復讐
――強い。
隼人の胸中から戸惑いは消えていた。なぜ戦うのかという愚問は、もう頭に無い。
隼人は今、自分が笑っているだろうと感じていた。口の端が持ち上がり、目元がゆるむ。
王太子であるとか勇者であるとか、出自が良いとか悪いとか、世間体も見栄も恥も、一切を忘れて、剣にすべてを預けて、無我の境地に至ることが出来る。
隼人の全身を得も言われぬ感情が包む。それは悦びだった。
黒鹿毛が心身ともに強い男であると知っていた。だがこれほどの武術を修めているとは、想像が及んでいなかった。
勇者である皇女も強かったが、それとは性質が違う。皇女などと比べると、腕力も魔力も遥かに劣る。だが研ぎ澄まされた槍術には一分の隙も無い。
距離の詰め方、間合いのはかり方、視線の配り方まで、全てが隼人に並ぶ技量だ。惜しむらくは身体能力だ。速さと力強さが全く足りていない。にもかかわらず、槍さばきの巧みさから、互角の応酬が続いている。
「炎木」
圧倒的な数の斬撃で槍を圧倒し距離を詰めると、連撃に耐えかねた黒鹿毛がずるずると下がっていく。だが黒鹿毛はすぐに適応した。どこからか取り出した短剣を手に、距離を詰めてきたのだ。刀より近い間合いで炎木の斬撃をいなし、あるいはすかし、間を縫って急所を狙った刺突を繰り出してくる。
――強い。
致命の一撃を防ぎつつ刀の間合いに戻すために距離を取ると、黒鹿毛はさらに距離を取って槍の間合いとした。詰めれば刀に不利な短剣の距離になるし、離れれば刀の届かぬ槍の世界になる。そして短剣も槍も、達人の巧みさだ。内心で大いに舌を巻いた。
――だが、勝つのは己だ。
隼人は全力の一歩を踏み出した。
「新月」
秘剣三の太刀“新月”は、新月が如く見る事能わず。神速の一太刀は、剣閃を目で捉えることが出来ない。川に映る月を切り裂く修練を重ね、ついに水面を揺らすことなく月を両断した。水に、自らが斬られたことを悟らせぬほどの斬撃を身に着けたのだ。
その秘剣を使う。
先ほどの佐々木との試合で見せた新月は、少しの加減が入った言わば紛い物だった。不可視の速さに木剣ごときが耐えられるはずがない。全力で振れば途中で手元から折れて砕ける。そうならぬように気を配った。
今、隼人は真剣を握っている。今度の新月は、本物だ。
隼人が音を置き去る速さで疾駆する。そして駆け抜け様、黒鹿毛の胴を薙ぐ。振り抜かれた愛刀の包比良が、光すらも置き去りにして、人々の目から消えた。
ジイィン。
空間を裂いたかのような斬音と共に、黒鹿毛が宙を舞う。そのまま受け身も取れずにどさりと白砂に落ちた。真っ白な地面に、じわりと赤が広がる。
だが黒鹿毛はすぐに立ち上がった。
左腕の創傷から血が滴っているが、致命ではない。足元には切っ先から石突まで縦に両断された槍と、根元で折れた短剣が転がっている。不可視の斬撃を、寸分たがわぬ槍さばき、短剣さばきで受けきったのだ。
「さあ、続けよう」
既に別の短槍と短剣を取り出し、構えている。呼吸の一つも間違えば死んでいたというのに、わずかの動揺も見られない。
もし神威の宿る聖槍であったなら、もし魔力を秘めた邪剣だったなら、もしあとわずかの腕力があったならば……いずれか一つでも叶っていたなら新月すら克服しただろう。
――強い。
次は黒鹿毛が先に動いた。どこからか次々と短剣を取り出して投擲してくる。
それらを弾きながら暗器の使い手だったのかと観察するが、どうも違う。やはり盗賊の勇者が使った技と似ている。その鋭い投擲や、投げる際に指を揃える癖などは瓜二つだ。それに既に弾き飛ばして地面に散らばった短剣の数は二十を超える。これほどの数を隠し持てるはずがない。やはり盗賊の技だ。
しかしなぜ王太子の身分にある者が、そのような技を使うのか。なぜ写したようにそっくりなのか。次々と疑念が浮かぶが、深く考えている余裕は無かった。
――おかしい。
隼人は混乱していた。短剣を弾くたびに、黒鹿毛と打ち合うたびに、彼の動きが鋭くなる。一方の自分はと言えば、穴の開いた風船のように、活力が抜けていく。まるで少しずつ魂を奪われているかのようだ。
早朝の般若面との決闘も、天覧試合での十五連戦も、影響はないはずだ。少なくとも、それらの疲労は体に残っていない。だのに四肢が重い。こうして一太刀振るう間にもずるずると気怠くなっていく。
何が起きているのか分からない。分からないが――。
――全力だ。
三日月は躱された。炎木も対応された。新月すらあの少年を倒せなかった。そして今、正体不明の脱力が続いている。これ以上の時間をかければ不利になろう。ならばもう、全力だ。
「全の太刀、望月」
夜空に浮かぶ満月に、欠けたるところはない。隼人の持つ一切を、欠くことなくすべて剣に乗せるのだ。
不可視の神速である新月が、三日月のごとく変幻自在に剣筋を変え、なおかつ炎木のごとく無限に降り注ぎ、そのすべてに戦士の勇者固有の技である必殺が宿っている。
これを受けて倒れなかった相手はいない。皇女の決闘では使う前に終わってしまったが、もしその機会があれば間違いなく勝てたと確信している。
その望月を使った。
見えぬ斬撃が、軌道を変えつつ縦横無尽に、絶え間なく襲いかかる。だが黒鹿毛は見事に対応した。十の斬撃を躱し、二十の斬撃を防いだ。しかし受けるたびに短剣は弾け飛び、槍はその手を離れる。斬撃の数が百を超え、二百に達しようというところで、限界が訪れた。
首筋に迫る包比良を短剣で受けた時、加減をほんのひと匙分、誤ったのだろう。短剣が砕け散り、半歩後ろに下がった。たったそれだけだが、十分だった。刹那の隙を見せた黒鹿毛に、無数の斬撃が襲いかかる。
隼人の刃が黒鹿毛の右手を斬り裂き、わき腹を斬り、太ももをえぐった。無数の斬撃を受けて血しぶきを上げた黒鹿毛は、一瞬の間をおいて、倒れた。望月を使い始めてから、わずかに二秒ほどの間の出来事である。
「良き、勝負にござった」
必殺を使った。間違いなく死んでいるはずだ。地に伏し動く気配のない黒鹿毛に一礼すると、隼人は刀を一振りして血を払った。
その時である。
背後に微かな風切音を聞いた。反射的に振った刀が打ち落としたのは、短剣だった。
――どこから?
殺気の様なものは無かった。投擲した者も見当たらない。弾いた短剣を見れば、先ほど黒鹿毛が無数に投擲した物の一つだ。
「一体これは……」
答えは後ろから来た。灼熱の如き痛撃が背からわき腹に走った。何事が起きたのかと取り乱したりはしない。痛みは無視して振り向きざまに剣を振ると、短剣を持った黒鹿毛が飛び退いた。血にまみれた体だが、確かな視線で隼人を捉えている。
なぜ必殺を受けて生きているのか。疑問はあれど、やることは変わらない。死なぬなら、死ぬまで斬る。
隼人の踏み込みと黒鹿毛の跳躍とは、同時だった。だが攻撃は僅かに隼人が速い。
――これで終いだ。
二尺七寸の豪刀が黒鹿毛の首を刎ねる。その間際、短剣が隼人の右腕に突き刺さった。一つではない。どこからか飛来した十を超える短剣が、肘、肩、手首を的確に貫いている。刀を振り抜こうとしても、骨や筋に短剣が食い込んで動かない。
「くっ……」
刀を左の片腕に持ち替えて振るが、短剣の雨は止まらない。まるで狩人の勇者が使った神弓のごとく、隼人を狙って逃がさない。肘、膝、首筋などを的確に切り裂いていく。そして間隙をついて黒鹿毛の槍が隼人の右目を抉った。
狭まる視界と激痛の中、四方から迫る短剣の嵐と、黒い疾風のごとく迫る黒鹿毛を見た。
――敗北。
その言葉が、脳裏をよぎる。
そして大きく振り上げた黒鹿毛の短槍が、隼人の腹から胸にかけて切り裂いた。仰向けに倒れ行く隼人に、短剣が次々と突き刺さる。倒れ込んだ拍子に、一瞬だが意識が遠のく。
「勝負、あったね」
背を地につけ、天を仰いだ隼人の鼻先に、槍の穂先が突き付けられた。ぴたりと槍を向ける黒鹿毛は、満身創痍ながらもしっかりとした口調で言った。
「あ……」
負けたのか。
その実感がじわりじわりと身を包む。今の今まで全力で剣を振っていたというのに、手足の先が冷たくなっていく。体の重さも怪我の痛みも、全てを忘れるほどの絶望だ。
――高久様に、顔向けができない。
先ほどまでは得意の絶頂だった。般若面を討伐し、天覧試合に乱れ入りし、勝利の栄光を主君に捧げた。そのすぐ後にこれだというのか。
帝の前で、居並ぶ公家や武家の眼前で、完膚なきまでに負けた。
決闘の内容こそ、濃厚で充実したものだった。だがそれが何だというのだ。己は負けたのだ。これ以上ないくらい絶望の底にいる気分だ。このまま石にでもなって、永久に川底でも転がっていたい。そんな隼人の嘆きは、黒鹿毛の一言でひっくり返る。
「ところでこれ、懐から落ちましたよ」
黒鹿毛は、手のひらに収まるくらいの布の包みを持っている。そしておもむろにそれを開いて中の物を取り出す。
ぞっとした。
「待っ……」
黒鹿毛が掲げ持つ平打ちのかんざしには、桐の木が描かれていた。桐生家の家紋だ。激しく反応したのは、桐生六郎だった。
蒼白な顔色で立ち上がり、歩み寄って来る。
「それを、どこで?」
細く開かれた目が、温度を感じさせない視線でこちらを見つめている。
「ぐ、偶然に拾ったもので……」
「嘘を言ったな」
断言された。その短い言葉に、六郎の万感がこもっている。まるで隼人の嘘は全て見透かしていると言わんばかりに、鋭い眼光でこちらを見ている。
虚言は通用しない。それは分かっている。だが、真実を話すわけにはいかない。
だって、話せるわけがないのだ。般若面の犠牲になった女性を見かけ、成り行きでかんざしを受け取ってしまったなどと、話せるわけがない。それはつまり、楡葉に一目で心を奪われたことを、時折楡葉を盗み見ていたことを話すということなのだ。
無理だ。
高久が、楡葉が、八幡宮に満々と詰めかけている群衆がいる。ここで恥をさらすなど、出来るわけがない。
地を這い、砂を掴みながら、あたりを見回す。皆の目がこちらに向いている。十把一絡げの有象無象の視線すら、刺さるように痛い。高久の視線など、想像するだけで震える。絶対に目を向けられない。だが縋る相手はいない。八衛門だろうと楡葉だろうと、隼人の味方はすまい。
いや、そうか。
隼人は気づいた。留香を斬ったと知られれば、それも隼人を追い詰めるのだ。いくら般若面と言えど、八衛門にとっては娘だ。悪しき依怙贔屓をする古狸にとって、娘の行いが何であれ、それを斬った隼人を非難するだろう。親しくしていた上臈を斬ったことで、楡葉からも軽蔑されるかもしれない。
――そんなのは、嫌だ。怖い。恥だ。絶対に、嫌なのだ。
目の前に、短刀が落ちていた。高久から授けられたばかりの短刀だ。それが目に入った瞬間、隼人の心は決まった。いや、弱き心が、恥を避けて低きに流れ落ちたのだ。
――もはや、手段は一つしかない。
恩賜の短刀を掴むと、着物の上をはだけた。切腹だ。
見守る一同に、息を呑む気配がある。それがわずかに隼人の心を慰める。
戦士の勇者である隼人は、人知を超える体力を持つ。生命力の塊だ。腹に短刀を刺しただけでは死ぬまい。十文字に掻っ捌いても、まだ生きているだろう。だが必殺を使えば、事は早い。有無を言う間もなく、終わることが出来る。
「この腹、切ってお詫び申し上げる」
言うが早いか、必殺の気合で腹に短刀を突き立てた。鋭い痛みが腹部に走る。だが、死なない。
なぜだ。必殺はどうしたのだ。そういえば、必殺で斬ったはずの黒鹿毛は生きていた。まさか、必殺が失われたというのか。
混乱する隼人の後ろに、影が差した。
「佐津間には、介錯という作法があるそうだね」
ぞっとするほどに冷たい声が聞こえた。黒鹿毛だ。その手には隼人の愛刀が握られている。
「僕が情けをあげるよ」
隼人の横に立ち、刀を振り上げる。その刀に不可思議な力が込められていると、隼人には分かった。その正体が、隼人には分かってしまった。必殺の力だ。
「盗賊の勇者クロカゲが、サツマ・ハヤトに復讐を果たす」
隼人は、振り下ろされた刀の気配を首筋に感じた。そこで隼人の意識は、いや佐津間隼人の全ては、失われた。




