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第7話:安楽椅子探偵は思索し、反芻し、そして問いかける

 午後の光が柔らかく降り注ぐ、上條蛍の書斎。窓の外では、梅雨明け間近の空が明るく澄み渡り、生き生きとした緑が風に揺れている。ローテーブルの上には、美しい三段のティースタンドが置かれ、焼きたてのスコーン、繊細なフィンガーサンドイッチ、色とりどりのプティフールが並んでいた。蛍が時折楽しむ、ささやかな午後の贅沢、アフタヌーンティーの準備が整えられていたのだ。しかし、今日の彼女の表情は、いつもの静かな満足感とは少し違っていた。


 つい先ほどまで、この書斎には佐々木誠刑事がいた。彼がもたらしたのは、新しい事件の相談ではなく、過去に蛍が関わった事件の犯人たちの「その後」についての報告だった。執行猶予がついた者、服役中の者、あるいは社会に戻り、新しい人生を歩み始めている者……。佐々木は、入手できた範囲での情報を、淡々と、しかしどこか複雑な感情を滲ませながら伝えてくれた。そして、彼は足早に次の仕事へと向かっていった。


 一人残された蛍は、用意されたアールグレイを静かにカップに注いだ。湯気と共に立ち上る芳醇な香りが、書斎を満たす。彼女はまず、クロテッドクリームとジャムをたっぷり塗ったスコーンを手に取った。サクりとした食感と、優しい甘さが口の中に広がる。しかし、その味わいとは裏腹に、彼女の心は先ほどの報告によって、深く重い思索の海へと沈んでいった。


 ――古書とオルゴールを取り戻そうとした宮下青年。彼は、形見の品を庭に埋め、「再び幸せが訪れる」ことを願っていた。罪を償った後、彼は本当にささやかな幸せを見つけることができただろうか。彼の切実な願いを、あの時、もう少し違う形で掬い上げることはできなかったのだろうか。自分の推理は、彼の孤独な心をさらに追い詰める結果にはならなかっただろうか……。


 ――父の無念を晴らすために、奇妙な脅迫状を送った古川氏の息子。彼は、父の記憶という重荷を背負い続けていた。刑期を終え、彼は過去の呪縛から解放されたのだろうか。それとも、未だに満たされぬ思いを抱えているのだろうか。あの時、田所社長と彼の間を取り持つような、そんな解決の道はあり得なかったのか。自分の推理は、ただ罪を暴くだけで、彼の心の傷を癒すことには繋がらなかったのではないか……。


 蛍は次に、玉子のサンドイッチを手に取った。シンプルな味わいが、かえって思考をクリアにする。


 ――匿名掲示板で言葉の暴力を振るい、結果的に同級生を死に追いやった高橋という学生。彼は、自分の行為の重大さを、今、本当に理解しているのだろうか。若さゆえの嫉妬や劣等感が引き起こした悲劇。自分の推理は、彼の罪を明確にしたけれど、彼の歪んだ心理の根源にまで迫り、反省を促すことができただろうか。単なる断罪は、新たな憎しみを生むだけではないのか……。


 ――「聖人」の仮面を被り、寄付金を横領し、口封じのために若者を殺害した松原義雄。彼の罪は明白で、逮捕は当然の結果だった。けれど、彼のような人間を生み出したのは、彼自身の邪悪さだけだったのだろうか。人々が求める「聖人」という虚像、それを盲信する社会の空気も、彼の増長を許した一因ではなかったか。そして、自分の推理が彼の仮面を剥がした時、彼を信じていた多くの人々をも、深く傷つけてしまったのではないか……。


 ――桜ヶ丘地区で、歪んだ正義感から些細な嫌がらせを繰り返した木村老人。彼の孤独、社会からの疎外感、そして変化への不安。自分の推理は、彼の行動の背景にある、地域社会が抱える問題の縮図を照らし出したけれど、彼を単なる「厄介者」としてコミュニティから排除する一助となってしまわなかっただろうか。もっと、彼が抱える問題に寄り添うような解決策はなかったのか……。


 色鮮やかなフルーツタルトを前にして、蛍のフォークは止まった。甘美な見た目とは裏腹に、口にするのをためらわれた。自分の推理は、常に「正しかった」のだろうか。真実を明らかにすることは、必ずしも全ての人にとって「善」ではなかったのかもしれない。自分の言葉、自分の導き出した結論が、誰かの人生を、予想もしない方向へと変えてしまったのかもしれない。もっと良い伝え方があったのではないか。もっと、配慮すべきことがあったのではないか……。安楽椅子に座り、世界を観察し、論理を組み立てる。それは、ある意味で安全な場所からの介入だ。しかし、その言葉が現実世界に与える影響の重さを、自分は本当に理解していたのだろうか……。


 蛍の思索は、個々の事件を超え、より深く、普遍的な問いへと向かい始める。

 そもそも、犯罪とは何なのだろう。法が引いた境界線を越えることか。それとも、人の心の中にある道徳律に反することか。法は時代や社会によって変わる。道徳観も人それぞれだ。では、絶対的な「悪」など存在するのだろうか。

 人はなぜ、罪を犯すのだろう。貧困、無知、嫉妬、憎しみ、愛情、孤独、絶望、あるいはほんの些細な気の迷い……。数えきれないほどの要因が複雑に絡み合い、人を境界線の向こう側へと押しやる。それは、特別な誰かだけではない。自分自身の中にも、その芽は潜んでいるのではないか……。


 自分の役割は、探偵として、真実を明らかにすること。しかし、真実とは、時に残酷な顔を持つ。それを暴くことで、誰かが救われる一方で、誰かが深く傷つくこともある。真実を、どのように語るべきなのか。ただ事実を突きつけるだけで良いのか。それとも、そこに何らかの「意味」や「救い」を見出す手助けをするべきなのか……。自分は、ただの傍観者なのか、それとも、物語の登場人物の一人なのか……。


 夕暮れの光が、書斎を茜色に染め始めていた。アフタヌーンティーのほとんどは、手つかずのままテーブルに残されている。蛍はふと、窓辺で静かに外を眺めているムサシに目をやった。彼の琥珀色の瞳は、何を映しているのだろう。まるで哲学者のようなその瞳に……。


 蛍は静かに立ち上がり、ムサシのそばへ歩み寄った。そして、その柔らかな毛並みをそっと撫でながら、まるで自分自身に問いかけるように、透明な声で囁いた。


「ねえ、ムサシ……人間っていったい、どんな存在なのかしら……?」


 その問いに、猫はただ、小さく喉を鳴らして応えるだけだった。答えのない問いは、夕暮れの静寂の中に、深く、そして静かに溶けていった。安楽椅子探偵の午後は、まだ終わらない思索と共に、ゆっくりと更けていくのだった。


(了)


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