ペイライエウス邸事件 後編
「執事を我がイオニア家にもらい受けたい。もちろん、この男から得た情報の一切を、プルケラ家の不利に働くようには使わない。書面で約束してもいいわ」
ロクサーヌの迷いのない明快な言葉に、サンはこの上ない頼もしさを覚えた。
執事はメイプルの急所だ。外に出せぬ秘密を山ほど抱えているに違いない。それを交渉のみで手放させるのは至難の業だ。でも、二人でならばきっと出来る。そう確信するほどに、ロクサーヌの姿には清らかな風格があった。
対するメイプルは、微笑を浮かべながら思案するように視線を傾けている。内心では舌なめずりをしているのだろう。
「わたくしはペイライエウス家の令嬢を殺そうとしたなどという濡れ衣をかけられていますし……」
「そんなの、忘れます!」
サンが即座に応えると、メイプルはにこりと笑った。
「まあ、潔白を信じていただいて嬉しいですわ。では将来に要らぬ紛争を生じぬためにも、一つ提案があるのですが……」
机から羊皮紙を取り出すと、さらさらとペンを走らせた。
書き終えると、見せつける。そこには執事をイオニア家へ譲渡する条件として、三条の文章が並んでいる。
ひとつは、執事から得た情報は、訴訟や商取引、交渉、施策などいかなる手段にも用いぬこと。ふたつ目は、マルケラ・プルケラが召使サン並びにアレクサンドラ・サロニコス・ペイライエウスへ危害を加えようとしたという風評は事実無根であるから、これには今後は一切触れぬこと。
そして最後の条には、こう書かれていた。
プルケラ家が継承した以前にペイライエウス家に属していた財産について、ペイライエウス家及びイオニア家は何ら関知しないこと。
「我が家の召使サンは、かつてペイライエウス氏族が有していた邸宅を含む財産権利の現状を認めていた。つまり我がプルケラ家がその権利財産を承継することを追認していたのです。よってペイライエウスの復権はないものと約束していただきたい」
メイプルは挑戦するような目つきで笑っている。どうやら「出来っこないだろう」という挑発らしい。
世に名を知らしめたいというのは、人間の正統な欲求だ。名声を高めて尊敬を集め、財を成して多くの人にかしずかれる。そうありたいと望むのが人間の本来の姿だ。
だとすれば、サンこそが異端なのかもしれない。サンには先祖伝来の名や権利を放棄することに何の抵抗もなかった。
「いいよ」
あっさりとした回答に驚いたのは、メイプルだけではなかった。ロクサーヌが吠えた。
「だめ! マルケラ・プルケラが存命の内は、現に保有している権利を維持することに異議を唱えぬ。しかし死後は知らぬ。それが譲歩できる最大限よ」
サンにはピンと来るものがあった。ロクサーヌがここまで反応するということは、きっと政局に関わるのだろう。
例えば、サンがペイライエウス家との後裔として知られた後にもメイプルがペイライエウス家のものであった財産や権利を占有し続ければ、四大貴族の後継者としての地位を得たと勘違いする者は現れる。イオニア家としては、それを認めるわけにはいかないのかもしれない。
魔王討伐に貢献した勇者メイプルの戦功に報いるため、一代限りで特権を認める。ただしその後は伝統を重んじよ。そういう意図を知らしめるためにも、譲れない一線なのだろう。
きっとそうだ。まさかサン個人のために、ただでさえ難しいこの交渉をこじらせるはずがないのだから。そんな考えでロクサーヌの背を見守っていると、交渉は思いもかけない方向に転がっていった。
「ロクサーヌ様が追加の条件を出されるのであれば、こちらも追加してよろしいですわね?」
「言ってごらんなさい」
「我が弟レオンナトスとイオニア家との婚姻を望みます。お相手はロクサーヌ様でいかがですか?」
ロクサーヌが息をのむ様子が、サンにもはっきりとわかった。
「もちろんお断りいただいても結構ですわ。その場合、今までの交渉の一切はなかったことに」
だめなら執事を殺す。
暗にそう宣言したのだ。
命の恩人である執事を失うのか。かけがえのない友人であるロクサーヌを売り渡すかのように嫁させるのか。どちらに転んでも、絶望だ。
「……ッ!」
ロクサーヌも歯噛みをしている。
(ど、どうしよう)
どちらも捨てることが出来ない二者択一を突き付けられ、答えが出ない。サンが戸惑ううちにも、優勢を確信したメイプルが畳み掛けてくる。
「ロクサーヌ様でも、妹様でも、どちらでも構いませんわよ。ただし、十年も先伸ばしにするとか、そういう四大貴族らしからぬ小細工はおやめくださいね」
イオニア家当主のニカルノには、長子であるロクサーヌのほかに女子が一人いる。だがまだ三歳でおしめも取れていない。当人の反発が大きかろうとも長子であるロクサーヌを得たほうが有利と見るか、幼子を手に入れて思いどおりに動かすか。どちらを取っても一長一短と見たのだろう。
「……」
沈黙していたロクサーヌがおもむろにペンを掴み、羊皮紙に流麗な文字を躍らせる。
「ロクサーヌ?!」
サンが止める間もなく、二つの条件が書き入れられた。特権を一代に制限するロクサーヌの主張と、メイプルが求めた婚姻に関する一文だ。
「イオニア家当主ニカルノの直系卑属とレオンナトスとが婚姻を結ぶものとする。期限は一年以内とする。これでいいわね?」
「ええ」
羊皮紙を受け取って精読したメイプルは、作り物ではない笑顔を浮かべた。イオニア家と婚姻による縁が出来るのだ。そして愛する弟の将来が約束される。そんな至極の果実を得たと酔いしれているのだろう。
「では、書面に署名をしなさい。万が一にも、違背の無いようにね」
ロクサーヌが捨て鉢に言うと、貪欲な魔女はさらに身を乗り出した。
「かしこまりました。念のため、一つの条件を追加していただけますか? 今後、ニカルノ様が養子を迎えたとしても、それは本件の対象ではないと」
何処かの娘を養子にとり、それをレオンナトスに嫁がせる。そんな逃げ道も塞ぎたいのだ。
「ふん、いいわよ。どうせお父様の養子縁組なんて、私がどうにかできるものではないしね」
「まあ、ご快諾いただき、本当にありがとうございますわ」
メイプルは満面の笑みで約した条項を羊皮紙にさらりと書き入れ、署名をする。そして恭しく羊皮紙とペンを捧げ持つと、主家の長女へと丁寧に手渡した。事情を知らぬ者が見れば、忠誠心に溢れる誠実な振る舞いに見えたことだろう。
寒々しい演技を一瞥すると、ロクサーヌは不貞腐れた表情で署名をした。
「これでいいんでしょ?」
「はい。では、近々、レオンの婚姻相手のご連絡をいただけると考えてもよろしいですか?」
「今、答えるわ」
その声に、敗北の響きは微塵もなかった。椅子に腰かけたまま胸を張って足を組み、ロクサーヌは勝ち誇ったように笑った。
「ドンナー・メギンギョルズ夫人!」
「は、はい。え? あ、あたしですか? え、なんで?」
ロクサーヌに呼ばれ、部屋の隅で息をひそめていたドンナーがあたふたとロクサーヌの前へと進み出る。
「私の娘になりなさい」
「へえっ?!」
「ロクサーヌ・バクトリアーナ・イオニアの養女として、レオンナトス・プルケラと結婚するの。いいわね?」
「ふええ……」
「返事は?」
「はいっ! わかりました!」
元気のよい返事をしたドンナーだが、腰を浮かしながら冷や汗をかいている。どこを切り取って見ても「なんで? ほんとに?」という疑問と戸惑いの気配しかない。
そんなドンナーを蹴り飛ばして、メイプルが立ち上がった。
「お、お待ちください! このあばずれがレオンの結婚相手だなんて、そんな……」
「でも、約束のとおりじゃなくて? 私の娘であれば、ニカルノの直系卑属であることは間違いないわね。そしてニカルノの養女でもない」
「ですが、ロクサーヌ様か妹様を想定しての約束でございます!」
「明文化されていない事情を忖度するのではなく、書面の内容をそのまま受け取るべきではなくて? あら、これはついさっきのあなたの言葉じゃないかしら?」
「ぐ……ぬぬ……」
メイプルは歯が抜けそうなほどに歯ぎしりをしている。悔しい、悔しい、悔しい。そんな心の声が聞こえてくるようだ。哀れであるし、怖くもある。
だがロクサーヌは平然と追い打ちをかける。
「それで? 感謝の言葉は? あなたの弟の縁談をまとめてあげたのだけれど? 新興の成り上がり者は“ありがとうございます”という言葉も使えないのかしら」
余裕の笑みだ。
メイプルが右を見た。執事がいる。考えの読めぬ無表情だが、少なくともメイプルのために能動的に動く気配はない。
次に左を見た。ニレハがいる。このやり取りを全て見ているのだ。彼女がいる限り、誤魔化すことなどできない。
その後も、約束を記した羊皮紙やドンナー、サンなどを次々と見る。色々な感情と考えがめぐっているのだろう。この羊皮紙を燃やしてしまえば……目撃者たちを亡き者にしてしまえば……。どれも現実的ではない。ここから武力に訴えるなら、メイプルの信頼は、政治生命は、貴族としての立場は、完全に失われる。
最後には観念して口を開いた。
「あ、あ、ありがとうざいます、ロクサーヌ様」
震えながらも笑顔を作る。その目には涙がたまっている。涙をこらえた屈従の謝意を、ロクサーヌは「ふん」とあしらった。
「それにつけても、屈辱だわ。こんなどこの馬の骨とも知れない新興貴族を抑えるために倍も年の違う養子を迎えるなんて、激甚な屈辱だわ」
吐き捨てるように言うと、サンと向き合った。その顔には、先ほどまでの自信はない。悪戯が知られた子供のように、震えている。
「ごめんなさい、アレクサンドラ。私、あなたの許しも得ないまま、子持ちになっちゃったわ」
「え? う、うん」
「でも大丈夫よね。私たちなら」
「ええ? うん。ううん?」
よく分からない言葉を咀嚼していると、執事がとぼとぼと歩み寄ってきた。
「こんな私のこと気にかけ、心を砕いていただきありがとうございます。サン嬢は、いえ、アレクサンドラ様は命の恩人です」
「あ、いえ、気にしないでください。命の恩人なのはお互い様ですし」
「気にします。気にさせていただきたい」
「えっと、執事さんのご家族とかは大丈夫なんですか? 安全なところにいられるよう、ニレハさんかロクサーヌにお願いしてみます」
「ありがとうございます。では妻をお願いします。息子は東方藩王国へ出向しておりますので、問題はないかと」
執事はサンの足元に膝を突いて座ると首を垂れた。
「このマリウス・コルネリウスの全てを以て、アレクサンドラ様にお仕え申し上げます」
新生ペイライエウス家が動き出した瞬間である。
サンを囲む感情のグランドクロスが完成したところで南国旅行です。
チトス(愛情)
↓
メイプル(憎悪)→ アレクサンドラ ←ニレハ(友情)
↑
ロクサーヌ(激重狂信偏愛異常妄執好好好)




