第2話:彼方からのメッセージ
午後の柔らかな日差しが、上條蛍の書斎を満たしていた。窓の外では、木々の葉が風にそよぎ、時折、鳥の甲高い鳴き声が静寂を破る。飼い猫のムサシは、その声に耳をそばだて、窓枠の上で小さく喉を鳴らした。蛍は肘掛け椅子に深く身を沈め、古い日記帳のページをゆっくりとめくっていた。それは、何十年も前に書かれた、見知らぬ誰かの日々の記録。インクは掠れ、紙は茶色く変色しているが、そこには喜びや悲しみ、そして誰にも打ち明けられなかったであろう秘密が、比喩や暗示に満ちた言葉で綴られていた。
「言葉というのは、時に素直な意味よりも、隠された響きの方が雄弁なことがあるのね……」
蛍は独り言のように呟き、指先で古びた文字をそっとなぞった。日記の主が残した、ささやかな謎解き。それはまるで、遠い過去からの囁きを聞くような、静かで知的な遊びだった。ふと、庭の方でカラスがカァ、カァと鋭く鳴く声がした。ムサシがぴくりと反応し、窓の外を睨むように見つめる。不吉、というわけではないだろうが、どこか普段とは違う、張り詰めたような響きがその鳴き声にはあった。
そんな午後の静けさは、やはりというべきか、けたたましい足音によって破られた。
「蛍さん! また妙な事件が発生しまして……!」
ドアが勢いよく開き、息を切らした佐々木誠刑事が飛び込んできた。その手には数枚の書類が握られている。
「まあ、佐々木刑事。今日は少し早かったわね。カラスの鳴き声が聞こえたから、何かあったのかしらと思っていたところよ」
蛍は日記帳に栞を挟み、穏やかな笑みを浮かべた。「さ、まずは落ち着いて。いつものアールグレイを淹れるわ。それで、今度はどんな『妙な事件』なの?」
「あ、ありがとうございます……。それが、脅迫事件なんですけど、どうにも気味が悪くて……」
佐々木は差し出された紅茶を受け取り、一気に半分ほど飲み干してから、ようやく落ち着きを取り戻したように話し始めた。
「被害者は、地元で建設会社を経営している田所雄三さんという社長です。一週間ほど前から、その田所社長のもとに、差出人不明の脅迫状が届き始めたんです」
「脅迫状……。金銭の要求かしら?」
「それが……違うんです。金銭の要求は一切ありません。その代わり、実に奇妙な行動を要求してくるんです」
佐々木は持ってきた書類……脅迫状のコピーをテーブルに広げた。それは、新聞や雑誌から切り抜かれた文字を貼り合わせて作られた、典型的な脅迫状の体裁をとっていた。
「一通目は、『会社の屋上に、毎朝、赤いバラを一輪供えよ』。二通目は、『三日後の午後三時に、駅前の広場で鳩に餌をやれ』。そして昨日届いた三通目には、『来月の創業記念日に、本社ビル前の広場で“あの歌”を歌え』と……。いずれも、従わなければ『お前の隠している秘密を世間に暴露する』と脅しています」
「赤いバラ……鳩の餌……そして“あの歌”……」蛍は細い指で脅迫状のコピーをなぞりながら、興味深そうに呟いた。「確かに奇妙ね。田所社長は、その『隠している秘密』に心当たりは?」
「それが、全く見当がつかない、と。もちろん、何か隠し事の一つや二つあるのかもしれませんが、世間に暴露されて困るような致命的な秘密はない、と言っています。最初は悪質ないたずらかと思ったそうですが、こう何度も続くと気味が悪いし、万が一のことを考えて警察に相談に来られたんです」
「脅迫状そのものについて、何か分かったことは? 例えば、使われている文字の切り抜き元とか」
「鑑識で調べていますが、様々な時期の新聞や雑誌が使われているようで、今のところ特定には至っていません。指紋やDNAも検出されませんでした。かなり用意周到な犯人です」
蛍はしばらく黙って脅迫状のコピーを眺めていた。その表情はいつものように穏やかだが、瞳の奥には深い思考の色が浮かんでいる。
「ふむ……これは、単なる嫌がらせや気まぐれではないかもしれないわね……」彼女はゆっくりと言った。「犯人は、金銭よりも、田所社長に『何かをさせること』そのものに目的があるように見えるわ……。まるで、忘れられた儀式を強要しているかのようにも……」
期待に満ちた目でこちらを見る佐々木刑事に対し、蛍はすぐには核心を語ろうとしない。
「佐々木刑事、いくつか調べてほしいことがあるわ。この謎を解くには、もう少し情報が必要よ」
そのもったいぶるような口調に、佐々木は早く結論を聞きたい気持ちを抑え、真剣な表情で頷いた。
被害者である田所雄三社長の経歴を詳しく。特に、会社を創業した頃の状況、共同経営者や初期の従業員との関係、個人的な人間関係など。苦労話や美談だけでなく、何かトラブルや確執はなかったか。
脅迫状で要求されている行動について、それぞれ田所社長にとって何か特別な意味があるのかどうか。赤いバラ、駅前の鳩、そして“あの歌”……特に歌については、具体的に何の歌なのか、歌詞や由来、田所社長との関連性を調べてほしい。
脅迫状に使われている切り抜き文字について、もう一度よく調べてみて。もし可能なら、どの年代の、どの種類の印刷物(全国紙か地方紙か、一般誌か業界紙かなど)から取られた文字が多いか、傾向が掴めないかしら。
田所社長の家族構成、特に、最近亡くなった方や、疎遠になっている親族はいないか。
「社長の過去や、歌の由来ですか……? それが脅迫とどう繋がるんでしょう?」
「繋がるかもしれないし、繋がらないかもしれないわ」蛍は悪戯っぽく微笑んだ。「でもね、佐々木刑事。意味のない行動を要求する脅迫なんて、本当の意味で『意味がない』ことは稀なのよ。犯人は、その行動を通じて何かを伝えようとしている、あるいは思い出させようとしている可能性が高いわ。その『何か』を探るためには、過去の断片を丁寧に拾い集める必要があるの。お願いできるかしら?」
「は、はい! 分かりました! すぐに調べてきます!」
佐々木は力強く返事をすると、足早に書斎を後にした。残された蛍は、再び古い日記帳に目を落とす。そこには、こんな一節があった。『あの日の約束は、言葉にはならずとも、歌となり、花となりて、今も私の胸に……』。
翌々日、佐々木は詳細な調査結果を携え、再び蛍の書斎を訪れた。その表情には、前回以上の興奮と戸惑いが入り混じっていた。
「蛍さん! 調べてきました! いくつか気になる点が出てきました!」
田所社長は、若い頃に大変な苦労をして会社を大きくした、いわゆる叩き上げの人物です。しかし、創業期に一人、共同経営者として資金やアイデアを提供してくれた古い友人がいたそうです。ですが、会社が軌道に乗り始めた頃に、意見の対立から喧嘩別れのような形で袂を分かった、と。その友人の名前は、古川というそうです。古川氏はその後、別の事業を始めましたが上手くいかず、数年前に亡くなっているとのことです。
要求された行動についてですが……まず赤いバラは、数年前に亡くなった田所社長の奥様が、生前一番好きだった花だそうです。駅前の鳩は……これははっきりしませんが、昔、駅前で古川氏とよく待ち合わせをしていた、という話がありました。そして“あの歌”ですが、これは田所社長と古川氏の故郷の町で、かつて炭鉱が栄えていた頃によく歌われていた古い労働歌だということが判明しました。二人も若い頃、仕事の後によく一緒に歌っていたそうです。
脅迫状の文字ですが、鑑識が再調査した結果、使われている文字のかなりの部分が、30年以上前に廃刊になった地元の小さな業界新聞『○○工業日報』から切り抜かれている可能性が高い、という報告がありました。かなり古い、マニアックな新聞です。
田所社長の家族ですが、奥様が亡くなった後は一人暮らしです。子供はいません。疎遠になっている親戚も特にいないようですが……亡くなった古川氏には、息子さんが一人いるそうです。現在50代後半で、市内で小さな町工場を営んでいるとのことです。
全ての報告を聞き終えた蛍は、ゆっくりと頷き、目を閉じた。しばしの沈黙の後、彼女は静かに目を開けた。その瞳には、複雑なパズルが解けた後の、静かな確信が宿っていた。
「……なるほど。やはり、これは過去からのメッセージだったのね……。犯人は、おそらく……」
蛍は一呼吸置いて、続けた。
「亡くなった共同経営者、古川さんのご子息……その方でしょうね」
「ええっ!? 古川さんの息子さんが!? でも、なぜ今になって……?」
「動機は、金銭ではない。おそらく、父である古川さんの『無念』を晴らしたい……そして、田所社長に、忘れてしまった過去の『何か』を思い出させ、認めさせたい……そういう強い思いからでしょう」
蛍の推理は、まるで物語を語るように紡がれていく。
「考えてみて、佐々木刑事。要求された行動は、すべて田所社長と古川さん、そして亡くなった奥様との過去の記憶に繋がっているわ。赤いバラは奥様への追悼、駅前の鳩は古川氏との友情の記憶、そして労働歌は二人の原点……故郷と若き日の絆の象徴。犯人は、田所社長が成功の陰で忘れ去ってしまった、あるいは意図的に目を背けてきた過去を、一つ一つ丁寧に突きつけているのよ」
「過去を……突きつけて……」
「ええ。そして、脅迫状に使われた文字。30年以上前の、しかも地元の業界紙から切り抜かれている。これは、犯人がその古い新聞を大切に保管していた、あるいはアクセスできる環境にあったことを示唆しているわ。亡くなった古川さんが、かつてその新聞を読んでいたのかもしれない。息子さんは、父の遺品の中からそれを見つけ、今回の脅迫状を作るのに使った……そう考えられないかしら?」
「た、確かに……! 古い業界紙なんて、普通は手に入りませんからね……」
「金銭を要求せず、奇妙な行動を強要するのは、田所社長のプライドを傷つけ、精神的に追い詰めたいという意図もあるかもしれないけれど、それ以上に、父が大切にしていたであろう『約束』や『思い』を、形にして思い出させ、償わせたいという、屈折した願いがあるのかもしれないわね。『秘密を暴露する』というのは、具体的なスキャンダルというより、田所社長が古川さんにした過去の『裏切り』や『不義理』……それを指しているのではないでしょうか」
「裏切り……!?」
「創業期の共同経営者との決裂には、当事者にしか分からない複雑な事情があったはずよ。もしかしたら、田所社長が今日の成功を築く陰で、古川さんは不当な扱いを受け、その無念を抱えたまま亡くなったのかもしれない。息子さんは、その父の無念を晴らすために、長い年月を経て、このような形で行動を起こした……。それが真相に近いのではないかしら」
蛍は静かにカップを置いた。「古川さんの息子さんに、お父様のこと、そして田所社長への思いを、丁寧に聞いてみてはどうかしら。おそらく、彼が今回の脅迫状を送った張本人だと、自ら語り始めるはずよ」
蛍の推理は、今回も的確だった。佐々木刑事が古川氏の息子に接触し、慎重に話を聞いたところ、彼は当初こそ固く口を閉ざしていたものの、父の遺品である古い業界紙のことや、田所社長への積年の思いを問われるうちに、感情を抑えきれなくなり、すべてを打ち明けた。父・古川氏は、会社の重要な技術やアイデアの多くを提供したにも関わらず、田所社長に一方的に会社を追い出され、その後の人生も不遇だったこと。息子はずっとそのことを恨みに思い、父の無念を晴らしたいと考えていたこと。金銭ではなく、父が生前大切にしていた記憶の断片を突きつけることで、田所社長に罪を認めさせ、精神的な苦痛を与えたかったこと……。脅迫状の作成も、彼の犯行で間違いなかった。
事件解決の報告を受けた蛍は、書斎の窓から見える夕暮れの空を眺めていた。カラスはもう鳴いていない。
「過去の約束や裏切りは、時を経ても消えることなく、人の心に深く刻まれるものなのね……。そして、それは時に、歪んだ形で現在に現れる……」
彼女の呟きは、誰に聞かせるともなく、静かな書斎に響いた。
佐々木は、安楽椅子に座る探偵の、揺るぎない洞察力に改めて感嘆していた。切り貼り文字の脅迫状という古典的な事件に隠された、現代にも通じる人間の複雑な感情と過去の因縁を、彼女は書斎にいながらにして見事に解き明かしたのだ。
今日もまた、上條蛍は肘掛け椅子の上で、一つの人間のドラマを静かに終幕へと導いたのだった。ムサシが、主人の膝の上で満足そうに目を細めていた。
(了)