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起きたら悪役令嬢になっていたので改心してみた

作者: 入多麗夜

 目を覚ました瞬間、彼女は自分がどこにいるのかも、何者なのかも分からなかった。


 ふわりと鼻先をかすめたのは、甘い薔薇の香り。

 天蓋付きのベッド、絹のカーテン、ふかふかの絨毯。

 現代的な喧騒とは無縁の、異様な静寂と、豪奢すぎる光景。


 彼女――セシリア=ローズは、ぼんやりとした意識の中で身を起こした。

 身体がやけに軽い。指先も、声も、どこか自分のものではないようだった。


「……どこ、ここ……?」


 絞り出した声は、驚くほど澄んでいた。


 鏡の前へとよろよろ歩み寄った彼女は、自分の姿を見て、絶句する。

 金色の巻き髪、宝石のように輝く青い瞳。

 まるで絵本から飛び出したような、美しく、そしてどこか冷たげな少女が、そこにいた。


 ――知っている。この顔、この世界。


 心臓が高鳴る。

 忘れもしない、あの小説。

 読んだことがある。いや、読み込んだ。

 ここは、物語の中の世界だ。そして、この少女は――




 悪役令嬢、セシリア=ローズ。




 彼女の記憶が、断片的に繋がる。

 この世界は、ヒロインが成長していく過程で、さまざまな苦難と戦う恋愛譚。


 だが、セシリア=ローズは、その中でヒロインをいじめ抜き、最終的に破滅する役割だった。

 国外追放、財産没収、名誉剥奪、もしくは――処刑。


 そして――


「遠い未来に……破滅が……起きる……」



 ひときわ強く胸を打つ鼓動に、彼女は息をのんだ。

 つまり、最悪のタイミングで、最悪の人物に目覚めてしまったことになる。


「うわーーー!どうしよう!どうしよう!?こんな事聞いてないよ!?」


 セシリア=ローズは、顔を真っ青にして部屋の中を右往左往した。


 豪奢なベッドを往復し、絨毯の上で足を滑らせ、分厚いカーテンに激突する。

 そのたびに、ふわりと薔薇の香りが漂い、無駄に優雅な空間が彼女の焦燥感を煽った。


「どうしてよりによって、セシリアなの!?よりによって、悪役令嬢の中でも、最凶最悪の……!」


 今にも泣き出しそうになりながら、彼女は必死に考えた。

 何か方法はないか。破滅を回避するための、最善の一手が。


 ただ黙ってやり過ごす? そんな都合のいい話があるわけない。

 この世界は、ただ静かにしていたくらいで許されるほど甘くはない。


 ヒロインをいじめた過去は消えない。

 王太子の寵愛を横取りしようとした事実も消えない。

 積み上げた悪名は、すでに骨の髄まで染みついている。

 

「……もう……改心するしか、ない……!」


 セシリアはギュッと拳を握った。


 これまでの自分――セシリア=ローズという存在を、すべて否定し、すべて超えるしかない。


 そのために、まずは何をすべきか。震える手で、彼女は部屋を見渡した。ドレッサーの引き出しを開け、机の上に積まれた書簡を乱雑にめくり、クローゼットの奥にも手を伸ばす。埃をかぶった小さな箱に指が触れた。


 何気なく持ち上げたそれは、革張りの薄い本だった。表紙には金の細い文字で、彼女自身の名が記されている。


『セシリア=ローズの日記帳』


 息を呑む。胸の奥が、ひやりと冷たくなる。震える指でページをめくった。


【○月×日 アリシア=フェルナンド嬢に薬草入りの菓子を贈った。顔色を悪くして倒れる姿は滑稽だった。】


 ぱらりと次のページを開く。


【○月△日 王太子殿下に、あの女が手渡そうとした贈り物をすり替えた。哀れな女。泣き出す姿は見ものだった。】


【○月◇日 使用人のクララが私のドレスに泥をつけた。腹が立つのでいつか復讐をしたい。】


 セシリアの指が震える。

 次から次へと綴られる、悪意と傲慢の記録。

 一つ一つが、笑って許されるようなものではない。


 文字を追うたびに、胃の底がひっくり返りそうになる。

 冷たい汗が背中を流れた。


 「な、なにこれ……!?悪趣味すぎるでしょ……!」


 ぐらり、と視界が揺れた。


 「うそ……こんな……うそでしょ……?」


 足元から力が抜ける。頭の中で警報が鳴り響く。

 こんなもの、存在しているだけで終わりだ。破滅まっしぐらだ。


 「……だめ、だめだってば……何やってるのよ私!」


 バランスを崩した彼女は、そのまま床に崩れ落ちた。

 ぱたりと倒れ、白い床に身体を打ちつける。


 「……う、わ……」


 最後に漏れた微かな声もむなしく、セシリア=ローズは泡を吹いて気絶した。

 机の上には、無残に開かれたままの日記帳が一冊、悪意と傲慢に彩られた記録をさらけ出していた。







 鈍い痛みで、セシリアは目を覚ました。


 頭が割れるように痛い。重たいまぶたを持ち上げると、そこには変わらず豪奢な天井があった。現実は、どこにも逃げてはいなかった。


 「……生きてる……」


 かすれた声が、乾いた喉に痛かった。


 身体を起こす。床は冷たく、衣服は(しわ)だらけだった。机の上では、あの日記帳が開かれたまま、無惨に彼女を見下ろしている。


 胸の奥が締めつけられた。逃げたかった。目を背けたかった。

 しかし、セシリアとして生まれ変わった以上、何かをしなければ真っ先に処刑行きだ。


 セシリアはあたふたしていた。


 床に散らばった紙を拾い上げる手は震え、息は浅く速くなる。

 考えろ、考えろと自分に言い聞かせても、頭の中はぐちゃぐちゃでまとまらない。


 一体、これだけの悪行をどうやって償えばいいのか。


 王太子の婚約者に嫌がらせをして、ヒロインをいじめ抜き、使用人たちに無茶な命令を下し――

 ただの謝罪では到底すまないことくらい、分かりきっていた。


 「む、無理でしょこんなの!!」


 膝をついたまま、セシリアは頭を抱えた。


 笑って許されるわけではない。

 平伏して涙を流したところで、誰も信用しない。

 それどころか、偽善だと嘲られ、ますます破滅に近づくに違いない。


 どうすればいい。何をすればいい。

 どこから手をつければいい。


 ぐるぐると考えが空回りする。


 けれど、じっとしている暇はなかった。


 コン、コン。


 再び、扉を叩く音が響いた。

 震えるような控えめなノックだった。


 「セシリア様。お召し替えのお時間でございます」


 若い少女の声。

 緊張と怯えが、はっきりと伝わってくる。


 「……入って」


 掠れた声を絞り出す。


 扉が静かに開き、小柄な侍女がそっと顔を覗かせた。


 扉が静かに開き、小柄な侍女がそろそろと入ってきた。

 栗色の髪を三つ編みに結い、緊張で指先まで固まっている。


 両手で大事そうに抱えているのは、今日の着替えのドレスだった。

 侍女はセシリアを一目見るなり、ピタリと動きを止めた。


 怯えている。

 まるで、これから怒鳴りつけられるのを覚悟しているかのように。


 セシリアは胸の奥が締めつけられるのを感じた。


 これが、過去の自分が撒き散らした恐怖。

 たった一人の少女すら、まともに近づけない存在になっていた。


 「……ありがとう。わざわざ持ってきてくれて」


 震える声で、それでもはっきりと言った。


 侍女は、目をぱちぱちと瞬かせた。

 信じられないものを見るように、セシリアを凝視する。


 「……え?」


 「本当に、ありがとう」


 繰り返すと、侍女はさらに動揺し、抱えていたドレスをベッドの端にそっと置いた。


 それを見届けたあと、セシリアは小さく、柔らかく声をかけた。


 「――あなたの名前を教えてくれる?」


 侍女は、はっと顔を上げた。

 驚きと戸惑いで目を見開いている。


 「な、名前……でございますか?」


 「ええ。せっかく来てくれたんだから、知らないままじゃ失礼でしょう?」


 できる限り穏やかな口調で促す。

 威圧でも、命令でもなく、ただ普通に尋ねるように。


 しばらくの沈黙の後、侍女はおずおずと名乗った。


 「ク、クララと申します、セシリア様……!」


 掠れるような声だったが、セシリアにははっきりと聞こえた。


 「クララ。素敵な名前ね」


 そう言って、そっと微笑む。

 クララは信じられないものを見るような顔をして、深く頭を下げた。


 「し、失礼いたします!」


 声を裏返しながら、クララは駆け足で部屋を出ていった。


 パタン、と扉が閉まる。

 静まり返った部屋に、セシリアだけが取り残される。


 「……ふう……」


 全身から力が抜けた。

 たったこれだけのやり取りなのに、汗が滲んでいる。


 全身から力が抜けた。

 たった一言、ありがとうと伝えただけなのに、身体中がひどく重たい。

 背中にはじっとりと汗がにじんでいる。


 たかが感謝の言葉。

 それだけのことに、ここまで神経をすり減らすなんて。


 セシリアは、情けなさに小さく苦笑した。


 けれど、これが今の自分だ。

 それでも、一歩を踏み出せたことに、わずかな誇りを覚えた。


 ベッドの上に置かれたドレスに視線を向ける。

 机の上では、あの日記帳がなおも存在感を放っている。


 ――まだ、始まったばかりだ。


 セシリアはそっと拳を突き上げた。




 ◇




 朝から、使用人たちはざわめいていた。


 セシリア=ローズの様子が、明らかにおかしい。


 これまでの彼女――“悪い方のセリシア”は、朝食など自室で食べるのが当然だった。

 厨房に命じて、高級な銀の盆に盛らせ、決して自ら足を運ぶことはなかった。


 それが、今朝に限って、下に降りてきたのだ。

 しかも、厨房で大人しく用意された朝食を受け取り、自分の足で食堂まで向かった。


 使用人たちが耳打ちし合う。

 あまりに異常な行動に、皆一様に困惑していた。


 セシリアはというと、食堂の隅にぽつんと座り、静かにスープをすくっていた。


 絹のドレスを着ているにもかかわらず、気取った素振り一つない。

 誰かに命令することも、叱責することもなく、ただ大人しく食事を進めている。


 そして、偶然目が合った侍女に、小さく頭を下げた。


 「おはよう。今日もお疲れ様」


 その瞬間、侍女はスプーンを取り落としそうになった。


 ――セシリア様が、挨拶を……?

 ――しかも、“お疲れ様”って、今、言った?


 食堂中に、目に見えない波紋が広がる。


 あまりの出来事に、誰もが息を呑み、かえってその場の空気が重苦しく張り詰めていった。


 セシリアは、周囲の視線を痛いほど感じていた。

 無理もない。これまでの自分なら、挨拶どころか、目も合わせなかったのだから。

 セリシアの評判の悪さは想像以上だったという訳になる。


 挨拶一つで、ここまで場を凍りつかせるとは思わなかった。

 スープを口に運ぶ手も、自然とぎこちなくなる。


 誰もが彼女の一挙一動に、怯えるような視線を向けていた。


 耐えきれなくなったセリシアは、そっとスプーンを置いた。

 周囲の視線を遮るように顔を伏せ、小さく立ち上がる。


 「……ごちそうさまでした」


 ぽつりと呟き、恥ずかしさに耐えながら食堂を後にした。


 背中に突き刺さるような好奇と警戒の視線が、ひどく痛かった。

 空気を重くしたことが分かっていて、それが余計に辛い。


 階段を上がり、自分の寝室に逃げ込むように戻ると、セリシアはベッドにうずくまった。


 「……はあ……」


 情けないため息が漏れる。

 挨拶一つでこれだ。この先、まともに人と話せる日は来るのだろうか。


 だが、塞ぎ込んでいる暇はなかった。


 セリシアは顔を上げ、部屋の中を見回した。


 まず知らなければならない。

 この「セリシア=ローズ」という存在が、どんな過去を持ち、どんな生き方をしてきたのか。


 前世で読んだ小説には、セリシアの悪行だけははっきり書かれていた。

 ヒロインをいじめ、王太子の婚約者の座に固執し、最終的に破滅する――そんな悲惨な結末まで。


 だが、そこに至るまでの境遇や、彼女自身がどう生きてきたのか。

 あるいは、救われる道があったのか――


 その先までは、読むことができなかった。


 物語を最後まで見届ける前に、セリシア=ローズに転生してしまったからだ。


 知らない。

 わからない。


 だからこそ、自分で知るしかなかった。


 セリシアは書棚へ向かい、積み重ねられた古びた手帳や書簡を引っ張り出した。

 貴族の家系図、過去の舞踏会の記録、侯爵家との交友関係、数々の噂話の断片――。


 セリシア=ローズ。

 名門ローズ家の一人娘。

 美貌と家柄を誇りに育てられ、周囲からは「完璧なお嬢様」と讃えられていた。


 この国――リヴェール王国において、ローズ家は特別だった。

 建国の英雄たる五英傑の家系の一つに数えられ、王家に次ぐ由緒を誇っている。


 しかも、彼女の家は単なる分家ではない。

 各五英傑の家には数多くの分家が存在していたが、ローズ家は紛れもない本家本元。

 血統の純潔を保ち続けた、直系の家系だった。


 その誇りと責任は、幼い頃からセリシアに容赦なくのしかかってきた。


 失敗は許されない。

 常に人々の模範であり続けなければならない。

 期待に応えられなければ、それだけで存在を否定される。


 だが、誰も彼女の心を見ようとはしなかった。

 見えたのは、整えられた外面だけ。

 讃えられたのは、作られた完璧さだけだった。


 称賛も、羨望も、恐れも――

 すべては、彼女を孤独へ追いやる鎖でしかなかった。


 セリシアは、ぱたりと一冊の手帳を閉じた。


 孤独が彼女を歪めたのか。

 それとも、生まれ持ったものだったのか。


 どちらにせよ、過去は変えられない。


 セリシアは手帳を閉じ、椅子に深くもたれかかった。

 思った以上に、疲れていた。

 生まれながらに与えられた立場と、これまで積み重ねた過去。

 すべてを理解した上で、それでも変わろうとするのは、簡単なことではなかった。


 けれど、じっとしているだけでは何も変わらない。

 それに時計の針は、まだ昼にもなっていなかった。


 ためらいながらも、セリシアは椅子から立ち上がった。

 このまま部屋に閉じこもっていたら、また「気まぐれ」と誤解されるだけだ。


 小さなことでもいい。

 何か一つ、行動を起こさなければ。


 そう思ったものの、セリシアはふと立ち止まった。


 そもそも、この屋敷の構造をよく知らなかった。


 セリシア=ローズの記憶は、断片的にしか残っていない。

 部屋の位置や、使いの侍女の顔はなんとなく分かるが、それ以外はほとんど空白だった。


 ーーなら、まずは歩こう。


 探索するふりをして、屋敷を知る。

 それに、歩きながら今後の作戦を考えるにはちょうどいい。


 セリシアは慎重に廊下へ出た。


 磨き上げられた大理石の床、金箔の装飾が施された柱、天井に吊るされたシャンデリア。

 どこを見ても豪奢で、気圧されそうな空間が続いている。


 静かな廊下を歩きながら、セリシアは考えを巡らせた。


 このまま、ただ優しく振る舞うだけでは意味がない。

 誰も彼女を信用していないのだから。


 なら、どうするべきか。


 小さな善行を積み重ねるのは大前提として――

 それ以上に、「本気で変わった」と思わせる何かが必要だった。


 できるだけ自然に、できるだけ無理なく。


 セリシアは歩きながら、必死に考えを巡らせた。


 今、この屋敷の中には、かつての”悪いセリシア”しか知らない人間しかいない。

 どれだけ取り繕っても、彼らの脳裏には過去の姿が焼き付いている。


 そこに、新しい風を入れたら――?


 ふと、ひらめきが降りてきた。


「……そうだ、新しい従者を雇えばいい」


 ぽつりと小さく呟く。


 ローズ家の威光は健在だ。

 名目さえ整えれば、従者の一人や二人、新たに迎え入れることは難しくない。


 そして、その従者には――

 最初から、今の「変わったセリシア」の姿しか見せなければいい。


 過去を知らない人間なら、先入観なしに接してくれる。

 むしろ、自然に「セリシア様は優しい方だ」と思い込むだろう。


 それを少しずつ、周囲に広げていけば、セリシアの評価を内側から変えることができるかもしれない。


 もちろん、姑息なやり方だとは分かっていた。

 けれど、それでもいい。


 何もせず嫌われ続けるより、ずっとましだった。


 まずは一人。

 誠実に接し、誠実に信頼を築く。


 そこから始めればいい。


 セリシアは、そっと足を止めた。


 白い噴水の水音が、静かに耳を満たす。

 春の光が、彼女の金色の髪を柔らかく照らしていた。


 ――決めた。


 心の中でもう一度、一からきちんと向き合おうと誓ったのだった。




 ◇




 やがてローズ家に新しい新米従者がやってきた。


 淡い銀色の髪を揺らしながら、小柄な少女がそろそろと歩み寄る。

 肩にかかるくらいのボブカットに、澄んだ緑色の瞳。

 制服はまだ少し大きめで、どこか頼りないながらも、一生懸命な気配が伝わってくる。


 少女はぎこちなく頭を下げ、大きな声で挨拶した。


 「はじめまして、セリシア様! 本日からお仕えすることになりました、ノエル=ブランシェと申します!」


 まるで、セリシア=ローズの過去も、悪評も、何も知らないかのような――そんなまっすぐな目だった。


(……本当に、知らないんだ)


 彼女は遠く離れた寒村の出身で、王都に上がってきたばかりだという。

 ローズ家の闇も、セリシアの悪名も、まだ耳に届いていない。


「……よろしくね、ノエル」


 セリシアは、できる限り優しく微笑んだ。


 ノエルは一瞬きょとんとしたが、すぐにぱっと顔を明るくして、深くお辞儀を返した。


 その無垢な反応に、セリシアも小さく息をついた。


 これまで、彼女の身の回りの世話はクララが担当していた。

 怯えたように指示を待ち、叱責される前に動き、常に顔色をうかがいながら接してきたクララ。

 だが、今日からは違う。


 正式な辞令が下り、ノエル=ブランシェがセリシア=ローズの新たな専属世話係となったのだ。


 クララは、一歩引いた位置からその様子を見守っていた。

 その表情には――かすかな、安堵の色が滲んでいた。


(……彼女にとっても、それが良かったのかもしれない)


 とセリシアは、静かに思う。


 クララのような、かつての自分に怯えてきた者を無理に縛り続けるよりも、新しい誰かと一から信頼を築く方が、きっと良いだろうと。


 ノエルは、差し出した手に小さなタオルと洗面具を乗せ、慣れない手つきでセリシアに差し出した。


 緊張しながらも、一生懸命に仕事をこなそうとする姿が、なんとも初々しい。


 セリシアは微笑みながら、それを受け取った。


 「ありがとうノエル。」


「は、はいっ! 何でもお申し付けください!」


 張り切った返事に、セリシアは少しだけ目を細めた。




 ◇




 ノエルがセリシアのもとに来てから、数ヶ月が過ぎた。

 最初は緊張でぎこちなかった手つきも、今ではすっかり板についている。


 特に、ノエルは手先がとても器用だった。

 毎朝の身支度では、セリシアの髪を見事に整えてくれる。


 以前のセリシアは、いつも自分で簡単なまとめ髪にしていた。

 格式ある家柄とはいえ、同じ髪型ばかり。

 儀礼的に整えるだけで、そこに楽しみや工夫はなかった。


 だが、今は違う。

 ノエルは毎日、少しずつ違うアレンジを加えてくれた。


 今日は緩やかな編み込み。

 昨日は低めのシニヨン。

 その前は、可憐なリボン飾りまで添えて。


 セリシアは、鏡の中に映る自分を見ながら、自然と頬が緩むのを感じた。


 「……今日も素敵ね、ノエル」


 そう声をかけると、ノエルは顔をぱあっと輝かせた。


 「嬉しいです! もっといろんな結い方、覚えますね!」


 はにかみながら笑うノエルの姿を見て、セリシアも思わず微笑んだ。


 ふと、そんな彼女に問いかけた。


 「そういえば……ノエル。他の従者たちとは、うまくやっていけてる?」


 ノエルは、手元でリボンを整えながら、少し考える素振りを見せた。


 そして、明るく答える。


 「ぼちぼち……ですかね!」


 その言葉に、セリシアは内心ほっとしかけた。


 「でも……!」


 セリシアが驚いて振り向くより早く、ノエルは勢いよく言葉を続けた。


 「みんな、ひどいんです! セリシア様は、ちゃんと優しい方なのに! 悪い人だなんて、全然違うのに!」


 小さな拳をぎゅっと握りしめ、悔しそうに訴えるノエル。


 セリシアは、目を瞬いた。

 そんなふうに、何の打算もなく、自分を庇ってくれる人が、この世界にいるなんて――。

 胸の奥が、じんわりと熱くなる。


 「ノエル……」


 そっと呼びかけると、ノエルはきょとんとした顔で振り返った。

 「わたし、本当に、セリシア様にお仕えできてよかったって思ってます!」


 違うのよ、ノエル。私、本当に大悪党の悪役令嬢だったのよ。と内心思うのであった。


 「それで、今日のご予定は一体何になさいますか?」


 セリシアは、ほんの少し考え込んでから、答えた。


 「ええと……そうね。いつもの書類でお願いするわ」


 ノエルは元気よく「かしこまりました!」と返事をして、机の上に積まれた分厚い書類束を抱え上げた。


 「うわぁ……沢山あるわね」


 手に持った紙束を改めて眺めながら、さらに小さく圧縮して、その上に重しを置いた。

 そこまでしないと書類が床に散らばってしまうからだ。


 すると突然ノエルはくるりと振り返り、ぱっと手を挙げた。


 「私が手伝いましょうか? 代筆します!実はこう見えて何か書くの得意なんです!」


 勢い込んだその申し出に、セリシアはふっと笑った。


 「ありがたいけど、ダメよ」


 ノエルはきょとんと首を傾げる。


 セリシアは、ペンを指先で転がしながら言葉を続けた。


 「こういう公文書はね、場合によっては筆跡鑑定にかけられることがあるの」


 「ひ、筆跡鑑定……?」


 ノエルは目を丸くした。


 「ええ。特にローズ家みたいな家格だと、何かあった時のために、正式な文書は全部、本人直筆であることが求められるわ」


 ノエルは、ほぉっと感心したように頷いた。


 セリシアは軽く微笑んだまま、言葉を重ねた。


 「それに……」


 少しだけ言葉を選んで。


「……これは、私の役目だから」


 セリシアは静かにペンを取り、最初の書類にサインを入れた。

 ノエルは、そんな彼女をまぶしそうに見つめていた。


 書類の整理は、予想以上に骨が折れた。


 次から次へと現れる伝票、報告書、細々とした覚え書き。


 慣れない目で一つ一つ確認しながら、サインを入れ、必要に応じて指示書を添付する。


 (……量が多すぎるよ〜)


 セリシアは、かすかな頭痛を覚えながら、書類の山をさらに崩していった。


 そのときだった。


 重ねられた紙束の、さらにその奥。

 くたびれた封筒に包まれた、一枚の招待状らしき書類がひょっこり顔を出した。


 「……なに、これ……?」


 怪訝に思いながら、封を切る。

 そこには、華やかな金文字でこう記されていた。


 【ローズ家ご令嬢セリシア=ローズ様へ

 七日後、ブランフルール家主催の交流会にご出席願います】


 ――ブランフルール家。


 この国の中でも、由緒ある五英傑


 この国の中でも、由緒ある五英傑の一つ。

 建国時から続く本家本元の名門であり、ローズ家とは互いに並び立つ立場にあった。


 単なる茶会や親睦会などとは、訳が違う。


(……そんな、大舞台に……)


 セリシアの背筋に、冷たい汗が伝った。


 しかも――


 この招待状、正式には四日前にローズ家へ届いていた。


 つまり、交流会まで、もう残り三日しかない。


 準備期間も、心の準備も、ほとんど残されていなかった。


 「え、えええええええええええええっ!!?」


 セリシアは絶叫した。

 手元のペンを放り出し、山積みの書類を押しのけ、ガタガタと震えながら床に崩れ落ちる。


 「ど、どうしよう……無理……絶対無理……っ!!」


 床に突っ伏し、情けない声を漏らしていると――


 ドタバタ、と急いだ足音が聞こえた。

 バン、と勢いよく扉が開く。


 「どうなさいましたか! セリシア様!」


 ノエルだった。

 驚愕と心配を入り混じらせた顔で、彼女は駆け寄ってくる。


 「だ、大丈夫ですか!? 何かあったんですか!? 怪我ですか!? 病気ですか!?」


 次々と飛び出す質問に、セリシアは床に倒れたまま手を振った。


 「ち、違うの……違うけど……でも、もっと深刻……」


 嗚咽混じりの声で、ようやく絞り出す。


 ノエルは混乱しながらも、セリシアの横に膝をついた。


 「セリシア様っ、落ち着いて……! ゆっくりでいいので、事情を教えてください!」


 セリシアは、書類の山の中からぐったりと手を伸ばした。

 その手には、一通の招待状――問題の交流会の案内状が、くしゃっと握られていた。


 「これ……これよ……!」


 かろうじて持ち上げたそれを、ノエルに見せる。

 ノエルは、受け取った招待状を素早く目で追った。


「……交流会……? ブランフルール家……?」


 小首を傾げながら読み進め、すぐに表情が青ざめる。


 「三日後っ……!?」


 「ノエル、至急よ。三日後に交流会があるって、皆に伝えてきて!」


 指先で招待状を押さえながら、必死に指示する。


 ノエルは慌てたように直立した。


 「わ、分かりました!」


 勢いよく頭を下げると、バタバタと音を立てて部屋を飛び出していく。

 開きっぱなしになった扉の向こうに、ノエルの小柄な背中が見えた。


 セリシアは、残された静けさの中でゆっくりと身を起こす。


 机に散らばる書類と、ぐしゃぐしゃの招待状。

 目をそらしたい現実が、容赦なく目の前に広がっていた。


「間に合わせるしか、ないわね」


 セリシアは小さく息を吸い込み、ふらつく足で立ち上がった。


 すぐに彼女はブランフルール家への返事を書く事にした。


 急ぎ便箋を取り出し、丁寧な言葉で、出席の意志と返事が遅れたことへの謝罪を綴る。


 封をし、蝋を落として丁寧に封緘する。

 乾きを確かめる間も惜しみ、セリシアは呼び鈴を鳴らした。


 すぐに控えていた使用人が駆け寄ってくる。


 「これを、急ぎブランフルール家へ届けて。礼を失する事のないように、最優先でお願い」


 使用人は目を見開きながらも、深く一礼して駆け出していった。

 手紙を託した瞬間、セリシアは小さく息を吐いた。


 ひとまず、最低限の礼儀は果たした。

 しかし、心は少しも落ち着かなかった。


 次は衣装――

 急がなければ、何も間に合わない。


 セリシアはスカートの裾を持ち上げるようにして、屋敷中を走り出した。


 幸いと言っていいのは、今回の交流会の会場が、ローズ家ではなかったということだった。


 ブランフルール家の本邸での開催。


 だからまだ、どうにかなる。


 もし万が一、こちら側、つまりローズ家が会場だったなら。


 使用人総動員で屋敷を整え、庭園を飾り付け、招待客を迎える準備に追われる羽目になっていただろう。


 到底、三日で間に合うはずがない。


 (……いや、本当に運が良かった)


 セリシアは息を切らしながら、心の底からそう思った。

 とはいえ、安心している暇はない。

 自分自身の支度すら、まだ何一つ整っていないのだから。


 急げ、急げ。


 一刻も早く――。




 ◇




 そして、当日を迎えた。


 何度も「無理だ」「終わった」と天を仰ぎそうになった準備だったが――

 奇跡のように、全てはどうにか形になっていた。


 ドレスは昨夜遅くに仕上がり、靴も手袋もぴたりと揃えられている。

 馬車の手配も整い、送迎の時間にも余裕がある。


 髪も丁寧にまとめられ、ノエルの手で最後の仕上げまで施された。


 (……よく間に合ったわね)



 セリシアは鏡の中の自分を見ながら、心の底から感心していた。


 あの混乱から、たった三日。

 誰一人として投げ出すことなく、文句も言わず、全力で支えてくれた。


 自分の、ただの失念がきっかけだったというのに――。


 「……皆、本当に頑張ってくれたわね」


 ポツリと漏れたその言葉に、深い感謝がにじんでいた。

 セリシアはふと思いつき、胸元のメモ帳にそっと書き込む。


 ――今月、全使用人への給金を増額すること。


 たった三日でこの修羅場を乗り切ってくれたのだ。

 せめてもの礼として、形に残るものを返したかった。

 それが当然だと、彼女は思っていた。


 準備が一段落したあと、セシリアはノエルから手渡された名簿に目を通していた。

 それは、今回の交流会に出席する各家の一覧だった。

 主催であるブランフルール家は、この手の催しを非常に開かれた形式で行うのが慣例だった。

 本家・分家の区別を問わず、一定の身分と立場を持つ若手貴族を幅広く招くのが特徴だ。


(ブランフルール家らしいわね……)


 セリシアは静かにページをめくった。

 見覚えのある名が、ちらほらと目に入る。


 ローズ家の分家――

 遠縁にあたる若い令嬢や、地方で管轄を任されている当主の娘たち。

 日頃は滅多に顔を合わせることもないが、こうした大規模な催しには当然、名を連ねてくる。

 だが、その中でも、ひときわ目を引く名があった。


 名簿の中段、筆致の美しい一行。


 《ブランフルール家 本家長子 レオナール=ブランフルール》


 ブランフルール家の本家長子。

 将来の当主と目されている、若きご子息の名だった。


 だが、彼は社交の場にはほとんど姿を現さないことで知られている。

 それだけに、今回の参加は極めて異例だった。


 セリシアは名簿のその名を見つめたまま、眉をひそめる。

 日記帳の一節が、脳裏にちらりと浮かぶ。


 ――彼にも、過去に嫌がらせをしていた。


 それ以上は読み返していない。だが、その一行があるだけで十分だった。


 どんな顔をして会えばいいのか分からない。

 どんな言葉を交わせば、少しでも罪を償えるのかも。


 セリシアは、静かに名簿を閉じた。


 「ねぇ、ノエル。お願いがあるのだけど。」


 と、彼女はあるお願いをするためにノエルを呼んだ。


 


 ◇




 ローズ家ではすぐに募集をかけたが、率先して手を挙げたのはノエルだった。


 迷わず、彼女を連れていくことに決めた。


 馬車の中は、柔らかなクッションと香り高い革張りの座席で整えられている。


 窓の外を春の光が流れていく中、ノエルは隣で嬉しそうに顔を輝かせた。


 「セリシア様。本当にありがとうございます! 私、楽しみにしていました!」


 ノエルの声には、緊張よりも期待と喜びが満ちていた。


 セリシアは微笑んで、そっと答えた。


 「いいのよ、それくらい。それに――ノエルには返しきれないくらいの恩があるわ」


 ノエルは、密かに尽力してくれていたのだ。


 かつて、屋敷中に蔓延していたセリシア=ローズの悪評。

 それを少しでも払拭しようと、「セリシア様は変わったんです!」「本当は優しい方なんです!」

 と、ノエルは周囲に訴え続けてくれた。


 最初は半信半疑だった使用人たちも、やがて一つの結論に至った。


 ――どうやら、セリシア様は頭でも打って、性格がとても良くなったらしい。と。


 その噂は、今やローズ家の中で、ある種の“共通認識”となっていた。

 真実はともかく、それによってセリシアは少しずつ、周囲とのわだかまりを解かれていったのだ。


 「いえいえ、そんな事はありませんよ!むしろ私が感謝したいくらいです!」


 ノエルは、ぱっと顔を明るくさせた。


 「セリシア様に仕えて、いろんなことを学ばせてもらってます。それに、セリシア様みたいな素敵な方のそばにいられるだけで、すごく嬉しいんです!」


 そのまっすぐな声に、セリシアはふっと息を吐くように笑った。


 「……そんなふうに言ってもらえるなんて、光栄だわ」


 窓の外では、ブランフルール家の広大な庭園が見え始めていた。


 整然と並ぶ石畳の道、咲き誇る白いバラの列。

 中央の噴水には、建国の五英傑をかたどった石像が静かに佇んでいる。


 馬車はゆっくりと速度を落とし、門前に停車した。

 

セリシアは背筋を伸ばし、軽くスカートの裾を整えた。


 「ノエル、行きましょう」


 2人は並んで馬車を降りた。


 外の空気は澄んでいて、春の陽光が庭園の花々を柔らかく照らしている。

 春の柔らかな陽射しの中、門前に整列する門番たちが一斉に恭しく頭を下げる。


 石畳の上には、すでに多くの馬車が並び、

 鮮やかなドレスや礼服に身を包んだ貴族たちが、次々と館へ向かっていた。


 周囲には、微かな香水の香りと、絹ずれの音が漂う。


 (……これが、五英傑の一角、ブランフルール家の交流会)


 セリシアは、改めて場の重みを感じた。


“今”の彼女は、こうした場に立った経験がなかった。


 かつてのセリシア=ローズ――

 傲慢だった彼女なら、きっと何度もこうした華やかな社交の場に顔を出していたのだろう。


 この空気も この視線も、全てが初めてだった。


 胸の奥に小さな緊張が走る。


 そして、セリシアが一歩、広間に足を踏み入れた瞬間だった。

 場の空気が、ざわりと揺れた。


 遠く、近く、あちこちから微かなさざめきが起こる。


 ひそひそと交わされる声。

 探るような視線。

 あからさまに驚きを隠せない顔。


 (……やっぱり、ね)


 セリシアは、静かに息を吸い込んだ。


 無理もなかった。

 この場に集う者たちは、皆、彼女の“かつて”をよく知っている。


 王太子妃の座を狙ってヒロインをいじめ抜き、権力を笠に着て他家に横暴を振るった“悪役令嬢”セリシア=ローズを。


 その本人が、堂々と交流会に現れたのだ。


 警戒と興味と、そして冷たい好奇。

 あらゆる視線が、彼女の一挙手一投足に突き刺さるようだった。


 だが――


 ふと、その視線の向かう先が、微妙に変わるのをセリシアは感じた。

 彼らの視線は、セリシアの顔……ではなく、その髪へと向かっていた。


 実は、出発直前にノエルに頼んで切らせたのだ。


 腰まで届いていた金色の長髪は、

 今では肩にかかるほどの軽やかな長さになっている。


 巻きも飾りも最小限に抑え、すっきりと結われた髪。


 清楚で、けれど堂々としたその佇まいは、

 かつての”華美で傲慢なセリシア”のイメージとはまるで違っていた。


 ざわめきが徐々に静まり、

 広間に微妙な沈黙が広がる。


 そんな中――


 背後で、軽やかな足音が聞こえた。


 セリシアは、無意識に肩を強張らせる。


 ゆっくりと振り返ると、そこに立っていたのは


 レオナール=ブランフルール。


 端正な顔立ち。

 冷静な瞳。


 周囲の視線が彼に集まるのも当然だった。


 白を基調とした礼服を纏い、静かに場を制するような雰囲気。

 その姿は、どこまでも威厳と静謐をまとっていた。


 かつて彼に、罪を重ねた相手として。

 今、改めて、“初めて”出会った瞬間だった。


 声もなく、互いに名乗ることもなく、彼女が一方的に見つけただけ。

 けれど、それだけで――胸の奥に、言いようのない衝撃が走った。


 レオナールは一度もこちらを振り返らず、そのまま歩き去っていく。

 彼は――気づいていなかったのだ。


 暫くした後、広間の奥に設けられた壇上に、一人の人物が現れた。


 白髪に深紅のマント、鋭い眼差しと静かな笑みをたたえた紳士――

 ブランフルール家の現当主だった。


 周囲がすぐに静まり返る。


 「皆、よくぞお集まりいただきました。本日は、我が家が長年受け継いできた信義の場に相応しく、家名を超えて若き者たちが語り合える良き機会となれば幸いです」


 ブランフルール当主は続けて話す。


 「我ら五英傑の末裔が手を携えることで、今後の王国がより豊かな未来を歩むことを願っております」


 その言葉に、幾人かの貴族が静かに頷いた。


 当主はグラスを手に取り、高く掲げる。


 「――では、諸君。乾杯を」


 その一声とともに、広間に一斉にグラスが持ち上がる。


 「乾杯!」


 グラスの触れ合う音が、澄んだ鈴の音のように重なり、その瞬間、交流の場は本格的に幕を開けた。

 貴族たちはグラスを片手に、あちらこちらで輪を作り始めた。

 けれど、セリシアのまわりだけは――不自然なほどに静かだった。


 誰も彼女に近づこうとしない。

 彼女が視線を向けると、相手は小さく笑って会釈し、すぐに別の方向へ向かっていく。


 (……やっぱり、こうなるわよね)


 そんな予感は最初からあった。

 けれど、実際に体感する孤立の冷たさは、思っていた以上に堪えた。


 「セリシア様……」


 そっと寄ってきたのは、やはりノエルだった。

 不安げに上目づかいで彼女を見つめる。


 「わたし、一緒にいますよ? ずっと隣にいますから」


 その言葉に、セリシアはふっと表情を和らげた。

 その笑顔に、少しだけ自分でも救われたような気がした。


 けれど、すぐにそっと首を横に振る。


 「ありがとう、ノエル。でも……せっかくの交流会なのよ。あなたは自由にしてきて」


 「え、でも……」


 「大丈夫。私は平気だから」


 言葉を重ねて、そっとノエルの背を押す。


 「あなたが楽しんでくれた方が、私も嬉しいから」


 ノエルは少しだけ躊躇ったものの、やがて小さく頷いた。


 「……はい。でも、困ったらすぐ呼んでくださいね!」


 「ええ、分かってるわ」


 見送るように微笑みながら、セリシアは再び視線を広間に戻した。


 その先には、賑わいと笑顔が溢れている。

 けれど、そのどこにも自分の居場所はなかった。


 ふと、足元の絨毯の模様を見つめながら、セリシアは小さく息を吐いた。


 その瞬間――背後から静かな声が届いた。


 「君が、セシリア=ローズであってる?」


 驚いて顔を上げた彼女の視線の先には、

 さきほど一度すれ違ったあの青年、レオナール=ブランフルールが立っていた。


 彼はごく自然な姿勢でセリシアの前に立ち、相変わらず冷静なまなざしを向けていた。


 名前を呼ばれたことで、広間の空気がわずかに揺れる。


 無理もなかった。

 ローズ家とブランフルール家――

 この王国において、五英傑の血を継ぐ本家同士の交流なのだから。


 レオナールは、そうした視線にも動じることなく、静かに言葉を継いだ。


 「君が良いのなら、少し場所を移ろうか」


 セリシアは一瞬だけ戸惑ったが、すぐに頷いた。


 二人は並んで、広間の片隅――人目の少ないバルコニーへと移動した。


 バルコニーに出ると、外の空気は少しひんやりとしていた。

 けれど、広間のざわめきとは違い、そこには穏やかな静けさがあった。


 レオナールは欄干に軽く寄りかかりながら、ふと笑みを浮かべた。


「いやはや、君を見かけた時は驚いたよ。髪を短くしていて分からなかったから」




「あら、そうかしら?」


 セリシアは、わざと軽く肩をすくめて返した。

 けれど、その声には微かに緊張が混じっていた。


 レオナールは彼女の様子に気づいた様子も見せず、空を見上げる。


 「雰囲気がずいぶんと変わっていた。見違えたと言ってもいいくらいだ」


 「……悪い意味で?」


 「いいや、むしろ逆さ」


 彼は振り返り、穏やかな声で言った。


 「ずいぶんと、清々しくなった。君自身がね」


 セリシアは一呼吸置き、手すりに指先を添えた。


 「貴方に――謝らなければいけないことがあるの」


 その声は小さく、けれど曇りはなかった。


 レオナールは黙って彼女の言葉を待つ。


 「かつて、私はあなたにとてもひどいことをした。どれほど傷つけたか……今になって、それがどれほど重いことだったか分かるの」


 言い訳はしなかった。

 誰かに言われたからでも、何かのついででもなく。

 彼女自身の意思で、罪を認めた。


 「本当に……ごめんなさい」


 周囲の喧騒から切り離されたような静けさの中で、

 その言葉はまっすぐに、レオナールの前に差し出された。


 しばらくの沈黙の後、レオナールがふっと笑った。


 「大丈夫だよ。セリシア、気にしないで」


 その声は驚くほど優しかった。


 「君の素行の悪さは……まあ、確かに少し気になってはいたけれど、最近は評判が良くなったと聞いてね」


 セリシアが驚いて顔を上げると、レオナールは肩をすくめて続けた。


 「だから、招待状もわざわざ送ったんだ。君と、ちゃんと話ができればと思って」


 セリシアの胸に、じんわりと温かいものが広がる。


 「だけど――」


 レオナールはそこで少し口調を崩し、いたずらっぽく笑った。


 「まさか、君が招待状の返事をギリギリに出すとは思わなかったよ。らしくないね」


 その笑みに、セリシアも思わず吹き出しそうになった。

 それは、責めるでも、嘲るでもなく――ただ、距離を縮めようとする、自然な笑いだった。


 レオナールの笑みが少し和らいだまま、彼は手を差し出した。


 「せっかくだし、踊らない?」


 セリシアは一瞬、戸惑ったように目を瞬かせたが、すぐに小さく頷いた。


 「……ええ。光栄だわ」


 その手を取ると、ふわりと引き寄せられる。

 二人は並んで、再び広間へと戻っていった。

 先ほどよりも視線は多く、ざわめきも濃い。


 長らく、ローズ家とブランフルール家の本家は、こうした社交の場で共にダンスに参加することはなかった。

 それが今、セリシアとレオナールが――本家同士の若き後継者たちが並び立ち、共に踊ろうとしている。


 驚きが広まるのも、無理はなかった。


 レオナールと向かい合い、音楽が始まる。

 ゆっくりとしたワルツの旋律が、床を滑るように二人の歩みに寄り添う。

 リズムに合わせて一歩、また一歩と歩を進める。

 彼の手はとても穏やかで、引き寄せられる動きも滑らかだった。


 セリシアは、緊張しながらも自然と体を預ける。


 音楽に合わせ、くるりと回ったその瞬間、光を受けて、セリシアのドレスの裾がふわりと舞い上がる。


 柔らかなシフォンの生地が、春の花びらのように軽やかに宙を踊った。

 レオナールの白と、セリシアの桜色が、広間の中で静かに溶け合う。


 広間のざわめきは耳の奥で遠ざかり、

 今この瞬間だけが、確かに存在していた。


 誰もが驚きと好奇の入り混じった視線を向ける中、

 セリシアは、ただ目の前の音楽と、手を取る温もりに集中していた。


 音楽は、やがて緩やかに終わりを迎えた。


 最後の一歩を踏み出し、レオナールが軽く手を引いてセリシアを正面へと導く。

 二人は静かに一礼し、舞踏の幕を閉じた。


 広間には、ぽつぽつと拍手が湧き始める。

 その音に包まれながら、セリシアはそっと顔を上げた。


 ふと視線を巡らせれば、少し離れた場所に――ノエルの姿があった。

 彼女はぱっと表情を輝かせ、大きく手を振っている。

 レオナールが軽く顎で促す。


 「行っておいで」


 セリシアは微笑みを返し、ノエルのもとへ向かった。


 「セリシア様、すっごく素敵でした! 本当に、本当に……!」


 ノエルは顔を赤くしながら、興奮気味に言葉を重ねた。


「ありがとう、ノエル。あなたのおかげよ」


 優しくそう言うと、ノエルはさらに嬉しそうに笑った。


 その後、交流会も終わりに近づき、

 各家の子息や令嬢たちは順に別れの挨拶を交わしていた。


 広間の賑わいも徐々に落ち着きを取り戻し、

 あれほど煌びやかだった夜が、少しずつ静かに幕を引こうとしていた。


 セリシアは、最後の礼を尽くすため、再びレオナールのもとへと向かう。


 彼はすでに何人かの客を見送った後だったが、

 セリシアが近づくと、すぐに気づいて優しく微笑んだ。


 「今日は招いてくれてありがとうレオナール」


 「こちらこそ。……君が来てくれて、本当に嬉しかったよ」


 穏やかなその声に、胸がじんわりと温まる。


 セリシアはそっと礼をして、ノエルと共に広間を後にした。

 扉の向こう、夜風がやさしく吹き抜ける。


 石畳を踏みしめながら歩き出したその時、

 隣を歩くノエルが、ぱっと顔を輝かせた。


 「セリシア様! よかったですね。レオナール様と仲直りができて!」


 無邪気に、心から喜んでいるその声に、セリシアはふっと笑みを漏らした。


 「――そうね。とても、よかった」


 言葉にすれば、胸の奥が少しだけあたたかくなる。


 ぎこちない一歩だったかもしれない。

 それでも、確かに前に進めた一歩だった。


 けれど、心のどこかで、静かに思う。


 レオナールだけではない。

 自分がこれまで迷惑をかけた人たちは、きっと数え切れないほどいる。


 たった一度謝っただけで、過去が消えるわけではない。


 それでも――


 謝ることを、逃げずに、きちんと口にする。

 その一歩が、どれほど大切なものか。

 今日、彼女は初めて本当の意味で知ったのだった。


 夜風がまたひとつ、セリシアの髪を揺らす。


 セリシアはそっと微笑み、ノエルと肩を並べて、静かに帰りの馬車へ向かって歩き出した。

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◆◆◆  長期連載中・予定の短編  ◆◆◆
『お嬢様、家出をする!』
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