第3話:太陽を翳らせたもの
梅雨入り間近の曇り空が、上條蛍の書斎にも静かな影を落としていた。湿気を含んだ空気が、古書の匂いを一層濃く感じさせる。蛍は肘掛け椅子に座り、ラップトップコンピューターの画面を静かに見つめていた。ディスプレイには、海外の大学がデジタルアーカイブとして公開している、中世の彩色写本の高精細画像が映し出されている。指先でタッチパッドを操作し、拡大された細密な絵柄や、インクの掠れ具合まで観察する。
「デジタルの世界は、時も場所も超えて、過去の断片を目の前に運んでくれる……。けれど、そこに込められた息遣いや、紙の手触りまでは伝わらないのが、少し残念ね」
独り言のように呟き、傍らで丸くなっている飼い猫のムサシに目をやる。ムサシは、普段見慣れないディスプレイの光や、時折響くキーボードのタイプ音に、少しだけ落ち着かない様子で耳を動かしていた。
「匿名で誰もが発信できる情報の海は、時に真実を覆い隠し、偽りの波紋を広げることもある……。言葉は、姿を変えても力を持つのだから、気をつけないと」
蛍は小さく息をつき、アーカイブの画面を閉じた。ちょうどその時、階下で呼び鈴が鳴り、続いて階段を駆け上がってくる慌ただしい足音が響いた。もはや聞き慣れた、あの刑事の足音だ。
「蛍さん! 大変なんです! 今度は、何というか……現代的な事件で……!」
ドアを開けて飛び込んできたのは、やはり佐々木誠刑事だった。その顔には、いつもの慌ただしさに加えて、少し困惑したような色が浮かんでいる。
「あら、佐々木刑事。今日は『現代的』な事件なの? それはまた、どんな複雑な様相を呈しているのかしら」
蛍はラップトップを閉じ、穏やかに尋ねた。「さあ、まずは座って。今日は少し蒸すから、冷たいジャスミンティーでもどう?」
「あ、ありがとうございます……! 助かります。ええと、事件は……ネットの掲示板が絡んでいて、その……人が亡くなっているんです」
佐々木は差し出された冷たいグラスを受け取り、ごくりと喉を鳴らしてから、事の経緯を話し始めた。
「市内にある東都大学の、とあるインカレサークル……写真サークルなんですが、その内情を暴露するような書き込みが、一ヶ月ほど前から、地元の匿名掲示板に連続して投稿されていたんです」
「匿名掲示板に、サークルの内情……。ありがちな話のようにも聞こえるけれど」
「ええ、最初は私たちもそう見ていたんですが……書き込みの内容が、妙に陰湿で、暗号めいているんです。例えば、『"太陽"はいつも輪の中心にいるが、その光は偽物』とか、『"月の女神"の涙は、インクで描かれている』とか……。具体的な名前は出さないんですが、サークルのメンバーが見れば、誰のことを揶揄しているのか、なんとなく分かるような書き方なんです」
佐々木は、プリントアウトした掲示板のログのコピーを数枚、テーブルに置いた。
「そして……問題はここからです。昨日、そのサークルの中心メンバーで、リーダー格だった男子学生……小林拓海くんが、自宅マンションのベランダから転落して死亡したんです。遺書はなく、部屋に争った形跡もありません。今のところ、事故か、あるいは書き込みに悩んでの自殺か……判断がつきかねている状況です」
「"太陽"と呼ばれていたのは、彼のことかしら?」蛍はログのコピーに目を落としながら、静かに尋ねた。
「……! よく分かりましたね。ええ、サークルの仲間内では、明るくリーダーシップのある彼を、そう呼ぶことがあったそうです。他の書き込みも、調べてみると、サークル内の人間関係や、メンバーの隠し事を暗示しているようなんです」
「その書き込みをしていた人物……投稿者の特定は?」
「それが……匿名性が高い掲示板で、発信元の特定は難航しています。投稿時間もバラバラで、手口も巧妙です。ただ……」佐々木は少し言い淀んだ。「書き込みの内容から、サークルの内部事情にかなり詳しい人物、おそらくメンバーの誰か、あるいは元メンバーではないかと推測されています」
蛍はログのコピーを一枚一枚、指でゆっくりと追いながら、黙って読み進めている。その目は、単語の選び方、比喩表現、句読点の使い方、そして投稿された日時のパターンなどを、細かく分析しているようだった。
「ふむ……これは、単なる暴露や悪口ではないかもしれないわね……。非常に強い『意図』を感じるわ。特定の個人、特に亡くなった小林くんに向けられた、執拗な攻撃性……そして、他のメンバーへの警告や揺さぶり……。まるで、言葉の毒でゆっくりと獲物を追い詰めていくような……」
蛍は顔を上げ、佐々木を見た。その瞳は、デジタルの文字の向こう側にある、生々しい人間の感情を見据えているようだった。
「佐々木刑事、これもまた、もう少し深く掘り下げてみる必要がありそうね……。人の死が関わっている以上、慎重に、そして多角的に調べなければ」
彼女はすぐには結論を急がない。佐々木は、蛍が何か重大な点に気づいていることを感じ取りながら、次の指示を待った。
「亡くなった小林拓海くんについて、もっと詳しく。サークル内での評判、人間関係、特に最近トラブルを抱えていた相手はいなかったか。彼の性格……例えば、プライドが高い、傷つきやすい、などの側面はなかったか。
匿名掲示板の書き込みについて、さらに詳細な分析を。特に、最初に書き込みが始まった時期と、その頃サークル内で何か出来事(例えば、コンテストの結果発表、役員交代、メンバー間の恋愛トラブルなど)がなかったか。書き込みの文体や使われている単語に、特定の個人の癖や特徴が出ていないか、言語学的な分析も依頼してみて。
他のサークルメンバー全員から、改めて事情を聞いてみて。特に、小林くんとの関係、書き込みについてどう思っていたか、そして誰が書き込んだと思うか。彼らの証言の中に、微妙な嘘や隠し事がないか、注意深く観察してほしい。
書き込みの中で使われている比喩表現("太陽"、"月の女神"など)について、サークル内でどのような意味合いで使われていたのか、あるいは元ネタがあるのかどうか。
最後に、小林くんのSNSやスマートフォンの通信記録を調べてみて。彼が誰かと頻繁にやり取りをしていたか、最近の精神状態はどうだったか、特に死亡前日の行動に何か異変はなかったか」
「書き込みの文体分析や、比喩の意味ですか……? ネットの書き込みからそこまで……」
「ええ、大事なことよ」蛍は静かに頷いた。「匿名という仮面の下でも、言葉にはその人の思考や感情、育ってきた環境までもが滲み出るものなの。特に、強い感情……憎しみや嫉妬、あるいは歪んだ正義感は、独特の痕跡を言葉に残すことがあるわ。そして、比喩は時に、直接的な言葉よりも雄弁に真実を語ることがあるのよ。さあ、お願いできるかしら? 時間との勝負かもしれないわ」
「は、はい! 分かりました! 全力で当たってみます!」
佐々木は決意を新たにし、敬礼をして書斎を後にした。蛍は、彼が見せたログのコピーをもう一度手に取り、特に「"月の女神"の涙は、インクで描かれている」という一文に、指先を止めた。
数日後、佐々木はやや疲れた表情ながらも、確かな手応えを感じさせる様子で蛍の元へ戻ってきた。
「蛍さん! いくつか重要な情報が掴めました!」
「小林拓海くんは、確かにリーダーシップがあり人気者でしたが、一方で自信家でプライドが高く、自分の意見を押し通す強引な面もあったようです。特に、写真の才能がある女子メンバー、神崎さんという学生に対して、作品を評価する一方で、どこかライバル視するような言動があったという証言がありました。また、最近、サークルの運営方針を巡って、古参のメンバーの一人、高橋くんと口論になったこともあったようです。高橋くんは見栄えはそれほどでもないものの、技術力は相当高く、サークル内でも『職人』と呼ばれていたそうです。しかし、派手さがなく、コンテストでの入賞歴はほとんどありませんでした。
書き込みが始まったのは、一ヶ月前のサークル内フォトコンテストの結果発表直後からでした。このコンテストで、小林くんがグランプリを、神崎さんが準グランプリを受賞しています。高橋くんは、佳作にも選ばれなかったようです。言語分析の結果、書き込みには特定の言い回し(例えば、皮肉めいた敬語表現、引用符の多用など)に癖が見られ、同一人物による可能性が高いとのことです。特に、文末に『~ですことよ?』という独特の言い回しや、読点を異常に多用する箇所が散見されるとの指摘がありました。投稿時間は深夜帯が多いことも判明しました。
他のメンバーへの聞き込みでは、皆一様に書き込みに不快感を示していましたが、誰が犯人かについては口が重い様子でした。ただ、何人かが、準グランプリだった神崎さんが、コンテストの結果に不満を漏らしていたこと、そして彼女が文学部で、文章表現に長けていることを指摘していました。また、高橋くんについては、『影が薄い』『存在感がない』という評価がある一方で、『写真の技術は一番』という声もありました。彼は写真工学専攻で、カメラの仕組みに詳しく、精密な技術に長けているとのこと。ただし、『表現力』の面で小林くんや神崎さんに劣ると考えられていたようです。
比喩表現ですが、"太陽"はやはり小林くん、"月の女神"は神崎さんを指すあだ名として、一部で使われていたことが分かりました。神崎さんは美人で、どこか儚げな雰囲気からそう呼ばれていたようです。そして……「涙はインクで描かれている」という表現ですが、これは、神崎さんが以前、コンテストで落選した際に悔し涙を流しながらも、その経験を元にした詩的な文章をSNSに投稿していたことから来ているのではないか、という推測があります。
最後に、小林くんのスマートフォンの通信記録を調べたところ、死亡前日に高橋くんとのLINEのやりとりがあったことが分かりました。そこでは、次のサークル運営について話し合われていたようですが、高橋くんの専門性を活かした技術講座の企画案が、小林くんに一方的に却下されていた形跡があります。小林くんの最後のメッセージは『君には向いてないよ。もっと得意なことに専念したら?』というもので、これに対する高橋くんの返信はありませんでした。また、小林くんのSNSの閲覧履歴を見ると、自分の名前で検索をかけ、例の匿名掲示板に辿り着いていたことが確認できました。死亡当日の夜、彼は掲示板の書き込みを長時間閲覧していたようです」
報告を聞き終えた蛍は、ゆっくりと目を伏せた。すべての情報が、一つの方向を示しているように見えた。しかし、彼女の表情は晴れない。
「……なるほど。状況証拠は、神崎さんを指しているように見えるわね……。コンテストへの不満、小林くんへのライバル心、文章能力……」
しかし、蛍はそこで言葉を切った。そして、静かに続けた。
「でも、何かが腑に落ちない……。あの書き込みの粘着質で攻撃的なトーンは、彼女のような……"月の女神"と形容されるような人物像とは、少し違う気がするのよ。それに、彼女が小林くんの死を望むほどの動機があったとは思えない……」
「で、では、一体誰が……?」佐々木は混乱した。
「もう一人、可能性のある人物がいるわ」蛍は言った。「書き込みの『癖』……皮肉めいた敬語、引用符の多用、読点の異常な連続使用、そして『~ですことよ?』という独特の言い回し。これらが示す人物像は、表面的な丁寧さの裏に、強い嫉妬心や自己顕示欲を秘めた人物。そして、小林くんと口論になり、最後のLINEで屈辱的な言葉を投げかけられた高橋くん。彼のプロフィールが、この文体と見事に一致するわ。特に、技術はあるのに評価されない、『影が薄い』と思われている彼の心理状態が、あの攻撃的で皮肉に満ちた文体を生み出したのではないかしら」
「高橋くんについて、もう少し詳しく調べてみてくれるかしら? 特に、彼が過去に、ネット上で誰かを中傷したり、匿名で何かを書き込んだりした経験がないかどうか。そして、彼の普段の言葉遣いや文章表現のクセについても。例えば、学内の掲示板やSNSなどへの投稿があれば、その文体を分析してみて」
佐々木の追加調査の結果、驚くべき事実が判明した。高橋という学生が、過去に別のSNSで、匿名アカウントを使って執拗な誹謗中傷を繰り返していたことが分かったのだ。その際の文体や言葉遣いが、今回の掲示板の書き込みと酷似していた。特に、皮肉めいた敬語表現や、「~ですことよ?」という独特の言い回し、読点の多用などは、まさに今回の書き込みと同じパターンだった。さらに、高橋が大学の授業で提出したレポートの文体分析をしたところ、同様の特徴が隠れていることも判明した。
「そして、もう一つ重要な証拠が見つかりました」佐々木は続けた。「高橋くんのパソコンを押収して分析したところ、彼は匿名性を強化するVPNソフトウェアを使用して、掲示板に接続していた形跡がありました。また、彼の部屋からは、小林くんに関する写真や情報を集めたノートも見つかっています。そこには、小林くんの日常的な行動パターンや、彼の弱点と思われるメモまであり、かなり計画的に接近していたことが窺えます。小林くんの死亡当日、高橋くんは小林くんの行動を監視していたような形跡もあります」
全ての報告を聞き終えた蛍は、ゆっくりと目を伏せた。しばしの沈黙の後、静かに目を開けると、その瞳には確信の色が宿っていた。
「……なるほど。これで、点と線が繋がり、はっきりとした形が見えてきたわ。状況証拠は一見、神崎さんを指しているように見えたけれど……やはり私の感じた違和感は正しかった。犯人は、高橋くん……彼で間違いないでしょう」
「やはり、高橋ですか! しかし、文体が似ているというだけでは……」佐々木はまだ半信半疑だ。
「単に『似ている』というレベルではないわ、佐々木刑事」蛍は静かに首を振った。「言語分析の結果と、彼が過去に使っていた匿名アカウントの書き込みを照らし合わせてみて。そこには、筆跡鑑定における『筆癖』のような、模倣困難な『文癖』が現れているはずよ」
蛍は指先でテーブルを軽く叩きながら続けた。
「例えば、報告にあった『皮肉めいた敬語』の使い方。彼は、特定の相手を揶揄する際に、必ず文末に『?ですことよ?』といった、奇妙に丁寧で、しかし侮蔑的な響きを持つ独自の言い回しを使っていたのではないかしら? あるいは、句読点。感情が高ぶった時に、読点(、)を異常なほど連続して打つ癖や、強調したい単語を、他の投稿者があまり使わない特定の括弧……例えば【】のようなもので囲む癖はなかった?」
「そ、それは……! たしかに、言語分析のレポートにも、類似の指摘がありました! 過去の書き込みにも、今回の掲示板にも、その特徴が顕著に見られます!」佐々木は驚きの声を上げる。
「でしょうね。文体は意識して変えられても、無意識の癖はなかなか消せないものよ。特に、匿名で感情を露わにするような場面ではね。これは、高橋くんという個人の思考パターンが、言葉遣いとなって刻印された、いわば『デジタル指紋』のようなもの。これが第一の根拠よ」
「そして第二に、あの比喩表現……特に『"月の女神"の涙は、インクで描かれている』という一文。これは決定的に、神崎さん本人による書き込みではないことを示唆しているわ」
「どういうことでしょう?」
「考えてみて。神崎さん自身が、自分の悲しみや表現力を、そんな風に『インクで描かれた偽物』だと、自嘲するでしょうか? たとえコンテストの結果に不満があったとしても、自らの感受性そのものを、これほど冷たく突き放し、価値のないもののように書くかしら? むしろこれは、彼女の才能や感受性に嫉妬し、それを貶めたいと願う第三者の、悪意に満ちた視線そのものではないかしら? 彼女がSNSに書いた詩的な文章を知っていて、それを『しょせんインクで描かれたもの……つまり上辺だけの、偽りの感情表現』……だと揶揄している。これは、彼女に屈折した劣等感を抱く人物……つまり、高橋くんの視点と考える方が、ずっと自然よ」
「第三の根拠は、動機の整合性。高橋くんは、サークルのリーダーである小林くんに強い嫉妬心を抱き、口論までしている。同時に、才能を認められる神崎さんにも複雑な感情を抱いていた。フォトコンテストで、彼が最も妬んでいたであろう二人が脚光を浴びた……これが引き金となり、彼の長年の鬱屈した感情が、匿名という安全な場所で、執拗な攻撃という形で噴出した。彼の過去の匿名アカウントでの中傷行為は、彼がそのような手段に訴える人間であることを裏付けているわ。この一連の流れは、極めて自然で、彼の行動原理と一致する」
「そして第四に、小林くんの死の直前の状況。小林くんのLINEで高橋くんの企画案を却下し、『君には向いていない』と伝えたのが決定的な引き金となったのではないかしら。これに対する返信がないことも不自然だわ。通常なら、何らかの反応があるはず。おそらく彼は、この屈辱的なメッセージに対し、LINEではなく、匿名掲示板で『反撃』することを選んだのよ。そして、小林くんがその掲示板を閲覧していたことも確認されている。小林くんは、自分が標的になっていることを知り、精神的に追い詰められていった可能性が高い」
「第五に、偽装工作の可能性。彼は、神崎さんがコンテスト結果に不満を持っていることを知っていて、巧妙に彼女の不満を利用し、あたかも彼女が書き込んでいるかのように見せかけようとしたのかもしれない。あるいは、彼女も同類であるかのように匂わせることで、自分への疑いの目を逸らそうとした。しかし、その偽装がかえって不自然さを生み、第二の根拠で述べたように、犯人が神崎さん本人ではないことを示してしまったのよ」
蛍は一つ一つ、根拠を積み重ねていく。
「文体の癖という『デジタル指紋』、比喩表現に隠された悪意ある視点、過去の行動と一致する強い動機、小林くんの死直前の状況、そして不自然な偽装工作……。これらの要素がすべて、高橋くんという一点に収束するの。他の誰かでは、これらすべての状況を合理的に説明することは難しいでしょう」
蛍は静かに続けた。
「小林くんの死については、状況証拠から判断する限り、高橋くんが直接手を下した可能性は低いと思われるわ。むしろ、彼の執拗な『言葉の暴力』が、精神的に小林くんを追い詰め、自殺へと追いやった……いわゆる『パワハラ自殺』『ネットいじめ自殺』の形に近いのではないかしら。最後のLINEのやりとりの後、小林くんが匿名掲示板を長時間閲覧していたこと、そして遺書がなかったことからも、彼が衝動的に、感情の高ぶりの中で命を絶ったと考えるのが自然よ」
「高橋くんを問い詰めれば、おそらく彼は、匿名性の陰に隠れて行った自分の行為の重さに、まだ気づいていないかもしれないわ。彼が使っていたパソコンやスマートフォンのログを調べれば、決定的な証拠が見つかるはずよ」
蛍の推理に基づき、捜査は再び高橋に向けられた。彼のパソコンからは、掲示板への書き込みを示すログや、小林くんや神崎さんに対する否定的な感情が綴られたメモなどが発見された。追及された高橋は、当初は否認していたものの、次々と証拠を突きつけられるうちに、匿名掲示板への書き込みを認め、小林くんへの嫉妬心や、注目される神崎さんへの複雑な感情から犯行に及んだことを自供した。小林くんの死については、「自殺するとは思わなかった」と動揺を見せたという。
さらなる捜査の結果、高橋は小林くんの自宅マンションの近くに住んでおり、死亡当日も付近で小林くんの様子を観察していたことが判明した。彼は、小林くんがベランダに出て、夜空を見上げるのを見ていたが、直接的な危害を加えてはいないと主張していた。法医学的な証拠からも、小林くんの転落死は他殺ではなく、自殺または事故の可能性が高いと結論づけられた。
事件の顛末を聞き、蛍は窓の外の曇り空を見上げた。雨が降り始めているようだった。
「デジタルの言葉は、時に現実の刃よりも深く、静かに人の心を傷つける……。顔が見えないからこそ、言葉の重さを忘れ、安易な悪意が蔓延る。これもまた、現代の闇の一つの形なのね……」
その声には、いつもの冷静さに加えて、深い哀しみの色が滲んでいた。
佐々木は、ネットという掴みどころのない世界で起きた事件をも、見事に解き明かした蛍の洞察力に、改めて畏敬の念を抱いていた。彼女は、ログの文字の連なりから、生身の人間の歪んだ心理と、それが引き起こした悲劇の本質を、正確に読み取ったのだ。
雨音が響く書斎で、安楽椅子探偵・上條蛍は、また一つ、現代社会の複雑な事件を解決へと導いた。ムサシが、そっと彼女の足元に寄り添っていた。
(了)




