第9話:死の円環(前編)
長かった梅雨がようやく明け、夏の強い日差しが降り注ぐようになった七月のある午後。上條蛍の書斎には、エアコンの静かな運転音だけが響いていた。彼女は肘掛け椅子で、古い紋章学の書物を紐解いていた。獅子、鷲、百合の花……それぞれに込められた象徴的な意味、組み合わせによって生まれる新たなメッセージ。人間の歴史は、時にこのようなシンボルを通じて、言葉にならない想いや権威、あるいは秘密を伝えてきたのだ。
「形には、力が宿る……。意図を持って配置された形は、時に言葉以上に雄弁に語りかけるものね」
蛍は指先で、複雑な紋章の意匠をそっとなぞった。窓の外では、蝉の声が喧しく響き始めている。生命の謳歌。しかし、その短い命の輝きは、どこか刹那的な危うさも感じさせた。ムサシは、暑さを避けるように床の一番涼しい場所に寝そべり、時折、耳だけをぴくりと動かしている。
不意に、階下で慌ただしい呼び鈴が鳴り、間髪入れずに階段を駆け上がってくる、切迫した足音が聞こえた。ただ事ではない気配に、蛍は静かに本を閉じた。
「蛍さん! 大変な事件です! 今度は……人が殺されました!」
ドアを乱暴に開けて飛び込んできたのは、汗だくの佐々木誠刑事だった。その顔には、焦りと共に、事件の異常さに対する戸惑いが浮かんでいる。
「落ち着いて、佐々木刑事。まずは息を整えて。冷たい麦茶を用意するわ。それで、詳しく聞かせてくれる?」
蛍は努めて冷静に声をかけ、冷蔵庫から冷えた麦茶を取り出した。佐々木はグラスを一気に飲み干し、ぜえぜえと肩で息をしながら話し始めた。
「今朝、市内の公園……『白鳥公園』の池で、男性の遺体が発見されたんです。被害者は、市内で小さなデザイン事務所を経営している、五十嵐悟さんという方です」
「白鳥公園……。死因は?」
「溺死と見られます。しかし……奇妙なんです。遺体は、池の中央にある小さな噴水の、白鳥の彫刻にもたれかかるような、不自然な格好で見つかりました。まるで……意図的にそこに配置されたような……。それに、彼の右手には、なぜか一輪の白い睡蓮の花が握られていたんです」
「白い睡蓮……。争った形跡は?」
「それが、ほとんどありません。着衣の乱れも少なく、抵抗した様子は見られない。現場周辺にも、不審な遺留品は見つかっていません。今のところ、事故なのか、自殺なのか、あるいは……」
「あるいは、巧妙に偽装された殺人、ということね」蛍は静かに引き取った。「五十嵐さんという方に、何かトラブルは? 恨まれるような心当たりは?」
「現在、捜査員が聞き込みを進めていますが、今のところ、特に大きなトラブルは確認されていません。温厚な人柄で、仕事も順調だったようです」
蛍は目を閉じ、指先でこめかみを軽く押さえた。白鳥公園、白鳥の彫刻、白い睡蓮……。「白」という色、そして水辺のモチーフ。単なる偶然にしては、あまりにも揃いすぎている。まるで、何かの「見立て」のようだ……。紋章学の書物で見たような、象徴的な意味を込めた配置……。
「佐々木刑事、いくつか確認してほしいことがあるわ。急いでお願いできるかしら」
蛍の口調には、いつになく緊迫感が滲んでいた。
被害者の五十嵐悟さんの最近一週間の足取りを詳しく。特に、昨夜、誰と会い、どこへ行ったのか。
五十嵐さんの人間関係を徹底的に洗って。仕事関係、プライベート、過去の交友関係も含めて。彼を「白」や「水」のイメージと結びつけるような要素はなかったか? 例えば、名前の由来、趣味、あるいは過去の出来事など。
現場で見つかった白い睡蓮について。公園の池に自生していたものか、それとも外部から持ち込まれたものか。
五十嵐さんの事務所や自宅に、何か変わったことはなかったか。最近、脅迫めいた手紙や電話は? あるいは、何か特定のシンボルやマークが残されていなかったか。
「分かりました! すぐに手配します!」佐々木は、蛍のただならぬ様子を感じ取り、素早く返事をして部屋を飛び出していった。
数時間後、佐々木は息を切らして戻ってきた。その顔は青ざめている。
「蛍さん……! 分かりました! 五十嵐さんの『悟』という名前は、仏教用語の『悟り』から取られたもので、彼の祖父がお坊さんだったそうです。そして……彼は若い頃、水泳の選手で、将来を有望視されていた時期があったと……!」
「やはり……。『水』と『白(清浄さ、悟り)』……。そして、睡蓮は仏教では智慧や慈悲の象徴……」蛍の呟きは確信に変わっていた。「佐々木刑事、これは単独の殺人事件ではないわ。これは……計画された連続殺人……その始まりよ!」
「連続……殺人!?」
「ええ。犯人は、特定の『見立て』に基づいて、標的を選び、殺害方法や現場を演出している。五十嵐さんは、その第一の犠牲者……」蛍の思考は高速で回転していた。見立て……パターン……次は何だ? 白の次は……?
「そのパターンは……?」
「まだ完全には見えないわ……。でも、何か……円環のような、あるいは対比のような……」蛍は必死に記憶を探る。紋章、神話、宗教……様々な象徴体系が頭の中を駆け巡る。そして、ある一点で思考が繋がった。「……黒……! そうよ、白と対になるのは黒……。水と対になるのは……火、あるいは地……。そして、五十嵐さんと対になるような人物……過去に何か関わりがあった人物……」
情報が足りない。しかし、時間は待ってくれない。何か、共通する要素……そうだ、地域性! 同じ市内の、特定の地域に住む、あるいは関わりのある人物……。五十嵐さんと関係があり、かつ「黒」や「地」を連想させる人物……。
「佐々木さん! 金井……金井隆さんという人物を知っているかしら!? おそらく五十嵐さんと同じ地域に住んでいるはずよ!」
「金井さん……? ええ、確か五十嵐さんの事務所の近くで古美術商を営んでいる……。それがどうかしたんですか!?」
「彼が危ないわ! 彼はおそらく、第二のターゲットよ! 彼の名前には『金(金属、あるいは富=黒に近い象徴性を持つことがある)』と『井(=地、穴)』が含まれている……! そして古美術商……古い『地』に埋もれたものを扱う仕事……!」
蛍の声は、焦りで上擦っていた。
「佐々木さん、いけない! 早く金井さんを保護して!」
「え? 金井さんを? どうしてですか?」
戸惑いながらも、佐々木は携帯電話を取り出し、部下の山田に金井の保護を緊急に指示した。しかし、電話口の山田の声は深刻だった。
「……ダメです、佐々木さん! 金井さんの店にも自宅にもいません! 今朝から連絡が取れないと……!」
翌日、金井隆氏は、市内の廃工場跡地で遺体となって発見された。死因は撲殺。遺体は、まるで地面に埋められるかのように、浅い穴の中に横たえられていた。そして、その胸の上には、一輪の黒い薔薇が置かれていたという……。
「なんてこと……」
佐々木からの報告を受けた蛍は、血の気が引くのを感じ、がくりと肘掛け椅子に崩れ落ちた。自分の気づきが、ほんの少し早ければ……。間に合わなかった……。自分の推理が遅れたために、また一人、命が奪われてしまった……。安楽椅子探偵の限界。現場に行けないもどかしさ。情報がなければ何もできない無力感。後悔と自責の念が、津波のように彼女の心を襲った。
「……私の、せいだわ……。私が、もっと早く気づいていれば……金井さんは……」声が震える。
「いや、蛍さんのせいじゃないですよ!」佐々木の声が受話器越しに響く。「俺たちの動きが遅かったんです! それに、こんな卑劣な犯人がいることが悪いんだ! 被害者の為にもちゃんと我々が犯人を捕まえること……それが俺たちの仕事です!」
佐々木の力強い言葉に、蛍は少しだけ冷静さを取り戻した。しかし、恐怖は消えない。犯人の計画は、まだ続いている。
「……いえ、まだ被害者は増えるわ」
「え?」
佐々木の動きが止まる。
「犯人の連続殺人はまだ終わっていない……」
「え? どういうことですか、蛍さん? 次は誰が殺されるっていうんですか!?」佐々木の声に焦りが混じる。
蛍は唇を噛んだ。犯人の見立てのパターン、その円環の中心にいるであろう人物……そして、その人物を守ろうと動くであろう……この電話の相手。
「……言えないわ……」
「え?」
「言えば、あなたが……佐々木さんが殺されることになる……」
「!?」
電話の向こうで、佐々木が息を飲む音が聞こえた。彼の目が驚愕で見開かれる様子が、目に浮かぶようだった。見えない犯人の脅威が、今、すぐそばまで迫っている……。書斎の静寂が、かつてないほどの重圧となって、蛍にのしかかっていた。
(続く)