義虎編 壱
踏み込めば、二度と戻れない
されど私は、ここに立つ。
いつものように刀を振る。 道場に伝わる幾つもの型や技を、いつものように本気で。
全身全霊の力で、 想いを込めて。
それを行うのに、特別なことはない。最早日常になって久しい。そうして、いつの間にか全ての型を構い終える。
そして閑散とした道場に拍手が響いた。
「お目汚し、失礼いたしました。」
「いえいえ、こちらこそ無理を言って申し訳ない。 いやぁ相変わらず良いものを見せていただいた」
そう言って近寄ってくるのは幕府の役人、照田である。
「•••いえ、喜んでいただけたなら幸いです」
「洗練された動作に派手な動きは不要なのですなぁ…美しさすら感じましたぞ」
照田は満足げに頷きながら巻物を取り出すと、慎重にそれを義虎へ差し出した。
「さて、本題はこちらでしてな。義虎殿、『絢爛御前試合』 予選への出場、是非にお願いしたい」
義虎は驚いたように目を開き、照田を見つめる。
「早速ですが、規則についてお話させていただきたい」
御前試合 試合規定
第一条:
御前試合は、実力者がその腕前をもって技芸を競うものであり、武門の誉れを立証することを主旨とする。ただし勝敗はあくまで結果とし、戦中に生じるいかなる損害(生命・身体・名誉)についても、主催は一切の責を負わぬ。
第二条:勝敗
勝敗は以下のいずれかによって決するものとする。
- 一、相手が戦闘不能に陥った場合
- 二、相手が明確に降参の意思を示した場合
※戦闘不能とは、致命的負傷に限らず、自立・応答・反撃の不能と見なされる状態を含む。
第三条:武器の破損
試合中、使用武具が破損した際は、
- 審判の判断により一時中断
- 別途用意された代替武器への交換
- その後、仕切り直しとして再開
※再開の際は両者の立ち位置を初期に戻し、審判の合図をもって続行される。
第四条:戦意放棄
降参の意思表示は、
- 明確な言葉による表明
- 審判への意思伝達
いずれかをもって成立する。
降参後に不意打ちを図る行為は、即座に無効とし失格とする。
第五条:外的介入
本戦場内において、試合者以外の人物が戦闘行為に関与した場合、当該試合は即時停止となる。
ただし、事前の承認または公的な許可に基づく交代劇については、特例として継続が認められることがある(※裁定は奉行または審判に委ねられる)。
第六条:その他
- 命のやり取りが含まれるため、試合前に誓約書へ署名を行うこと
- 試合場における毒、術具、隠し武器の持ち込みは原則禁止
「以上が、御前試合の規則になります」
「…真に、私でよろしいので?」
「むしろ義虎殿こそ相応しいと思っております。 道場主としての声望もさることながら、あなたの剣は皆も認めております。故に、是非」
義虎の眉間が寄る。
巻物を静かに受け取りながら、その封に視線を落とす
比句斗はその表情にほんの少しの緊張を読み取った――だが、 それを言葉にはしなかった。
「あなたの剣は素晴らしい。経験を積めば更なる高みに上り詰めるでしょう。この御前試合を、利用なさっては如何でしょうか?」
その日の夜。義虎は道場にいた。
道場の中央に静かに腰を下ろし、巻物を取り出して指でなぞる。
触れた指先に感じるのは、かすかな緊張。いや、違う。
これは恐れだと、自覚していた。
「時が来た、のかもしれぬ」
呟きは、誰にも届かぬ独り言。だが、その一言一句が胸の奥に深く沈んでいく。
「これまでは、型を極め、技を磨く。それだけ故に、自分のみが敵であった。
道場の静けさが、巻物の重さを増していく
「果たして俺に、命を懸ける者の覚悟と向き合う資格があるのか」
今までは、勝てずとも称賛があった。 相手と友誼を結んだこともあれば、役人に目を掛けてもらったこともある。 つまり、負けがそのまま不名誉とはならなかった。
過去の戦いは、あくまで試合。勝負であり、命を奪うものではなかった。
しかし、此度の試合は、 死合となる。 無論、喜んで殺そうとする者ばかりではないであろうが、やむを得ずということもあろう。
改めて自問する。御前試合への参加を。 人に斬られること。斬ること。人を殺すこと。
「それでも、進むと決めたのは俺だ」
義虎は目を閉じ、深く息を吸った。
「斬らずに勝てるなら、それに越したことはない。だが必要とあらば、躊躇いなく振るえる心でなければ――」
言い切らず、封を破る。
御前試合、本戦の前哨戦。自分自身を試す戦い。その幕が、今、静かに上がる