その2
八時を過ぎるとママがやってきた。章子と亜矢子の顔を見て頷いた後、客に会釈をしながら裏部屋に人った。 ママは郊外に一軒、軽食喫茶を持っていて、こちらにくるまではそこにいる。そこがママの住居でもあった。 ママが出てくる頃から店は賑やかになる。章子の前ではお得意の建設会社の社長が飲んで いる。和服の、一目でクラプホステスとわかる女性を連れている。
「あんたは一人で寂しくないか」
章子の体をどろりとした眼で撫でながら、社長は言った。
「あら、寂しかったらどうするの」
連れの女が素頓狂な声をあげた 。付けまつげが長すぎる。
「別にどうもせんさ」
社長は笑いながらグラスを口に運んだ
「あなた気をつけなさいよ、助平なんだから」
女は忠告する表情をつくって章子に言った。社長はニヤニヤ笑った。この社長とママが特別な関係にある事を章子は知っている。郊外の喫茶店もこの社長の援助でできたはずだ。だが二人の間は冷えかけている。社長が女を連れて店に来るのもその表れだ。ママはママで、留守を任せている喫茶店の若い男と親密だった。ママと冷えかけてから、社長は章子に言葉をかけることが多くなった。
「私寂しいわ。 社長さん慰めて」
章子はわざと甘えた声を出した。社長はおっという様に章子を見た。そして好色そうに目を細めて「ほう」と言った。その時仕度を終えたママがカウンターの中に人ってきた。黒いロングドレスに、茶や橙や黄がモザイクになった毛糸のショールをかけ ている。小柄だが豊満な印象を与える体つきだ。丸顔で目が大きく、そのくりくりした目に娘の様な愛敬があった。
「章ちゃんがどうかしたって」
近づいてきたママはそう言って、ちらりと社長の連れの女に目をやった。
「社長さんが私を慰めてくれるって」
章子が甘え声で言うと、ママはうんざりしたという様な表情をちょっと見せたが、
「まぁ、あんまり誘惑しないで頂戴、章ちゃんはまだ初心なんだから」
と愛嬌を込めた目で社長をにらんだ。社長は笑わない目でママを見ていた。ここはいい、というママの目配せで、章子は社長の前を離れた。
横のカウンターで亜矢子が二人の男を相手に盛んに喋っている。自分とそんなに年の違わない客とでないと亜矢子はうまく話せない。つまらない顔をしながら相槌を打つだけになる。中年の客は逆にそんな亜矢子をからかって面白がる。今亜矢子が相手をしているのは、常連の広告会社員だった。 「あたしは縛られるのは嫌だよ、相手を縛りたくもないし」
章子は話している亜矢子の後ろを通って、向こう側に出た。
「だけど愛するってことは縛ることじゃないか、どうしたって」
酒で赤らんだ顔の横で煙草を挿んだ手を揺らしながら、男は勢いこんで喋る。いかにも広告会社の営業マンという感じでよく舌が回る。
「縛ったってしょうがないじゃない。人間ってさ、縛れるもんじゃないよ。……そんなのきついよ、きついのは嫌だよ」
亜矢子は煙草を取って火を点けた。
「でもな、相手に縛られてやるっていうのも愛じゃないかな。自分を捨ててね。特に女の愛ってのはそうなんじゃない、……相手の男のいいように自分を縛っていく……俺、そんな女がいいなぁ」
男はそう言って連れを見た。連れの男も笑いながら頷いた。
「しょうがないよ、そんなの」
亜矢子はよそを向いて煙を吐き出した。男はそんな亜矢子の所作を見るのが目的のように楽しそうに笑った。
章子はガウンターの隅に目をやった。男女が並んで腰掛けている。今日で見るのが三度目位になるカップルだ。男は四十前後で会社員風、女はOLのようで二十三、四だった。二人はふだん章子達に話しかける事はなかったが、どうも同じ職場の上司と女子職員らしい。話しぶりや態度から、章子は二人が普通の関係でない事を感じ取っていた。女は甘える様に男の腕に寄りすがり、男は女の腰に手を回したりした。待ち合せに使っているようで、 一緒になると、いつも三十分程で出ていった。
今日はいつもと様子か違うようだ。声を低めて話しているが、雰囲気に険がある。男は怒っている。女は哀願する調子だ。俺は別れんぞ……結婚するならするがいい……結婚しても俺との関係は続けるんだ……押し殺した男の声が聞こえてきた。章子は途惑った。女は俯いた目に涙をためている。こちらを向いた男の目が章子の目と合った。男は水割りをぐいと飲むと、突っかかる様に「勘定してくれ」と言った。そして女に「さぁ出るぞ」と促した。女は下を向いて黙ったままだ。勘定を終えると、男は「いや」と抵抗した女の手を引っ張って出ていった。店は一瞬静かになったが、すぐに元のざわめきに戻った。
男に甘えていた時の女、今涙を見せて連れ出された女、二つの姿がしばらく章子の脳裏で交錯した。……男にも女にも章子は反発を感じていた。