葉院編 参
数日後 ――御前試合予選・第一日目 会場控え処
ざわめく人波と、鎧の擦れる金属音、踏みしめる草の軋み。
御前試合予選の会場には、早朝から選手や見物人、幕府役人らがひしめき合っていた。
白砂を敷いた土俵のまわりには、質素だが整った木造の観覧席。
その一画には、数人の男たちが集い、茶をすすりながら言葉を交わしていた。
その輪の中に、得玲久斗もいる。
白と薄墨の縞がさりげなく施された羽織姿は、華美ではないが品があり、杯を取る手つきも控えめながら無駄がない。
「いやしかし、何人が誘っても首を縦に振らなかった椎殿を参戦させるとは…得玲久斗殿の大手柄ですなぁ…」
「どのような戦いになるのか、昨日から拙者楽しみで楽しみで!」
「ええ、私も楽しみにしております。どのような剣で己を証すのか……」
その言葉の終わり際、得玲の背に影が差した。
振り返ると、そこに立っていたのは、丸々と太った男。
顔は油でてかり、豪奢な裃が身体にややきつそうに収まっている。
男はにちゃりと笑いながら、濁った声で言った。
「やぁやぁ、得玲殿。今回は我が方の者と、そちらの推薦された方が、ぶつかりますな?」
「……ええ、そうなるようですね」
得玲はわずかに微笑んで応じた。
「ふふふ、私情なく、公正に――楽しく拝見しましょうぞ」
その口元は笑っていたが、目だけは爛々と笑っていなかった。
得玲は穏やかなまま、杯を卓へ戻しながら静かに返す。
「ええ、ええ。楽しく、拝見させていただきましょう」
部鮫――そう呼ばれるその男は、にたりと笑みを深め、どこかへ歩み去っていった。
しばらくして、別の役人が声を低くし、話かける。
「得玲殿……大丈夫ですか? 部鮫殿は、中々に評判が悪い。今回も、何らかの謀を企んでいるやも……」
それを聞いた得玲は、しばし空を見上げるように目を細め、そして微笑んだ。
「……私は、ただ“己の目”と“人の器”を信じるだけです」
風が吹き抜ける控え処。空に浮かぶ淡い雲が、静かに流れていった。
会場に静寂が満ちる。
観衆が息を呑む中、審判が中央へと進み出た。白装束に紋付をまとい、手に持った檜扇を高らかに掲げる。
「只今より――絢爛御前試合、予選を開始いたす!」
高らかに響く声が、空気を震わせた。
ざわ……と、観客席が一斉にざわめき立つ。
「右方、椎流護法術師範――椎殿!」
「左方、我流、太郎丸――!」
響く名乗りの声に続いて、右手の待機所より椎が姿を現す。
浅葱の道着に身を包み、帯には木地の小太刀を差している。
その歩みは静かで揺るがず、まるで朝露を踏むように慎ましい。だが、眼差しはひたすら真っ直ぐだった。
観覧席の一角、関係者席に座る葉院は、じっとその姿を見つめていた。
片肘を膝に乗せ、手に持った団扇で顔を仰ぎながら、どこか複雑な色を浮かべている。
「……嬢ちゃん、どうか無事でな……」
そして――左方。
地響きにも似た足音と共に、まるで壁が歩いてくるかのような巨体が現れる。
「うお……でけぇ……」
観客からざわめきと驚嘆の声があがる。
太郎丸――その巨躯は椎の倍にも届きそうな勢いで、肩に担ぐのは常人の身の丈に迫る大太刀一本。
そして、運命の一戦が――まさに、静かに始まろうとしていた。
二人が定位置についた瞬間、空気が締め付けられるように張り詰めた。
椎は構えず、ただ静かに呼吸を整えていた。
太郎丸は、すでに気合十分と言わんばかりに大太刀の柄に手をかけている。その腕周りには岩のような筋が浮かび、道着越しにもただならぬ怪力が見て取れた。
(一撃でも直撃すれば、どうなるか。……受けただけで立っていられなくなるかも知れない)
椎はわずかに目を細めた。
勝って得られる名声も、富も不要。
ただ、ここに立つと決めた以上、逃げるつもりもなかった。
(血は、極力……流させない)
その想いが、燃え上がりそうな胸の奥を静かに押し沈めていく。
自分の剣は何のための剣か、今一度己に問う。
命を奪うのではない。傷つけるためでもない。
勝負に勝つためでも、無様に負けるためもない。
ただ“争いを止める”ため――
(まずは初動を見切る、そうすれば必ず、止められる)
不意に、前に立つ太郎丸が言葉を漏らす。
「おんながあいてでも、おで、ほんきでやるからなぁ」
笑っている。屈託なく、童のように。
椎は、答えなかった。
けれどその構えなき佇まいは、張りつめた弓の弦の如く鋭く張りつめていた。
「始めい!!」
試合開始の合図とともに、太郎丸が大地を鳴らして突進する。
巨体とは思えぬ勢いと速さ、それが今、椎を押し潰さんと迫る。
椎は受けない。避ける。
流れるように右へ滑り込み、太郎丸の死角へと身を移す。
「――せいっ!」
脛の急所へ一撃。
所謂、弁慶の泣き所とも言われる箇所。
大の大人とて、強かに打たれれば蹲ることは必定。
だが――手応えが、ない。
太郎丸の顔は変わらない。
呻きも、たじろぎも、ない。
「っ……!」
椎は眉をわずかにひそめた。
続けて肘の関節、肩、胸元への鋭い打ち込み。
すべて間合いを見極めた無力化の手筋。だが、どれも太郎丸を怯ませない。
「おぉ!いたくねぇ!いたくねぇぞぉ!!」
楽しそうに笑う声が、逆に冷や汗を誘う。
観覧席の葉院も、団扇を下ろしてわずかに息を詰めていた。
「……嬢ちゃんの打ちどころは間違いなく急所を突いてる。けど、効いてない……?」
関係者席では、得玲久斗が目を細める。
その瞳には、役人としてではなく、武士の直感が宿っていた。
(身体の動きが鈍くならない……脛を叩かれても迷いなく踏み込んでくる……身体の痛覚に鈍麻――薬か?)
椎は浅いながらも呼吸を整える。
倒れない相手。攻撃を当てた際の感触。
圧倒的な違和感が椎を襲う。
膝、肘、股座、脛――椎流護法術が持つ非殺の要。
いずれも的確に捉えているはずなのに、太郎丸は怯まない。
(訓練による賜物? それとも、生来の才?……いや、これは――)
試合場を囲む砂が跳ねた。太郎丸が叫びながら踏み込む。
「うおォォォおおおッ!」
重い。踏み込みのたび、試合場の土が散る。
椎は後退しながら、僅かに眉を寄せた。
(当ててもまるで効いてない。まるで、“守られてる”みたいな……)
一方――観覧席、部鮫はにちゃりと口元を歪めていた。
目の前の椎の剣さばきは見事。だが、効かない。
そう、“効かないようにしてある”。
(椎流護法術。知っているぞ。殺さず、急所を攻撃し無力化させて相手を封じる非殺の剣)
(だが、それも“効き所”に打ち込めば、という前提があってこそ……)
太郎丸の道着の下。肘、脛、膝、胸元、股座――重要な部位の下には、獣の皮と板で作られた護板が密かに仕込まれていた。
(痛みは動きを鈍らせる 。本来であれば太郎丸との相性は最悪であったが…)
「ほれ、どうしたどうしたぁ……守るだけかい、師範殿……」
部鮫の口角がまたあがる。
――試合場
椎は再び背を低く沈め、太郎丸の突進を避ける。
だが、直後の反撃は今一つ。
太郎丸の膝に当てたが、またも跳ね返される。
(これ以上長引けば、分が悪くなるのはこちら側……)
椎は冷静さを保つよう努めながらも、自身の術が通用しない現実に、自覚なき焦りを滲ませる。
(打ち込みは正確――なのに、効かない)
それでも椎は受けない。避ける。流す。
その間にも、太郎丸の勢いは衰えず、鉄塊のような大太刀が無造作に振るわれる。
そのときだった。
太郎丸が踏み込む勢いそのままに、上段からの袈裟斬りに似た軌道で、鋭く大太刀を振り下ろした。
普段ならば判断に困らない回避。受けの選択を、椎は一瞬、迷った。
椎は身体を捻らせて回避する。刃の正面は避けたものの、咄嗟に判断した受けの思考を捨てきれず、刀と刀が交錯する――
ガァァンッ!
跳ねた。
椎の刀が大太刀の勢いに押し負け、鹿脅しのように宙へと弾かれる。
(っ……!)
刀は回転しながら飛び、土俵の外へ落ちた。
観客席がどよめく。
太郎丸は満足げに鼻を鳴らした。
「はっは、おでの力、すげぇだろぉ!」
太郎丸の声とともに、肩の上で構えられた大太刀が大きく振りかぶられる。
「おわりだあァッ!!」
剛腕に任せた一撃。轟音とともに椎めがけて振り下ろされる。
椎はその場から逃れなかった。
手が、足が、動かなかった。
(……ああ、ここまで……か)
視界が白く染まる。
――物心ついた日。木漏れ日の中、父の手が頭を撫でてくれた。大きくて、温かい手だった。
――道場で笑い、怒り、泣いたあの日々。試合で勝ったときの、父が見せた笑顔。
――葉院との、くだらない、大切な日々。
ひとつ、またひとつ、記憶がほどけていくように浮かび上がる。
(……あの人と出会えて、よかったな)
椎は、そっと瞼を閉じた。
なにか重たい物が、叩きつけられる。
そんな音を聞いた。
「……」
「……」
「……?」
死んで、いない?
ゆっくりと目を開ける。
そこにいたのは――葉院だった。
太郎丸が振るった大太刀の一撃を、己の足裏で踏みつけている。
肩には薄く擦過傷。片足は袴の裾ごと裂かれ、腿から肌が露出ている。だが、その顔には確かな余裕があった。
「危なかったなぁ、お嬢?」
掛けられた声はいつも通り。軽くて、飄々として――だけど、どこか安心できる声だった。
「……代わるぜ」
椎は思わず叫んだ。
「でも、貴女はっ……!」
葉院はちらりと横目で彼女を見て、そして――笑った。
今まで共に過ごしてきて、数えるほどしか見たことのない――本気の顔。
「大丈夫だ、お嬢。……信じてくれ」
その声には、確かに優しさがあった。