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章子  作者: 坂本梧朗


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その4

 敏男と再び会ったのは今年の春だった。店が終って、いつもの喫茶店でぼんやりしていると、彼が同僚と二人連れでやってきたのだ。ドアを開けた時から、章子は敏男だとわかった。その顔には数年前に会った時のひ弱さはなかった。敏男達は章子に気づかず奥の席に向かっていった。広くなった様に見える肩幅が敏男の過ごしてきた年月を語っていた。こちら向きに座れば自分に気づくだろう、章子はふと後ろ向きに座りかえようかと思った。それはこの商売に入ってから身についた、人に対する何とない引け目の様な心の動きだった。章子はそのまま座っていた。                                          

 敏男はこちら向きに座り、ちょっと店の中を眺めた目を章子に止めた。驚いた表情をしたが、すぐ懐しそうな笑いが顔に浮かんだ。彼は立ち上がり、近づいてきた。その屈託なさが章子には嬉しかった。心の構えがほぐれた。                   

  敏男は自分達のテーブルに章子を連れていった。座っていた敏男の連れはまだ顔にあどけなさの残るほっそりした若者だった。外見でそれとなくわかるだろうし、章子は自分が水商売の女である事を隠さなかった。敏雄は、そうか、とだけ言った。彼は運送会社に入って大型トラックの運転手をしていた。ほっそりした若者は敏雄の相棒だった。話が弾んだ。なぜこんなに話が弾むのか章子は訝しく感じた。敏男達の屈託のない話を聞いていると、自然に章子の心は開いていくのだった。敏男は起こした交通事故がもとで電機会社をやめた事、その後二、三の職を転々とした事、今の仕事の事などを淡々と話した。さりげなく話すので軽い気持で聞いていくのだが、話が途切れた時など、内容を思い返すと、敏男の苦労が浮かんできた。彼は自分の事を話しても、章子の傷には触れてこようとしなかった。それが章子には有り難かった。無ロな相棒の若者は、人の好い笑いを第かべながら、先輩の話を聞いていた。                                     

 章子は楽しかった。楽しい会話など何年もしたことがなかった。章子は敏雄はこんな男だったのかと訝しんだ。高校時代から抱いていた彼のイメージとかなり違っていた。彼が変わったのか、それとも自分のイメージが間違っていたのか、どちらにしても敏雄の新しい印象は好ましかった。敏雄とゆっくり話をしたのは高校時代を含めてその時が初めてだった。敏雄達が酒を注文した。章子も一緒に飲んだ。一、二杯で酔いがまわってきた。その時閉店を告げられた。                              

「私の部屋で続きをやらない」                           

 そう言った時、やはり水商売の女だと章子は自分を思った。この種の衝動には流される癖がついていて、豆腐に釘を刺すように抑えがきかない。部屋で一対一になろうと言うんじゃなし、相手は二人なんだから、いいじゃないか、そんな気持だった。

 敏男達は承諾した。章子を真中にして夜明けに近い街を三人は歩いた。章子は半ば故意によろめいて敏雄にもたれかかった。なじみの客に誘われて酒を飲んだ時にも、章子はそんな動作をしたことがあった。男の心をくすぐる放埒な楽しさがあった。しかし敏雄にもたれかかっていく章子の気持にはその時よりも少し醒めたものがあった。生真面に自分を支える敏男の反応がおかしくもあり、嬉しくもあった。                   

 章子のアパートにつき、章子を部屋に人れると二人は帰ると言い出した。いい気持で渡っていた橋が突然足許から取り払われたように章子は感じた。怒りが膨れあがった。  

「何だい、わかった様な顔しやがって。やっばり飲み屋の酔っ払い女なんか、まともにつきあう気にはなれないかいっ」                                

 敏男の目を睨みつけて章子は叫んだ。涙が出てきた。なぜ泣くのか章子にもわからなかった。ただ自分の人生の口惜しさが急にこみあげてきて、胸の中で畜生、畜生と言い続けた。敏男は章子の目を見据え、                          「明日午後から仕事なんだ。遠いから、俺もこいつも十分眠らなきゃいけない。眠気が一番危ないんだ」                                       

 落着いた声で一語一語かみしめる様に言い、ちょっと笑ってあたりを見回すと、         

 「住んでる所がわかったから、また来るよ」と言った。               

「いい気になるんじゃないよっ」                          

章子はカ1杯ドアを閉めた。                             

 翌日目を覚ますと、 咋夜の事が遠い出来事の様に思えた。敏男との出会い―― 章子にはまさしく昨夜が敏男という男に初めて出会った日に思えた――が夢の中での出来事の様な気がした。午過ぎの陽ざしが滲むカーテンを、寝床の中から章子は暫く見つめていた。敏男にぶつけた自分の怒りを思い出し、悪かったなと章子は思った。今は敏男達が酔った自分を放っておけずアパートまで送ってくれた事がわかった。屈託なく話していた敏男の顔が浮かび、章子の心をほのかに暖めた。また来るとか言ってたなぁ……でもあんな事言ったんだから愛想をつかしてもう来ないだろうな……自分の言葉がまた悔やまれた。     

 日々が過ぎ、敏男もまた行きすりの男の一人として、章子は忘れようとしていた。


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