開き、肩を震わせて呆気にとられる。
「や、やんのか?……もういっかい……?」
葉院の口元に、意地の悪い笑みが広がる。
「ま、あたしはやっても構わないけどな。……どうする? また小手を叩き込まれたいかい?」
その一言で、太郎丸の脳裏に再びこれまでの痛みが鮮明に蘇る。
打ち込まれた手の甲。
突かれた脇腹。
それらを遠慮なく叩き込まれた際の、あの痛み。
「……う、ううッ……!」
握りしめた手が、激しく震えた。
そして
「も、もういやだぁ! こうさん……こうさんだぁぁ!」
太郎丸は叫びながら、土俵に膝をついた。
場内に、驚嘆と安堵の混じったざわめきが広がる。
こうして、御前試合の予選は静かに幕を閉じた。
部鮫は顔を真っ赤に染め、ひと言の挨拶もなく足早に会場を後にする。
観覧席の一角では、得玲久斗が惜しみなく拍手を送っていた。笑みを浮かべた瞳の奥に、確かな称賛の色が宿っていた。
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数刻後――帰宅した椎は、薄闇の室内で葉院に問いかけた。
「…いつ、覚えたの?」
「はて?なんの話だい?」
「惚けないで。あなたに護法術を教えたことは、父も私もないはず……いつ、どこで覚えたの?」
葉院は障子越しの月光を背に、くっと笑いながら肩をすくめた。
「見て覚えたさ。おまえが稽古を重ねるたび、俺もずっと隣で動きを、目で追ってただけだよ」
椎は驚きを隠せず、少し身を乗り出す。
「見稽古にしても、あまりに上手すぎるわ。本当に見てただけで?」
「何年も、だろ? そりゃあ覚えるさ。指南されるわけでもなく、見て覚えたんだ。“護るための剣”って奴をさ」
椎はしばらく言葉を探して、静かに言った。
「……ありがとう。あなたが“怪物”にならなかったことを、本当に嬉しく思う。」
「……ごめんなさい、勝利への称賛よりも先に言うべきだったかしら」
その言葉に、葉院は頬をかく。椎の方を見ようともしない。
椎はそんな葉院をみて、我慢出来ずに笑みを浮かべる。
「なぁに?もしかして照れてるの?」
「…そうだよ。照れてんだよ」
葉院は白状し、椎と視線を合わせる。
「ま、本戦も任せな!誰も殺さない、優しい剣で――天下を驚かせてやるからさ!」
二人は淡い笑みを交わす。
そして夜明け前の静寂の中に身を委ねるのであった。