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豪華絢爛御前試合  作者: カニマル
葉院編
6/9

葉院編 弐

朝霧がまだ窓の外を漂う頃。


椎家の離れの一室には、昨日の酒と香の名残が満ちていた。


掛け布団はずり落ち、畳には空いた徳利と、二つ並んだ盃。


その中央で、大の字に転がる女が一人。


布団の中で腕を伸ばすと、隣にまだ温もりの残る身体があることを確かめ、喉を鳴らして笑った。


「……んふふ。いい朝じゃないか、なぁ?」


遊女の黒髪が肩にかかる。葉院はその香に鼻を寄せ、目を細めながら体を起こし――


「――葉院っ!」

障子が勢いよく開かれ、光と怒声が同時に飛び込んだ。


そこに立っていたのは、すっきりとまとめた髪に濃紺の道着姿、道場主・椎。


まだ十七ながら、すでに一棟を取り仕切る姿勢は貫禄さえ漂わせている。


その眉間には、いつもの倍の皺。


「またですか……!まったく、だらしがないったら!」


「あらぁ……椎の嬢ちゃん。おはよう。早起きだねぇ」


「“早起き”ではありません。“当たり前”ですっ!」


「あいたた……耳が痛い」


遊女がバツの悪そうな顔をして部屋から逃げ出すと、葉院はようやく起き上がって頭を掻く。


肩から滑り落ちた襦袢を戻しながら、ため息混じりに笑った。


「まあまあ、こう見えてね、あたしだって働いてるわけよ。酔客の喧嘩を止めたり、道場の納屋から狸を追い出したり。昨日なんて、瓦の修繕まで手伝ったんだからねえ」


「それは“用心棒”ではなく“雑用係”です」


「しかも無給のね」


椎は拳を握りしめながら深く息を吸った。


「もう……!あなたって人は、ほんとに……!」


けれど、怒りきれずに、ただ呆れて唇を噛んだ。


葉院の眼差しが、不意に柔らかく揺れた。


「心配してくれてんのは、分かってんだよ。ありがとね、嬢ちゃん」


椎はその言葉を聞いて、ほんのわずか視線を逸らす。


その耳たぶが、かすかに赤らんでいる。


椎はしばし口を結び、ふいと視線を外した。


そして、照れを誤魔化すように唇を尖らせて怒鳴る。


「……もうっ!いいから行ってきなさい!さっさと!」


葉院は片目をつぶり、のそのそと腰を上げながら言った。


「なにをさ?また狸かい?屋根かい?」


「違います!昨日、買い物に行ってくれって言ったでしょう!」


「ああ……あれ……今日だったかい?」


「忘れたのですか!?」


怒気を含んだ声に肩をすくめながら、葉院は軽く笑った。


そのまま帯を結び直し、ぼさついた髪を手ぐしで整えて、戸口へと向かう。


「へいへい、行ってきやすよ。嬢ちゃんの小言が一番効く薬だわ」


靴を引っかけ、陽の差す外へとすたこら出ていく姿を見送りながら、椎は深いため息をついた。


「まったく……どこまで手がかかるんだか」


けれど、その瞳の奥には微かな安堵の色が滲んでいた。


---


時は昼時、陽は高く、空には白雲がゆったりと流れていた。


葉院が足を運んだのは、街の市が開かれる広場。


通りには商人の声が飛び交い、乾物の香ばしい匂いと、焼き立ての団子の甘い湯気が風に乗って流れてくる。


子どもたちは駆け回り、旅の噺家が人だかりをつくり、振り売りの声が高らかに響く。


「おいでなさい、今朝できたての豆腐だよ〜っ!」


「見てっておくれ、京から届いた絹織物さ!」


屋台の脇をすり抜けながら、葉院はあくび混じりに歩く。


腰には椎から預かった買い物袋、手にはいつの間にか焼き芋。


「……はぁ、賑やかってのも悪くないねぇ。さて、買い物……なに買うんだったっけ……?」


空の袋を肩にぶら下げながら、彼女の気ままな昼下がりが、喧噪の中へと紛れていった。









街の喧騒を背に、葉院は買い物袋を下げて歩いていた。

新鮮な野菜や干し魚をぶら下げながら、気ままに団子の屋台を横目に眺めていると――


「……ん?」


通りの角、どこか人の流れが滞っている。


少し先には、着流し姿の男が一人、三人のいかにも柄の悪そうな男たちに囲まれていた。


男は年の頃三十前後、白地の羽織に紺の帯。鼻筋通った整った顔立ちをしているが、つかまれている腕を気にも留めぬ様子で、口元には笑みすら浮かべている。


「なるほど……つまり、私に非があると仰るわけですね。三人寄って脅しに及ぶとは、随分と誠実な筋立てですな」


「うるせぇ!こちとら兄貴がてめぇに…っ!」


「はいはい。その“兄貴”とやらは、いまどこに? まさか、お使いか何かで忙しいのでしょうか」


挑発気味の言葉に、染め物を羽織った三人の顔がみるみる赤くなる。


葉院は立ち止まり、そのやり取りをしばし眺めてから、買い物袋をぶら下げたままのんびりと声をかけた。


「おう旦那、助太刀しようか?」


男がふっと振り向き、にこやかに頷いた。


「これはご親切に。もし助けていただけるのならば、このうえなく心強い」


「うるせぇ! 邪魔すんなこのアマ!」


舌打ち混じりに葉院を睨みつける輩たち。

だが葉院は全く動じる様子もなく、袋を地面に置くと肩を軽く回しながらニヤリと笑った。


「……ふん、昼下がりにゃ丁度いい運動かもねぇ」



「調子乗ってんじゃねぇ!」


苛立ちの声とともに、一人の輩が拳を振り上げ、葉院に殴りかかる。

だがその拳は、まるで相手をすり抜けたかのように空を裂き、虚しく前へ突き出された。

葉院の身体は風のように一歩すっと逸れていた。


「おっと、すっとろくて欠伸がでそうだ」


葉院は呟くと、そのまま踵で路面を跳ねて踏み込み、ひとりの鳩尾に肘を落とした。


「ぐえっ……!」


別のひとりが刀の柄に手をかけかけた瞬間、葉院の足が石畳を蹴り――

その手首に一閃。打突のような衝撃が走る。


「やめときな。抜いたらただじゃおかないよ」


残るひとりが躊躇いながら身構えるも、すでに気勢は削がれ、葉院と正面から目を合わせることすら叶わなかった。


「ちっ……やってられっか!」


「もういい!行くぞっ!」


捨て台詞と共に、三人は蹴散らされるように逃げていった。


風が通り、周囲の人波が徐々に戻ってくる。


身なりの良い男は、埃を軽く払いつつ、葉院に頭を下げた。


「お見事です。あの程度の者どもに煩わされていたのが少々口惜しいところですが……あなたの手際には感服いたしました」


「そりゃどうも。昼飯前の準備体操にゃ丁度よかったわ」


葉院が買い物袋を拾い直すと、男は少し歩み寄って声を低めた。


「よければ、少々お時間をいただけませんか。話したいことが――」


「悪ぃね、旦那。あたし今、お使い中でさ」


葉院はぺろりと舌を出して笑う。

そして肩の袋を軽く持ち直し、くるりと背を向けた。


「ま、ご縁があればってことで。そんじゃ」


その背は愉快に揺れながら、喧噪へと溶け込んでいく。


男はしばらく無言でその背を見送り、やがて静かに呟いた。


「……惜しい。実に、惜しいな」


その目には、何かを見つめた光が、かすかに残っていた。


朝靄の残る道場の裏手を、ふらふらと歩くひとりの女。

高岡葉院は、昨夜の余韻と酔って痛んだ頭を抱えつつ、椎への言い訳をひねり出していた。


「えーと、狸に絡まれて帰れなかった……は流石に無理があるかね……」


髪はまだ少し乱れ、帯も心なしか緩んでいる。

それでもどこか晴れやかな表情なのは、最早開き直ったか、朝の光が心地よかったか。どちらにせよ現実逃避であった。


「嬢ちゃーん、ただいま〜っと」


椎の部屋の引き戸を軽く叩き、いつもの調子で開けたが――部屋は空だった。布団はすでに畳まれ、机の上には整えられた文具と湯呑がひとつ。


「……いない?」


不思議に思い、庭を掃く丁稚の少年に声をかける。


「椎は?」


「道場におられますよ。今朝からお客様とお話中です」


「ほほう。さてはまた堅物の役人が来たな……あの石頭を口説けるのかね?」


口では軽口を叩きながらも、葉院の指先は帯を締め直し、髪を指で梳かしていた。

考えれば考えるほど、言い訳が浮かばない。


「くそ、素直に謝るか……」


ため息とともに道場の襖を開ける。


そこには、きちんと膝を揃えて座る椎と、向かいに座るひとりの男。

葉院を見た椎は、ぴたりと口を止めた。


「……葉院。いま仕事のお話中です。後ほど貴女には、お話がありますから、部屋でお待ちください」


厳しい声音。いつもの調子ではない。


葉院は思わず相手の男に目を向け――そこで、視線が交錯した。


「……先日は、お世話になりました」


その口元に浮かぶ笑みと、どこか気品を漂わせる声音。

葉院は一瞬、きょとんとし、それからぱちりと瞬きを一つ。


「……あら、あんた。あの昼の……」


思い返せば、昨日街角で輩に絡まれていた男。白羽のような身なりで、妙に余裕を崩さぬ男だった。

了解しました。それでは、指定いただいた流れに沿って、次の場面をお届けします。


静かな空気の中、椎は視線を男から葉院へと移し、静かに問うた。


「……面識があるのですか?」


男は微笑をたたえ、うなずいた。


「はい。昨日、街路にて暴漢に絡まれていたところを、助けていただきました。実に見事な手際で――心より感謝しております」


「あぁ……あれねぇ」

葉院は頭を掻きながら少し気まずそうに笑った。


「えー、と。あたしは邪魔かね?部屋に戻ってようか?」


そう言って立ちかけた葉院に、男が柔らかく手を伸ばして制した。


「いえ――むしろ、あなたにもぜひお聞きいただきたいと思っておりました。お時間、いただけますか」


その声音には、丁寧でありながらも、不思議な熱がこもっていた。


「ふぅん。ま、いいさ。…いいか?お嬢?」

「お役人様が良い、と言ったのです。座りなさい」


言葉に棘を感じながらも葉院はぺたりと椎の隣に座る。


男は一呼吸おいて、膝の上に置いた両手を整えると、改まった調子で口を開いた。


「改めまして。私は比津府幕府役人、得玲 久斗えれくとと申します」


葉院が一瞬、妙な名だなと眉を上げたのを、久斗は見てとったのか、軽く笑って言葉を続ける。


「本日は椎様に、お話があり参りました。内容は、先日幕府より告示されました“絢爛御前試合”――その予選開催についてでございます」


言葉が道場の板間に静かに響く。


椎は姿勢を崩すことなく頷き、葉院はそのまま腕を組んで、興味ありげに久斗の顔を見た。


「絢爛御前試合は、幕府主催の大規模な武術競演。現代に生きる“侍”の気概を世に示す場です」

「――そこで、椎様。ぜひ貴道場から予選にご出場いただけないかと、お願いに上がりました」


椎はわずかに目を伏せた。沈黙がいくらか長く続き、そして静かに頭を下げた。


「その光栄なるお誘い、ありがたく受け止めます。しかしながら、私は未熟の身。剣を極めるにはまだ道半ば……お応えするには力不足かと存じます」


その声は丁寧でありながら、どこか張りつめていて、普段より言葉の輪郭が硬かった。

得玲は一礼し、椎の言葉を受け入れるように穏やかに頷く。


「なるほど。それでは、次の申し出となりますが……」


椎の傍らで、買い物の疲れも手伝ってぼんやりしていた葉院が、ふと目を上げる。

その瞬間、得玲は自然にそちらへ視線を向け、笑みをたたえたまま言った。


「そちらの葉院殿。あなたに、出場をご検討いただけませんか」


「……へっ?」


思わず間の抜けた返事が漏れた刹那――それを遮ったのは、すっと鋭さを帯びた椎の声だった。


「それは、許可できません」


道場の空気が静かに変わる。

椎の声音に怒りはない。ただ、決して揺るがぬ芯があった。


一瞬、葉院の目がわずかに泳ぐ。

椎の横顔は静かで整っている。ただ、その目の奥――ごく僅かに、どこか遠くを見るような光があった。


得玲は一瞬まばたきをしたが、表情を崩さず丁寧に頭を下げた。


「……剣の冴えを見たわけではありません。ただ、呼吸の間合い、重心の配り方、そして周囲の圧を自ずと引き寄せる在りよう――戦の場を知る者であれば、一度で察します。あなたは素人ではない。むしろ、心得ある者のそれでした」


――日にちがございます。お返事はまたの機会に。

そう言って得玲久斗が道場を去り、その日の夜。

葉院は椎に部屋に来るように言われてやってきた。


障子越しに灯る灯明の光が、部屋の中に長い影をつくっていた。

静寂を破ることなく、葉院は戸を開けた。


「……呼んだかい、嬢ちゃん」


椎は卓の前に正座していた。いつもより深く帯を締め、膝に置かれた手はわずかに強ばっている。

その隣へ歩み寄った葉院は、いつものふざけた調子も控えめに、低く問いかけた。


「……駄目か?」


短く、間を置いて。


「駄目です」


その言葉の余韻が、部屋の灯明に揺らぐ影に溶ける。

椎の答えは、静かだった。けれど、鋼のような、断固とした意志を感じる。


葉院は、その言葉にどこか納得するように笑みを浮かべ、そして目線を落とした。

葉院はしばらく無言で椎の顔を見つめた。


「……そんなに、あたしが危なっかしく見えるのかい?」


呟きのような問いに、椎は返さなかった。いや、返せなかったのかもしれない。

僅かに目を伏せ、その身体は石のように固まっていた。

ふ、と。葉院目を細めて笑った。


「ま、いいけどさ。嬢ちゃんが“駄目”って言うんなら、きっと、そうなんだろう」


彼女は背を壁に預け、手を後ろで組んで小さく息を吐いた。

どこか軽く、けれど…ほんの少し、空いた隙間のようなものを残した笑みだった。

椎の膝の上に置かれている手がわずかに震えている。

ぽつりと、椎が口を開いた。


「……私、普段の暮らしの中で血を見るぶんには、大丈夫になってきたんです。怪我をした子の手当ても、料理で指を切ったくらいなら、もう平気で」


そこまで言って、椎はゆっくりと葉院の方に視線を向けた。


「でも……試合や、立ち合いで流れる血だけは……どうしても、怖いんです。あの時の光景が、頭に蘇ってきて……」


葉院は静かに目を伏せて聞いていた。

椎の声が、少しだけ震えた。


「でも、それよりも……それ以上に――」


言葉を繋ぐのに、少し時間がかかった。


「……私は、貴女に、人を斬ってほしくないんです」


その言葉には、ふだんの冷静さがなかった。

どこか、押さえてきた感情がにじんでいた。


「父を……道場破りに殺されたあの日。目の前で貴女が、その相手を斬った姿を見ました。助けてくれたことに、感謝もしてます。守ってくれたことも……分かってます」


一呼吸置いて。


「でも……あの時の貴女は、本当に怖かった。まるで、人じゃなくなったみたいで……。その姿が、今でも、夢に出てくるんです」


葉院は、微動だにせず、じっと椎を見ていた。

椎はまっすぐ葉院を見返した。そして、淡く、けれどはっきりと告げた。


「だから……お願いです。もう、あんな目を、してほしくないんです」


「……わかったよ」


葉院はぽつりと呟くと、そっと椎を抱きしめた。

椎の肩は最初こそ固くこわばっていたが、やがて静かに息を吐き、小さく葉院の袖を掴んだ。


「ありがとう……」


柔らかな灯明の光が、二人の影をひとつに重ねていた。

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