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第5話:正義を遂行する者

 梅雨の中休み、久しぶりに顔を出した太陽が、上條蛍の書斎の窓辺を明るく照らしていた。空気はまだ少し湿っているが、窓を開けると心地よい風が流れ込み、書物の匂いを運んでいく。蛍は肘掛け椅子で、数世紀前に描かれた精密な植物図譜を眺めていた。一つ一つの葉脈、花弁の繊細な色合い……描いた人間の、対象への執着にも似た観察眼に感嘆する。ふと、窓の外に目をやると、隣家の庭の紫陽花の色が、昨日よりもわずかに濃くなったように見えた。日々、少しずつ、しかし確実に変化していく世界の断片。


「変化は、時に気づかれぬほど静かに訪れるものね……。良い変化も、そうでない変化も」

 蛍は独り言のように呟き、傍らで気持ちよさそうに眠るムサシの背中をそっと撫でた。壁に掛けられた古い振り子時計が、カチ、カチ、と正確な時を刻んでいるように見えて、実は一日で数秒ずつ遅れていることに、蛍は気づいていた。小さなズレも、積み重なれば大きな時間の歪みとなる。そんなことを考えていると、階下から少し遠慮がちな、しかし切羽詰まったような足音が聞こえてきた。


「失礼します、蛍さん……。また、お知恵を拝借したく……」

 ドアを開けて現れたのは佐々木誠刑事だった。しかし、その表情はいつものような事件の緊迫感とは少し違い、むしろ困惑と疲労の色が濃い。

「まあ、佐々木刑事。いらっしゃい。今日は何だか、いつもの事件とは違う種類の悩みがありそうな顔ね」

 蛍は穏やかに微笑み、紅茶の準備を始めた。「座って、まずは話してみてくれるかしら?」

「あ、ありがとうございます……。実は、事件と呼ぶにはあまりに小さいことの連続なんですが……放っておけないような、嫌な雰囲気になってまして……」

 佐々木は差し出された紅茶を一口飲み、溜息混じりに語り始めた。


「管内のある閑静な住宅街……桜ヶ丘地区なんですが、ここ一ヶ月ほど、奇妙な嫌がらせが立て続けに起こっているんです」

「嫌がらせ……。具体的にはどんな?」

「本当に些細なことばかりなんです。最初は、特定の家のゴミ出しルールが僅かに守られていないことへの注意書きがポストに入っていたり。それが、庭に植えてある花が数本だけ抜かれるようになり、自転車のタイヤの空気を抜かれたり、無言電話のメモが投函されたり……。最近では、玄関先に少量の生ゴミを置かれたり、車のワイパーを立てられたり、といった具合で……」

 佐々木は、被害届とも言えないような住民からの相談記録のリストをテーブルに広げた。

「一つ一つは、警察が本格的に捜査するには小さすぎる。証拠もほとんど残らない。でも、被害を受けている家が数軒に集中していて、しかも徐々にエスカレートしているんです。住民の間では、『誰がやっているんだ』『次はうちかもしれない』と疑心暗鬼が広がっていて、非常に雰囲気が悪いんです。何か大きな事件に発展しなければいいのですが……」


 蛍はリストにゆっくりと目を通した。記録されているのは、確かに取るに足らないような出来事ばかりだ。しかし、彼女はその「連続性」と「執拗さ」に注目した。

「ふむ……これは、まるで目に見えない毒が、少しずつ地域に撒かれているような状況ね……。個々の事象は小さくても、その根底には共通する『意図』があるように思えるわ」

 蛍は佐々木を見た。「犯人は、何を目的としているのかしら……。単なるいたずらではなさそうね」

「目的……ですか? 正直、全く見当がつきません。被害者の方々も、特に誰かに恨まれるような覚えはないと……」

「そうでしょうね。直接的な怨恨ではないかもしれないわ。もっと、歪んだ形での……何かに対する執着や不満が、こうした形で表出している可能性がある」

 蛍は思考を巡らせながら言った。「佐々木刑事、この『小さな毒』の正体を突き止めるために、いくつか調べてほしいことがあるわ。些細な情報でも構わない。積み重ねていくことで、何かが見えてくるかもしれないから」


それぞれの嫌がらせについて、日時、場所、具体的な手口、被害者を正確にリストアップし直して。何かパターン……例えば、特定の曜日(ゴミ出しの日など)、時間帯、天候などと関連性はないか。


被害を受けている数軒の家の共通点は? 家族構成、職業、生活スタイル、あるいは、その地域での居住年数など。逆に、被害を受けていない近隣の家との違いは何か。


その桜ヶ丘地区、特に被害が集中している区画で、最近何か変化はなかったか? 新しい住民の入居、大規模な工事、共有スペース(公園やゴミ集積所など)の利用に関するルールの変更やトラブル、自治会での意見の対立など。


嫌がらせの手口について、何か特徴は? 例えば、使われたゴミの種類、抜かれた花の種類、メモの筆跡もしあればなど。犯人しか知り得ないような情報が、現場に残されていなかったか。


「分かりました。確かに、一つ一つは小さくても、全体像を見れば何か分かるかもしれませんね。すぐに調査します」佐々木は蛍の言葉に納得し、改めてリストを見つめた。


 数日後、佐々木は集めた情報を整理し、再び蛍の書斎を訪れた。

「蛍さん、調べてきました。いくつか気になる点があります」


嫌がらせは、当初は不定期でしたが、ここ二週間ほどは、毎週火曜日と金曜日の早朝……つまり、燃えるゴミと資源ゴミの収集日の朝に集中して発生しています。


被害者は、比較的最近(ここ数年以内)に引っ越してきた家庭が多い傾向にあります。ただし、古くから住んでいる家庭も一軒だけ被害に遭っています。共通しているのは、どの家庭も共働きで、日中は家を空けている時間が長いことです。


地域での変化としては、半年ほど前に自治会で「ゴミ出しルールの厳格化」と「地域の美観維持に関するガイドライン」が新たに提案され、一部の古参住民と新しい住民の間で意見が割れたことがあったようです。結局、ガイドラインは導入されたものの、一部には不満が残っているとのことです。


手口の特徴としては、非常に地味で目立たないこと。生ゴミが置かれたといっても少量で、すぐに片付けられる程度。花も数本抜かれるだけ。犯行は人目につかない早朝や深夜に行われているようです。ただ、一度だけ、被害者の家のポストに「ルールは守りましょう」とだけ書かれた、定規で引いたような硬い文字のメモが入っていたことがありました。


 報告を聞きながら、蛍は静かに頷いていた。

「なるほど……見えてきたわね。これは、愉快犯や特定の個人への怨恨ではない。もっと根深く、そして厄介な……『歪んだ正義感』と『秩序への執着』が生み出した悲劇よ」

「歪んだ正義感……?」

「ええ。犯人は、おそらくこの桜ヶ丘地区に住む人物。それも、地域に対する愛着が強く、几帳面で、自分なりの『あるべき姿』や『ルール』に対するこだわりが人一倍強い人物でしょうね。彼は、新しく導入されたルールやガイドライン、あるいは彼自身が理想とする『美しい街』の秩序が、新しく越してきた住民たちによって乱されていると感じている。ゴミ出しのマナーが少し違う、庭の手入れが行き届いていない、挨拶が少ない……そういった、彼にとっては『許しがたい』些細な違反が、積み重なっていった」

「それで、嫌がらせを……?」

「最初は、匿名での注意書きなど、彼なりに『正しい方向』へ導こうとしたのかもしれないわ。しかし、共働きで忙しい住民たちは、その『細かすぎる指摘』に気づかなかったり、重要視しなかったりした。それが、犯人にとっては『無視された』『ルールを軽んじられた』という強いストレスとなり、フラストレーションが溜まっていった。そして、ゴミ出しの曜日の朝に集中して、人目につかない形で、ささやかな『罰』を与えるようになった……。『ルールを守らない者には制裁を』という、歪んだ正義感に基づいてね」

「まさか……そんな理由で……」佐々木は絶句した。

「大きな悪意は、最初からあったわけではないのかもしれないわ。でも、小さな不満や正義感の押し付け、コミュニケーションの不足……そういった日常の些細なボタンの掛け違いが積み重なって、人の心のバランスを崩し、このような陰湿な行動へと駆り立ててしまうことは、決して珍しいことではないのよ」


 蛍は、さらに核心に迫る。

「佐々木刑事、その地域で、特にルールや秩序に厳しく、最近何かストレスを溜めているような……例えば、自治会の集まりで熱心に意見を述べていた古参の住民はいなかったかしら? 被害を受けていない、むしろ模範的とされるような家に住んでいる人物よ。そして、その人物の早朝の行動を確認してみて。ゴミ出しの時間帯に、不自然な動きはないかしら?」


 蛍の指摘を受け、佐々木は再度調査を行った。すると、自治会の役員も務める、長年その地域に住む初老の男性、木村という人物が浮上した。彼は地域美化に非常に熱心で、ルール違反には特に厳しいことで知られていた。そして、近隣の防犯カメラの映像を確認したところ、嫌がらせがあった日の早朝、ゴミ集積所の様子を窺うように徘徊したり、被害者宅の周辺を不自然に通ったりする木村氏の姿が、複数回記録されていたのだ。


 任意で事情を聞かれた木村氏は、当初は頑なに否認していた。しかし、防犯カメラの映像や、「ルールは守りましょう」というメモの筆跡(彼の几帳面な性格が表れた特徴的な文字だった)といった証拠を示されると、堰を切ったように犯行を認め始めた。

 彼の動機は、蛍の推理通りだった。愛する街の秩序が乱されることへの苛立ち、何度注意しても改善されないことへの不満、そして無視されているという孤独感……それらが積み重なり、「自分が正さなければ」という歪んだ使命感から、匿名での嫌がらせに手を染めてしまったのだという。「まさか、こんな大ごとになるとは思っていなかった」と、彼は涙ながらに語った。


 事件解決の報告を受け、蛍は書斎で静かに目を閉じていた。壁の振り子時計が、今日もわずかに遅れた時を刻んでいる。

「日常に潜む、小さな歪み……。それに気づかずにいると、いつの間にか大きな亀裂を生んでしまう。人の心も、地域社会も、きっと同じなのね……」

 その声は、静かな書斎に深く響いた。一件落着、とは言えない、どこか苦い後味を残す事件だった。大きな悪意ではなくとも、誰もが抱えうる小さな棘が、思わぬ形で他者を傷つけ、コミュニティを蝕んでいく。その現実の重さを、蛍は改めて感じていた。ムサシが、そっと彼女の膝に上がり、心配そうに顔を覗き込んでいた。


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