第8話:隠された素描画
夏の気配が色濃くなり始めた午後、上條蛍の書斎には、窓から差し込む強い日差しを和らげるように、薄いレースのカーテンが引かれていた。彼女は肘掛け椅子に深く身を沈め、タブレット端末の画面に映し出された、一枚の古い油絵のデジタル画像に見入っていた。海外の美術館が所蔵する、17世紀オランダ絵画。特殊な高解像度カメラで撮影されたそれは、絵筆のタッチや、絵の具の微細なひび割れまでも鮮明に映し出している。
「描かれた当時の色彩を想像するのは難しいけれど……この陰影の深さ、光の捉え方……。何世紀もの時を経ても、人の心を捉える力は失われないのね」
蛍は独り言のように呟き、指先で画面をそっと拡大した。ふと、傍らで丸くなっていたムサシが、かすかに鼻をひくつかせたのに気づく。最近、蛍が取り寄せた古い画集に使われている、ニスか接着剤のような独特の匂いに反応しているのかもしれない。猫の嗅覚は、時に人間が気づかない微かな「何か」を捉える。
「物に残された痕跡は、目に見えるものだけではない……か。時間や、人の手が加わった証は、様々な形で語りかけてくるものなのね」
そんな思索に耽っていると、階下でやや慌ただしい呼び鈴の音が響き、続いて、聞き慣れた足音が階段を駆け上がってきた。
「蛍さん! ちょっと妙な……というか、専門外かもしれないんですが、困った騒ぎが起きてまして……!」
ドアを開けて飛び込んできたのは、やはり佐々木誠刑事だった。その表情には、いつもの事件とは少し違う、困惑と戸惑いの色が浮かんでいる。
「あら、佐々木刑事。専門外、というと? まさか、宇宙人の襲来でもあったのかしら」
蛍は冗談めかして言い、タブレットを閉じた。「さあ、どうぞ。今日は冷たいルイボスティーがあるけれど、いかが?」
「あ、いただきます! いえ、宇宙人ではなくて……絵画の、その、真贋騒動なんです」
佐々木は差し出されたグラスを受け取り、一気に喉を潤してから、事情を説明し始めた。
「市内の、駅裏にある小さな画廊『ギャラリー・シオン』をご存知ですか? 先週、そこで、近代日本画壇の巨匠とされる、故・有島嶺雲の未発表の素描画が見つかった、と発表があったんです」
「有島嶺雲……。寡作で知られ、現存する作品は少ないけれど、力強い線と独特のデフォルメで評価が高い画家ですね。未発表の素描画とは、大きな発見だわ」
「ええ、最初はそう報道されたんですが……。その絵の真贋を巡って、専門家の意見が真っ二つに割れてしまって、大騒ぎになっているんです」
佐々木は、数枚の写真……問題の素描画を様々な角度から写したものと、鑑定書らしき書類のコピーをテーブルに広げた。
「所有者は、地元で代々続く旧家の中村家です。先月亡くなった当主、中村泰三さんの遺品を整理していたら、書斎の奥から出てきたものだそうで……。鑑定を依頼したところ、著名な鑑定家A氏は『晩年の特徴を示す紛れもない真筆』と断定したんですが、別の鑑定家B氏は『極めて巧妙に作られた贋作の可能性が高い』と主張しているんです」
「意見が真っ二つに……。それは厄介ね。どちらの鑑定家も、それなりに権威のある方なのでしょう?」
「はい。どちらもテレビなどにも出演されるような方々で……。遺族の方々も、どうしたらいいのか困り果てていて。今のところ、明確な犯罪性はないんですが、もしこれが贋作だとしたら、誰が、いつ、何のために作ったのか……? 中村家の信用にも関わりますし、画廊や鑑定家を巻き込んで、下手をすれば詐欺事件などに発展する可能性もゼロではない。それで、警察としても状況を把握しておきたい、と」
蛍は、差し出された素描画の写真を手に取り、食い入るように見つめた。描かれているのは、力強いタッチの人物像。確かに有島嶺雲の作風を彷彿とさせる。しかし……。
「ふむ……これは、興味深いわね……。写真だけでは限界があるけれど、いくつか気になる点があるわ……」
蛍はすぐに結論を出すことはせず、佐々木に視線を向けた。
「佐々木刑事、この絵画の『声』をもう少し聞くために、いくつか情報を集めてきてほしいの。些細なことでも構わないわ。真実の欠片は、意外なところに落ちているものだから」
その期待させるような物言いに、佐々木は背筋を伸ばして頷いた。
素描画そのものについて、もっと詳しく。使われている紙の種類、年代、インクや鉛筆などの画材。そして、絵のサイズ。何か書き込みや印などはなかったか。
発見された時の状況を、より正確に。書斎の「奥」とは具体的にどこか。どんな「古い木箱」だったのか。一緒に「ガラクタ」と表現されていた他の物は何だったのか。どのように保管されていたか(額に入っていた、丸められていた、など)。
亡くなった中村泰三氏と、画家の有島嶺雲との関係性。具体的にいつ頃、どのような交流があったのか。中村氏自身の性格、美術品に対する関心度や知識の程度。
鑑定家A氏とB氏の鑑定根拠の詳細。特に、両者が「真作」あるいは「贋作」と判断した決め手は何だったのか。意見が分かれた具体的なポイント(筆致、画材、紙の状態など)を詳しく。
中村家に頻繁に出入りしていた人物について。特に、美術に関心のある人物、絵を描く趣味や経験のある人物はいなかったか。遺産相続に関わる親族関係なども。
「画材や紙の年代……鑑定の根拠……分かりました。専門的な部分もありますが、できる限り詳しく調べてみます」佐々木はメモを取りながら答えた。
数日後、佐々木は集めた情報を携え、やや興奮した面持ちで蛍の書斎を訪れた。
「蛍さん! かなり詳しい情報が集まりました!」
素描画は、比較的小さなサイズで、画材は木炭と一部にコンテが使われているようです。紙は、一見すると有島嶺雲が生きていた時代のものに見えますが、鑑定家B氏によれば、紙の繊維の均質さや、経年変化の度合いに若干の不自然さがある、とのことです。人工的に古く見せる処理が施されている可能性も否定できない、と。
発見されたのは、書斎の作り付けの本棚の、一番下の扉付きの棚の奥にあった、古い桐の木箱の中です。木箱には他に、中村氏の学生時代の賞状や古い手紙、作者不明の風景画のスケッチなどが無造作に入っていました。素描画は額には入っておらず、他の書類に紛れるようにして挟まっていたそうです。
中村泰三氏は、若い頃、一時期画家を目指していた有島嶺雲と学友で、親しく交流があった時期があるそうです。しかし、中村氏自身は家業を継ぎ、美術にはほとんど関心を示さなかったとのこと。性格は実直ですが、少し見栄っ張りで、名家の当主としてのプライドは高かったようです。
鑑定のポイントですが、A氏は「この力強い描線、対象を捉える大胆な省略は、まさに有島嶺雲のもの。晩年の自由闊達な境地が見て取れる」と筆致を絶賛しています。一方、B氏は「形は似ているが、線に微妙な『迷い』や『硬さ』が見られる。特に、一気呵成に描かれるはずの輪郭線が、部分的に途切れたり、重ね描きされたりしている箇所がある。これは模倣者の特徴だ」と指摘。さらにB氏は、「紙の裏側の隅に、ごくごく微かだが、油絵の具か溶剤のようなものが染みたような、黄色っぽい油性のシミがあるのが決定的に不自然だ」とも主張しています。素描画に油性のシミが付く理由がない、と。
中村家には、中村氏の甥にあたる、中村和彦という40代の男性が頻繁に出入りしていました。和彦氏は若い頃、画家を目指して美術大学に進みましたが、才能に限界を感じて挫折。現在は中村家の家業を手伝っています。彼は叔父の泰三氏とは比較的良好な関係でしたが、美術の道を諦めたことへのコンプレックスを抱えている様子だった、という証言もあります。
全ての報告を聞き終えた蛍は、静かに目を閉じた。パズルのピースが一つ一つ組み合わさり、全体像が浮かび上がってくる……そんな気配が彼女の周りに漂っていた。
「……なるほど。これで、あの素描画が語る『真実』が見えてきたわ」
蛍はゆっくりと目を開け、その瞳には確信の色が浮かんでいた。
「佐々木刑事、あの素描画は……残念ながら、贋作よ。それも、極めて個人的な理由から作られた、悲しい贋作だわ」
「やはり、贋作……! では、犯人は……?」
「犯人は、おそらく……中村和彦氏でしょうね」
「甥の……和彦さんが!? なぜ彼が……?」
「動機は、金銭ではないわ。もっと複雑な……叶えられなかった夢への執着、偉大な画家への憧れと嫉妬、そして、自分の才能を世に認められたいという、歪んだ自己顕示欲。それらが絡み合った結果でしょう」
蛍は、写真を指差しながら推理を続けた。
「鑑定家B氏の指摘が的を射ているわ。線に見られる『迷い』や『硬さ』。これは、才能ある模倣者が、偉大なオリジナルの筆致を懸命に追おうとする際に、どうしても現れてしまうもの。そして、決定的なのは紙の裏の『油性のシミ』。木炭やコンテで描かれた素描画に、油性のシミが付着するのは不自然極まりない。これは、彼が普段使っている油絵の具のアトリエか、それに近い環境でこの素描画を描いた際に、誤って付着させてしまった痕跡と考えるのが自然よ。彼は、その小さなミスに気づかなかった、あるいは軽視してしまったのでしょう」
「アトリエで……! たしかに、彼は元美大生で……」
「ええ。そして、発見時の状況も贋作であることを裏付けているわ。本当に価値のある未発表作品なら、もっと丁重に保管されているはず。ガラクタ同然の古い手紙やスケッチと一緒に、木箱の奥に無造作に仕舞い込まれていた……これは、誰かが意図的に『発見される』ことを狙って、そこに隠したと考える方が自然よ」
「隠した……和彦さんが、自分で描いた贋作を……?」
「そう。彼は、叔父である泰三氏が若い頃に有島嶺雲と交流があったことを知っていた。その事実を利用して、いかにも『当主が画家本人から譲り受け、そのまま仕舞い込んでいた』かのようなストーリーを作り上げようとしたのよ。美術に疎く、少し見栄っ張りな叔父の性格も計算に入れていたかもしれないわ。『これは本物だ』と思い込み、大切に仕舞い込むだろうと。そして、叔父の死後、遺品整理の際に『偶然発見された世紀の大発見』として世に出ることを、彼は長年、密かに待ち望んでいたのかもしれない」
「自分の才能を……そんな形で……」佐々木の表情が曇る。
「画家として大成できなかった彼の、最後のプライドだったのかもしれないわね。本物の名を借りてでも、自分の描いた線が世に評価されることを夢見てしまった……。悲しいけれど、人の心の弱さが生んだ、歪んだ芸術への憧憬とも言えるかもしれないわ」
蛍は静かに続けた。「和彦さんに、これらの点を踏まえて、優しく問いかけてみてはどうかしら。特に、あの油性のシミについて。彼がどこで、どのようにしてあの素描画を描いたのか……。おそらく、彼は観念して、すべてを語り始めるはずよ」
後日、佐々木が和彦氏に事情を聞いたところ、彼は当初こそ動揺し、否定していたものの、油性のシミの指摘や、発見状況の不自然さなどを突きつけられるうちに、ついに犯行を自供した。動機も、蛍の推理した通り、画家としての挫折感と、歪んだ自己顕示欲からだった。彼は、若き日に描いた模写を、長年手元に置き続け、叔父の書斎に忍び込ませる機会を窺っていたのだという。
事件の顛末を聞き、蛍は書斎で一人、窓の外を眺めていた。強い日差しが、庭の緑を鮮やかに照らし出している。
「人の手が生み出す『美』は、時に人を魅了し、高揚させるけれど……同時に、嫉妬や執着、偽りといった『業』をも生み出してしまう。光と影は、いつだって隣り合わせなのね……」
彼女は、あの素描画に込められたであろう、作り手の複雑な思いに心を馳せた。そして、微かな匂いや、線のわずかな乱れといった、日常に潜む些細な「ずれ」が、時に隠された真実を指し示すことを、改めて感じていた。ムサシが、満足げに喉を鳴らしながら、彼女の足元にすり寄ってきた。