その7
ドアを開けて「ボンボン」が人ってきた。歯科大に通っているこの病院長の息子はかなりの金を使う上得意だ。おとなしい坊っちゃんで、もめ事も起こさす、いつも現金払いの有難い客だ。章子達は彼の事を陰で「ボンボン」と呼んでいる。 「いらっしゃい」の声にいつもの気恥ずかしげな笑いを見せ、「ボンボン」は章子の前のウンターに座った。 おしぼりを渡して、 「お久しぶり、 どこで浮気してたの」と微笑んでやると嬉しそうな顔をする。 この 「ボンボン」はいつも淋し気なのだ。
「水割りでいいかしら」
「ああ」
棚に並んだウイスキーポトルの中から 「ボンボン」のラベルを探して、章子は水割りをつくった。グラスをカウンターに置くと 「ボンボン」は章子に何か軽ロでも言おうとした様だが、言葉にならず、かわりに一口水割りを飲んだ。酒が人らなければ舌が回らない。酔ってくると元気になってきて、 「こらっ、お前は処女か」などと言ったりもする。
「歯科大も大変ね。不正人試とか何とかで」
章子がそう言うと「ボンボン」は嫌な顔をした。
「おたくの学校はもちろん違うんだけどね」
と章子は笑って、
「でも皆お金を持ってるのね。二千万とか、 三千万とか……そんな大金払っても損にならないのね 」
入学金の額を知りたい単純な気持から、「あなたいくら払ったの」と聞きたかったのだが、悪く取られそうなのでやめ た。「ボンボン」は苦笑いしながら水割りを飲んでいた 向こうのカウンターで亜矢 子がカラオケで歌い出した。声がいい事を本人も意識している。実際いい声だと章子 は思う。 「ボンボン」は亜矢子の方に目をやった。亜矢子は歌いなから軽く会釈した。
「うまいね」
章子の顔をチラリと見て「ボンボン」は言った。
「――さんも歌ったら」
「酔ってこなければだめだよ」
詰まった様に言うとウイスキーをごくりと飲んだ。
来初めた頃、 「ボンボン」のお気に人りは亜矢子だった。若いし、派手な娘だから、若い男はたいてい章子より亜矢子につく。「ボ ンボン」もそうだった。しかし亜矢子は「ボンボン」の話に合うタイプの女ではなかった。たとえば自分でも歌を作るとか言う「ボンボン」は、酔うとあれこれの恋歌を並べ出す。 万葉、古今から現代短歌まで。 そして「歌の心」を講釈し出す。 本人は悦に人っているのだが、聞いている亜矢子はしだいに退屈してくる。 「あなたもそんな風に恋人を泣かせたんでしょう」と亜矢子が下世話な方へ脱線させようとすると、真面目な顔で「うーん」と黙りこむ。そのうち「勉強になるわねえ」などと亜矢子が白けた相槌を打つ様になる。それが「ボンボン」にもわかって話が沈滞しだすのだ。 そんな事をくり返し、今では「ボンボン」の相手は章子に定着した感じだ。章子にも「ボンボン」の話は変に堅くて面白くない。人にうちとけない所や、坊っちゃんらしい甘えを感じて、むしろ嫌だ。しかし「ボンボン」の中にどことなくある不安定さ、林しさが章子のシンパシイを誘う。 それか「ボンボン」にも通じるのかも知れない。
――この前来た時「ボンボン」は珍しく自分の事を話した。 自分には好きな女性がいる、その女性と結婚するつもりだから、親が勧める相手との縁談も断っていると、坊っちゃんしい人の良さで情熱的に話した。章子は亜矢子を呼んで二人で冷やかしたものだ。いつも淋し気な「ボンボン」だが、 その時は若者らしい生気を感じさせた。その四、 五日後か、店からの帰りに、駅前のトルコ街で車を拾っている「ボンボン」を見かけた。酔った様な赤ら顔に照れ隠しの笑みを浮かべていた。章子は裏切られた様な感じがした。漠然とした寒気を感じた。――そんな事を相手をしながら章子は思い出す。
「ボンボン」はしだいに酔ってきた。酔ってくると章子の目をまともに覗きこむ様になる。
「あんた人を信じた事ある? 」
「人を信じる? 」
章子は敏男を思った。電話を切った時から、敏男の事を断続的に考えている。今も黙っていると、耳の中に敏男の快活な声が甦ってくる。どうしてあんなに明るく話せるんだろう……。
「女ってのはどこまで信用できるのかな……」
「何かあったの」
「いや、別に……」
「ボンボン」は黙りこむ。
…… あの時で終りだと章子は自分に言い聞かせてきた。心の片隅に終るはずがないという気持もあったが、とにかくこの半月 程、敏男の事を考えない様にして過ごしてきた。ところが敏男は言ってた通りに電話をかけてきた。少しの疑いも含まない明るい声で……。章子の気持のつっぱりは敏男の電話によって崩れた。それまでのつっぱった気持が馬鹿げた事に思えた。
「職場のハイキングか……そんなものかなあ」
「ボンボン」はグラスを顔の前に持って眺めながら呟いた。
「せつかくの連休なのに……本当に好きならそんなものすっぽかしても会うはずじゃないか」
章子は連転席のフロントガラスにぶら下げるマスコット人形を、作りかけでやめてしまった自分を恥ずかしく思い返した。
「ねっどう思う」
「ボンボン」はグラスの向こうから、液体を透かす様にしていたずらっぽく章子の目を見た。章子は急に「ボンボン」を疎ましく感じた。
「そうね、相手の人はあなたを本当に好きなんじゃないかも知れないわね。そしてあなたも」
「ボンボン」 は驚いた様に章子を見た。
「章ちゃんも言うなあ」
そう言って顔を歪めた。章子は一時になったらそこを開けて敏男が人ってくるだろうドアに目をやった。 「ボンボン」 は俯いた。
「本当にその人が好きなら、信じてあけなさいよ、ね」
ドアを見つめたまま章子はそう言った。