第4話:仮面の告白
初夏の光が柔らかく差し込む書斎で、上條蛍は肘掛け椅子に深く身を沈め、一冊の古い伝記を読んでいた。それは、かつて民衆から聖人と崇められた宗教指導者の生涯を追ったものだったが、著者はその輝かしい功績の裏に隠された、権力欲や人間的な弱さを冷静な筆致で描き出していた。
「人は、自らが信じたい『物語』を求めるもの……。たとえそれが、巧みに作られた虚像だとしても、ね」
蛍はそっと本を閉じ、窓の外に目をやった。向かいの家の庭先で、飼い主の帰りを待つ犬が、通りかかった郵便配達員に愛想よく尻尾を振っている。しかし、その直後、すぐ隣を通りかかった、いつも笑顔で挨拶を交わすはずの隣家の婦人に対して、なぜか低い唸り声をあげ、警戒するような素振りを見せた。
「おや……ムサシだけじゃないのね。動物は時々、人間の目には見えない何かを感じ取るのかしら……。外面だけでは分からない、何かを」
傍らの飼い猫ムサシに語りかけるように呟き、蛍は淹れたての紅茶に口をつけた。その時、階下でやや遠慮がちに呼び鈴が鳴り、静かな足音が階段を上ってきた。いつもの慌ただしさとは違う、どこか重苦しい気配を感じさせる足音だった。
「失礼します、蛍さん……」
ドアを開けて入ってきたのは佐々木誠刑事だったが、その表情はいつになく曇っていた。手には書類鞄を抱えている。
「まあ、佐々木刑事。何か深刻な事件でもあったの? いつもの元気がないようだけれど」
蛍は心配そうに声をかけた。「冷たいものでも用意しましょうか? それとも、温かい方がいいかしら?」
「あ、お構いなく……。いえ、事件は……その、非常に痛ましいもので……そして、何ともやりきれない気持ちなんです」
佐々木は勧められるままに椅子に腰掛け、重い口を開いた。
「今朝、市内で著名な慈善活動家として知られる、松原義雄氏の自宅で、若い男性の遺体が発見されたんです」
「松原義雄氏……。長年、恵まれない若者たちの支援を続けている、あの……?」蛍の記憶にも、その名前はあった。メディアでも度々取り上げられ、その人格は「現代の聖人」とまで称賛されていた人物だ。
「はい、その松原氏です。亡くなっていたのは、彼が数年前から身元引受人となり、生活の面倒を見ていた田中純という二十歳の青年です。松原氏の書斎で、ソファに座ったまま……亡くなっていました」
「死因は?」
「まだ断定はできませんが、状況から見て、薬物による中毒死の可能性が高いとのことです。遺体のそばには、睡眠薬か何かの空き瓶が転がっていました。ただ……」佐々木は言葉を切った。「それが自殺なのか、事故なのか、あるいは……事件なのか、まだ判然としないんです。部屋に荒らされた形跡はほとんどありませんでした」
「松原氏は、発見時、どうしていたの?」
「非常にショックを受け、打ちひしがれていました。『自分の息子同然だったのに』『私がもっと早く気づいていれば』と涙ながらに語り、犯人がいるなら絶対に許さない、と……。その姿は、本当に痛々しくて……」
佐々木の言葉からは、松原氏への深い同情が感じられた。
蛍は黙って聞いていたが、その表情はいつもの冷静さを保っていた。
「ふむ……聖人の家で起きた悲劇、というわけね……。しかし、佐々木刑事、あなたが『やりきれない』と感じているのは、単に事件が痛ましいからだけではないのでしょう? 何か、引っかかる点があるのではなくて?」
蛍の静かな問いかけに、佐々木は少し驚いたように顔を上げた。
「……ええ、そうなんです。うまく言えないんですが……現場の状況も、松原氏の話も、どこか……出来すぎているような気がして……。それに、亡くなった田中青年の表情が、あまりにも安らかすぎるように見えたんです。自殺にしては、何か……違和感が」
「なるほど……。あなたの刑事としての勘が、何かを告げているのかもしれないわね」蛍は頷いた。「その『違和感』の正体を突き止めるために、いくつか調べてほしいことがあるわ。思い込みは捨てて、客観的な事実だけを集めてきてくれるかしら?」
蛍の指示は、今回も多岐にわたっていた。
亡くなった田中純青年について。彼の生い立ち、松原氏との関係、最近の言動や交友関係、経済状況。特に、松原氏に対して、あるいは自身の境遇に対して、何か不満や悩みを抱えていた様子はなかったか。最近、誰かに何かを打ち明けようとしていたり、怯えているような素振りはなかったか。
松原義雄氏について。彼の慈善活動の具体的な内容、資金源と使途。外部監査などは入っているか。彼の活動を支援している他の人物や団体。そして、彼の過去の経歴……慈善活動を始める前の評判や、何か公になっていないトラブルはなかったか。特に、金銭関係や女性関係など。
現場の状況をもう一度詳細に。特に、書斎にあったもの、なかったもの。何か不自然な点はなかったか。例えば、松原氏が普段使っているもの、あるいは逆に、普段そこにはないはずの物が置かれていたりしなかったか。微細な遺留物、例えば髪の毛一本、微かな香水の残り香、あるいは……インクの染みのようなものも含めて。
松原氏自身の当日のアリバイと、発見時の詳しい状況。彼が発見した時の第一声や行動、表情の変化などを、可能な限り客観的に再確認してほしい。
「松原さんの過去や、慈善活動の資金源まで……? まるで、彼を疑っているかのようですが……」佐々木は戸惑いを隠せない。彼は明らかに、あの「聖人」が悪事を働くなどとは考えたくないのだ。
「疑っているわけではないわ。ただ、あらゆる可能性を排除せずに、事実だけを見つめたいの」蛍は諭すように言った。「人は誰しも、光と影を持っているものよ。その影の部分が、思いがけない形で事件に関わっていることもある。特に、完璧に見える人物ほど、その影は深いかもしれない……。さあ、お願いできる?」
「……分かりました。先入観を持たずに、徹底的に調べてきます」佐々木は決意を固めたように頷き、書斎を出ていった。
数日が経ち、佐々木は複雑な表情で蛍の元へ戻ってきた。その手には、分厚い調査報告書のファイルがあった。
「蛍さん……調べていくうちに、信じたくないような事実が色々と出てきました……」
田中青年は、確かに松原氏に恩義を感じていましたが、最近、友人に対して「松原さんは、外で見せる顔と家での顔が違う」「何か大きな秘密を抱えている気がして怖い」と漏らしていたことが分かりました。また、亡くなる数日前、弁護士に相談の予約を入れようとしていたことも判明しました。
松原氏の慈善活動ですが、表向きは寄付金で成り立っていることになっていますが、その収支報告には不透明な点が多く、多額の使途不明金があることが示唆されました。さらに、彼が慈善活動を始める前……若い頃に、詐欺まがいの投資話に関与していたという黒い噂があったことも掴みました。当時の関係者によれば、彼は口がうまく、人を信用させるのが非常に巧みだったとのことです。
現場の再調査で、書斎のカーペットに、ごく微かなインクの染みが発見されました。特殊な成分分析の結果、それは松原氏が愛用している、海外製の限定品の万年筆のインクと完全に一致しました。その万年筆は、普段は書斎の引き出しに厳重に保管されているはずのものだそうです。
松原氏のアリバイですが、事件があったとされる時間帯、彼は「一人で自室にいた」と主張していますが、それを裏付ける客観的な証拠はありません。発見時の彼の行動も、よくよく思い返すと、悲しみにくれる一方で、どこか冷静に状況を説明しすぎるような……不自然な点があった、と第一発見者の家政婦も証言を変え始めています。
報告を聞き終えた蛍は、静かに目を閉じた。深い溜息が、その細い肩をわずかに揺らした。
「……やはり、そうでしたか。聖人の仮面の下には、全く別の顔が隠されていたようね……」
蛍は目を開け、その瞳には冷徹な光が宿っていた。
「佐々木刑事、この事件の犯人は……松原義雄、その人です。そして、これは自殺や事故に見せかけた、巧妙な殺人事件よ」
「な……! やはり、松原氏が……! しかし、なぜ彼が田中青年を……?」佐々木は愕然としながらも、心のどこかで予期していたかのように尋ねた。
「理由は単純よ。田中青年は、松原氏の『聖人』という仮面の下にある、醜い真実……おそらくは、慈善活動を利用した大規模な詐欺、あるいは横領といった経済犯罪の証拠を掴んでしまった。そして、それを告発しようとした。だから、口封じのために殺されたのよ」
蛍の推理は、冷徹なまでに核心を突いていた。
「松原氏は、長年かけて築き上げてきた『聖人』という虚像を守るためなら、どんな手段も厭わない人物だったのでしょう。彼の過去の経歴がそれを物語っているわ。慈善活動は、彼の名声欲を満たし、同時に犯罪行為を隠蔽するための、完璧な隠れ蓑だった」
「では、どうやって……? 薬物を使ったことは分かっていますが……」
「おそらく、松原氏は田中青年に何らかの理由をつけて薬物を飲ませたのでしょう。睡眠薬か、あるいはもっと別の、検出されにくい毒物か……。彼を信用しきっていた、あるいは何らかの形で抵抗できない状況にあった田中青年は、それを疑いなく受け入れてしまったのかもしれない。そして、彼が息絶えた後、松原氏は現場を自殺に見せかけるように偽装した。しかし、その際に、焦りからか、あるいは思いがけないアクシデントで、愛用の万年筆のインクをカーペットに落としてしまった。普段ならありえない場所に残された、ごく微かなインクの染み……それが、彼の完璧な計画の綻びとなったのよ」
「あのインクの染みが……!」
「ええ。そして、彼の『悲しみ』の演技。あまりにも完璧すぎる悲劇の主人公……しかし、その裏には、自分の犯行を隠蔽しようとする冷徹な計算があった。あなたの感じた『違和感』は、彼の演技の不自然さ、そして現場に残された偽装の痕跡を、無意識のうちに捉えていたからでしょう」
蛍は静かに続けた。
「松原義雄という人物は、人々が求める『聖人』のイメージを巧みに利用し、その裏で私欲を満たしていた、稀代の偽善者だった……。田中青年は、その偽りの光に騙され、最後はその光によって命を奪われた。これほど皮肉で、痛ましい悲劇はないわね……」
蛍は佐々木に、松原氏を追及する際のポイントをいくつか指示した。インクの染みという物的証拠、田中青年の最近の言動、そして松原氏自身の過去の経歴と資金の流れの矛盾点。これらを突きつければ、彼の仮面は剥がれ落ちるはずだと。
蛍の言葉通り、佐々木刑事がこれらの証拠を突きつけ、松原氏を厳しく追及した結果、彼はついに観念し、犯行を自供した。彼の口から語られたのは、長年にわたる寄付金の横領と、それを隠蔽するための田中青年殺害という、おぞましい事実だった。逮捕される瞬間、彼の顔からは「聖人」の面影は完全に消え失せ、冷酷で卑劣な犯罪者の顔が現れていたという。
事件解決の報告を受け、蛍は書斎で一人、窓の外を眺めていた。空は高く、青く澄み渡っている。しかし、彼女の心には、人間の心の闇の深さに対する、重苦しい感慨が残っていた。
「人は見かけによらない、とは言うけれど……。時に、最も美しい仮面の下に、最も醜い素顔が隠されていることもある。真実を見抜くためには、光だけでなく、影にも目を向けなければならないのね……」
その呟きは、誰に聞かれることもなく、静かな書斎に吸い込まれていった。ムサシが、心配そうに彼女の足元にすり寄ってきた。
(了)