その3
電話が鳴った。章子はハッとした。時計を見ると十時を廻ったところだ。
「章ちゃん、電話よ」
ママが電話の送話口を押さえて呼んだ。喜びがふっと胸にひろがった。と同時に途惑いを覚えた。一呼吸おく様にして、章子は受話器を把った。
「あっ俺だよ、杉本、今こっちに着いたんだ、ぶっとばしてね……うん、ちょっと疲れたかな……N倉庫にいるんだ……そう東港の岸壁、荷物引き渡してるんだ……これから会えないか、いつ終るんだっけ、そっち……うん、これから……えっ遅くなってもいいさ、明日は休みだから……眠らないよ、引き渡しが終ったら、会社に帰って、飯くって、腹ペこなんだ、頭牙えてるよ、はっはっはっ……、一時、いいよ……ああ、この前行った喫茶店ね……あっ、俺あんたの店に行くよ……いいじゃないか、夜道は危ないからさ……そう言うなよ、はっはっはっ……迷惑かい……じゃないだろう、そいじゃ、一時にそっちに行く……じゃ」
敏男の声が途切れた。章子はホッとため息をついて受話器を置いた。上気していた。面映ゆかった。何だ、馬鹿らしい、電話ぐらいで。章子は何でもないという様子を装って元の場所に戻ろうとした。ママや客からひやかされないかとびくびくしながら。幸い声をかけてくる者もなく、亜矢子の後ろをすり抜けた時、
「あき姉さん、幸せそう」
亜矢子が耳許で囁いた。章子は顔がパッと火照るのを感じた。
「何言ってんだい、そんなんじゃないよ」
思わず強い口調になった。亜矢子は舌を出した。
そうだよ、男には懲りてるんだ、あたしは……章子は自分の気持に安全弁をかける様にそう思った。
杉本敏男は高校時代の同級生だ。といっても別に親しかったわけではない。章子にとってその頃の敏男はむしろ無存在に近かった。学校を出てからの偶然の再会が二人を近づけたのだ。
章子は高校を出ると地元の陶器会社に女子工員として就職した。便器や浴槽をつくっている業界では大手の企業だ。女子従業員寮に人った章子は、同室の五人の同療と起居を伴にする生活を始めた。初めての職場、そして寮生活は、希望より不安の方が大きかった。人社した年の初夏の頃、街でばったり敏男に会った。正面から出会ったので、二人は思わす顔を見つめ合った。そうでなければ気づいてもやり過ごしていただろう。その頃新しい生活にまだ慣れずにいた章子は不安な閉ざされがちな気持でいたから。敏雄とは立話をしただけで分れた。電気会社に勤めていると言った。敏男の顔を見て、この人も淋しそうだなぁと思った事を章子は今でも覚えている。
それから1年程が過ぎた。章子は同じ会社の男性とつき合い始めていた。会社のレクレーションでやっていたバレーボールを通じて知り合ったのだ。彼は有名国立大出身で、営業部でも将来を期待されているエリートだった。工場勤務の章子とは職場は別だったが、昼休みなどよく電話がかかってきた。何度か会っている内に、彼は愛をうちあけ、章子も彼を愛する様になった。章子が就職して初めて経験する明るく弾んだ日々が続いた。二人は結婚の約束をした。エリートの彼がどうして自分などと、と思う事もあったが、 それは逆に彼の愛の真実さを示すものと感じられた。二人の関係は一年程続いた。彼と彼の上司の娘との間に結婚話が進んでいることを知った時、章子は既に身ごもっていた。男は弁解しながらも、章子には不可解などこか凉し気な様子を漂わせてその事実を認めた。突然見知らぬ他人になってしまった男の顔を前にして、章子はすーと暗闇に落ちこんでいく自分を感じた。何もかもが嫌になった。子供をおろした。会社をやめた。……