南へ
ペイライエウス邸事件は、美談として世に広まった。メイプルに言わせれば「広まってしまった」ことになる。
伝説的大貴族であるペイライエウス家の令嬢アレクサンドラが生き残っており、高潔なる勇者メイプルの手によって庇護されていた。それを知ったイオニア家のロクサーヌは、親友を護り引き取るため、親衛隊を連れてペイライエウス邸を訪れた。
メイプルは信頼できるお方ならばと快くアレクサンドラを送り出し、アレクサンドラもこれまでの恩に応えるために、旧家の権利の一切を主張しないと約した。
そしてメイプルの行いに感じ入ったイオニア家は、メイプルの弟との婚姻を進める決断をした。
かくして、勅命によるイオス王国使節団では、アレクサンドラとロクサーヌの二人が共同正使となり、メイプルも二人を守るため護衛を務めることとなった。
そんな美談だ。
「ふざけるなっ!」
メイプルが卓を蹴り倒すと、上に飾られていた瑞々しい花の壺が割れて派手な音を立てた。物音を聞いた下女が駆け付けると、「海風が強いのかしらね、急に倒れてびっくりしたわ」と白々しく振る舞ってその場を離れた。
宿にしていた商家を出ると、白く眩しい陽光に包まれる。風には潮が薫り、遥かに見れば青い空と白い雲、そして美しい緑の水平線が広がっている。そして海岸線にはいくつもの桟橋が伸び、五百人乗りの大きな船から一人乗りの漁船まで、無数の船が停泊している。
帝国最大の軍港にして商港であるペイライエウス港である。
イオス王国への使節を送り出す出発式典の朝だというのに、メイプルの気分は優れない。有り体に言えば荒れている。
式典の場となる桟橋へと歩いていると、その元凶の一つが現れた。
「あらメイプルお義姉さま、ご機嫌麗しゅう」
ドンナー・メギンギョルズあらため、ドンナー・バクトリアーナ・イオニアだ。
今まででは考えられない数の侍女や召使を引き連れている。身に纏う物も明らかに質が上がっている。
メイプルは歯噛みした。四大貴族の直系になってしまった今、このいけ好かない幼馴染みに頭を下げなければならない。全精力を動員して微笑を作り上げると、先に頭を下げた。
「ごきげん好ろしうお過ごしのことお喜び申し上げますわ、ドンナー様」
「あら、そんなに畏まらなくてもいいのに。あたしとあんたの仲じゃない」
灼熱の怒りがこみ上げてくる。自分でなにかをしたわけでもないのに、死に物狂いで這い上がろうとするメイプルの上に易々と立った。それを鼻にかけるように、殊更に情け深く振る舞う姿も憎たらしい。
「人目がありますので」
「あ、そう。ま、いっか。レオン君との結婚、よろしくね」
「……っ!」
「弟さん、まだ13歳だっけ? 若いわねー、楽しみだわ。避妊具をたくさん用意しておかなくちゃ!」
頭に血が上った。
刺す。必ず刺す。そう決意した。
この毒婦に、弟を預けるなど、想像するだけで虫唾が走る。
そもそも子孫を残すことに強い意義を持つ貴族にとって、避妊は馴染みがない。ただ快楽のために交わるか、不倫な間柄で用いられるものだという意識がある。汚らわしいとさえ感じる。そんないやらしいものに、弟を触れさせたくない。不快感で吐きそうだ。涙がにじんでくる。
たが情けない姿を晒すわけにはいかない。
「ではドンナー様、のちほど」
毅然と見えるよう、精一杯の虚勢で乗り切った。
ペイライエウス港でも最大の規模を持つ中央港では、軍船が出航の準備を終えていた。
櫂の漕ぎ手だけで三百人を数える巨大な船で、二枚の大きな帆は遠洋での高速移動も可能にする。帝国海軍の誇る貴重な主力軍船だ。
護衛船も含めれば二千人が、今日この場から旅立つ。帝国の重要戦略を左右する外交使節だ。重みをもたせるためか、見送りの面々も錚々たるものだった。
皇族からは第二皇女ララが臨席し、スッラ執政長官を筆頭に皇城の高官が顔を揃えている。イオニア家の長女が使節を勤めるとあって、当主ニカルノもいる。優れた剣士として名高いチトス・グラディウス・ヴェスパシアスが護衛に名を連ねていることから、ヴェスパシアス氏族の列席もある。
満々と居並ぶ人々を前に典儀兵が金管を吹き鳴らすと、イオス王国への使節団が姿を現した。共同正使であるアレクサンドラとロクサーヌを先頭に、拍手と歓声を浴びながら歩いている。
その中には、当然メイプルの姿もあった。
護衛の筆頭である以上、欠席など出来るはずもない。百の護衛兵を引き連れて進むと、出発式典の主催であるニカルノの前で頭を垂れた。
「マルケラ・プルケラよ。不可抗力などという言葉は存在しない。何があろうとも、ロクサーヌとアレクサンドラを無傷で連れ帰るのだ」
「はい。もちろんでございます」
ニカルノの声音は厳しい。
「たとえイオス王国の大墳墓に封印された化け物どもが這い出てきたとしても、たとえあの不死の魔王が蘇って襲来してきたとしても、例外ではない。何があろうとも、絶対に守り抜くのだ」
たとえ話はどれも絶対にあり得ない話だが、そんな空想を持ち出すほどの厳命ということなのだ。風邪をひいてくしゃみをしただけでも責任を問われる。転んでけがをしたとしても責められる。
「必ずや、お守りいたします」
「そして、婚姻の件だが……ロクサーヌが無理矢理にまとめたことではあるが、このニカルノも追認している。そちらもよろしくたのむぞ」
「ありがとうございます。図らずもご縁を頂けたこと、本当に嬉しく感じております」
心の中では嫌悪しながらも、話題に上がれば感謝や喜びを口にしなければならない。
屈辱だ。
最近はずっとこれが続いている。
あのイオニア家と婚姻で結ばれるとなれば、帝国貴族にとってはこの上ない慶事だ。会う人会う人、皆が祝いの言葉を口にする。こちらはドンナーの顔が浮かぶ度に歯軋りで口内に血をにじませているというのに。アレクサンドラやロクサーヌとのやり取りを思い出す度に、胃の腑が燃え上がるような怒りに包まれているというのに。
それでも笑顔で謝意を述べねばならない。
屈辱だ。
そして今回の旅では、その元凶たるロクサーヌとアレクサンドラを、命に替えても守り抜かねばならない。今すぐにでもこの手で燃やし尽くしてしまいたい相手だというのに、万難を排して守護せねばならない。
屈辱だ。
もう怒りしかない。絶対に許さない。
絶対に、絶対に許さない。
「アレクサンドラ様とロクサーヌ様とが再び帝国の地を踏むまで、どのようなことがあろうともお守り申し上げます」
ニカルノに誓いながら、胸のうちで本心を独白した。
――しかし戻ってきたら……その時は絶対に殺してやる!
メイプルが復讐を誓った瞬間である。
愛憎悲喜こもごもの使節船団が向かうのは、古から続く歴史と神秘の国、イオス王国。そこでは、更なる陰謀が待ち受けていた。




