その5
初夏の頃、敏男はまたやってきた。まだ寝ていた章子がガウンを着てトアを開けると、目にしみる陽の光とアパート前のもみじの緑を背に、男が黒っぽく立っていた。目を細めると、敏男の顔が笑っていた。
「起きる頃だと思ってね」
章子は「ああ」と言ったきり、暫く敏男の顔を見つめていた。言葉が出なかった。嬉しかった。と同時に何か恐かった。
「今日は部屋に人るの」
茶化したつもりで言ったのに突慳貧な調子になった。言った後すぐ後悔した。
「いや、別に人らなくても
敏男は鼻白んだ様に言葉を濁した。
「いいの、いいの、ごめんなさい。訪ねてくれてありがとう、あがって頂戴、あっちょっと待ってね、片づけるから」
章子は慌ててそう言うと、部屋の中に駆けこんだ。
「休みだからちょっと寄ってみた」と言って腰をおろした敏男は、1時間程話して帰っていった。高校時代の同級生の消息や、お互いの仕事の事などを話したのだが、敏男が「俺、あんたに会えて嬉しかったよ」とポツンと言った言葉が章子の胸に残った。「どうして」と聞くと笑って答えなかった。敏男はまだ独身だった。母親、妹と一緒に暮らしていた。父親は既に亡くなっていた。帰り際に「また来る」と言った。この前とは違う確かさで章子はその言葉を受けとめた。北海道から野菜を運んだ時の土産だと言って、大きな木彫りのアイヌを残していった。
その夜、店から帰って寝床に人ってから、章子は敏男の事をいろいろ考えた。思い出は高校時代しかないのだが、殆ど何も浮かばない。無ロでおとなしい男の子、印象はそれだけだ。当時クラスの男生徒の中に勉強もスポーツもよくできるハンサムがいて、女生徒の半分程は彼に心を寄せていた。章子もその中の一人で、その彼 にどうしても目を奪われがちだったから、目立たない敏男はなおさら 影がうすくなっているのかも知れない 。 ただ一つ思い出した のは、冬の校内マラソン大会で敏男がトップになった事だった。その時章子は敏男を少し見直したのだ。さらにその頃の記億をまさぐっていくと、章子達が話しかけた時などの敏男の気恥かしげな顔 やしぐさぼんやり浮かんできた。……なぜ私に近づくのかな、章子はそう思った。それは不快な思いではなかった。
それから二週間に一度ぐらいの割合で敏男と会う様になった。彼の休みの日に、昼間。夜は章子が店に出るので、二人のデートはいつも三時間程だった。場所は喫茶店や公園。敏男は章子のアバートを訪ねてきても、そんなに長くは居たがらす、章子を外に連れ出した。章子には淡白すぎて物足りない感じもしたが、それは別れてから思う事で、 敏男に会っている時は、自分が十代の青春の中に戻ってきた様な感じがして充実していた。だから敏男と別れて鏡台の前に座り、店に出る化粧を始めると、気持の落差に途惑いを覚えるのだった。 「あんた好きな人いないの」
敏男と向いあってコーヒーを啜って いた時、章子はこう尋ねた事がある。昼日中、こうしてコーヒーを啜って語りあっている自分が急にくすぐっ たく思えて、そのくすぐった さを脱れたい思いがふと言わせた言葉だった。敏男 に好きな女がいるとは思っていなかった 。 「えつ」と言って放男は章子を見た。 「別にいてもいいけどさ」
自分の言葉が探りをいれたものの様に感じられて、章子は慌ててそう言った。そしてその言葉がまた章子の気持にそぐわなかった。
章子は苦い気持になった。敏雄は屈託のない笑い声を上げた。 「いたよ、昔」
――敏男が今の仕事に就く前の事で、その頃彼は印刷会社に勤めていた。従業員二十名程の小企業で、章子もその名前を知っている会社だった。相手の女はそこの社長 の娘で、事務を執って家業を手伝っていた。製品の発送の時など、伝票を受取りにいって顔を会わせるのだが、社長の娘という感じがなく 、自然な対応をする人だった。いつか二人は目で話をする仲になっていた。 社長は 二人の気持を知ると、敏男の首を切った。そのころ起っていた組合結成の動きの中心に敏男がいた事も首切りの原因だった。敏男は不当解雇だと抗議して頑張った。彼がどうにも会社にいられなくなった時、娘は深夜彼のアパートを訪ねてきて、親を捨てられないと泣いた。もともと二人の立場からして不安定な恋だった。デートなど殆どできなかった。娘の泣き顔を見ながら、敏男は終ったなと思った。 それ以来娘の事 は忘れた。
――実際忘れてしまった様に見える敏男に思いきりの厳しさを感じ、章子はかすかな恐れを覚えた。