東方平原
銀月帝国の帝都は、人口百万人を超える巨大都市だ。この帝都を発して東へしばらく旅すると、東方平原の西端である銀月川にぶつかる。
北方の山脈から流れ出でる川で、ここが帝国領と東方平原の境だ。川には、下に曲線的な開口部を持つ大きな石橋が架かっており、これを渡れば広大な草原が広がっている。
東方平原では、遊牧や狩猟を生業とするいくつもの氏族が同盟し、盟主の采配のもとで牧畜や交易を行っている。交易から得られる富、そして遊牧民特有の武力を背景に、帝国に併呑されること無く独立を保っているのだ。
多くの部族はヒツジやヤギ、馬、牛などを飼い、肉や乳を得て暮らしているが、水を得られる一部の地域では麦や蕎麦なども栽培され、町を作り定住する者達もいる。東国と帝国を繋ぐ交易の拠点として栄える町もある。
平原に散在する町の中で最も大きい都市が、大都ジンドゥだ。東方五氏族同盟の盟主が交易で莫大な財産を築き、それを惜しみなくつぎ込んで豪奢な大都市を作り上げたのだ。井戸を掘り、遠くの山脈から水路を引き入れている。街道を整備し、交易の商隊が列をなし、水と食べ物が溢れている。郊外の馬屋には馬があふれ、蹄鉄屋だけでも何百人もいる。
交易の最盛期には三十万人を超える人間が滞在する。
大都ジンドゥは、大陸の重要交易拠点であり、東方平原の政治の中心でもある。
その大都ジンドゥの盟主邸にある来客用天幕の中で、盗賊の勇者クロカゲは静かに座っていた。
盟主の謁見を待つための控えの間には、クロカゲとは別に、さらに二つの人影がある。その一人である父キンメルの不機嫌が、クロカゲには怖かった。
「長いな。カ・エルの謁見はいつまで続くのだ」
キンメルが不満を隠さずにつぶやくと、それだけでクロカゲは畏怖し、黙ってうつむいた。そんなクロカゲを見て、キンメルはいら立ちを募らせる。
「大体、順番が違うだろう。なぜ我らよりカ・エルが先に盟主殿へ拝謁するのだ。魔王を倒したのは、お前の力なのだろう。ならば我らクォン族が遇されてしかるべきだ」
「そうだけど……頑張ったのは、僕だけじゃないから」
「だが、お前がいなければ成し得なかったのは間違いない。世間では勇者ユユばかりがもてはやされているが、お前がいなければ勇者の一撃とて意味をなさなかった。功労第一はクロカゲ、お前のはずだ。もっと胸を張って主張しろ。もう弱虫だ、臆病者だと言わせるな」
この東方平原に暮らす氏族の中でも、特に質実剛健で知られるクォン族の族長である父は、武張った生き方しか知らない。息子のクロカゲに対しても、厳しい態度しか見せない。
なおも不満を漏らす父から目を逸らし、こっそりとため息を吐いた。クロカゲは、父のこういうところが怖いし、苦手でもある。
膝に置いた手に力を込めてじっとこらえていると、横からそっと手を重ねられた。
柔らかい手のぬくもりに、心が安らぐ。
「ありがとう、アサギ。大丈夫だよ」
クロカゲが、隣に座る少女を見て微笑む。するとアサギは、黙って手を引いた。
このクロカゲの一つ年下の従妹は、控えめな性格ながらいつもクロカゲの力になろうと振る舞ってくれる。それだけで、自分には少なくとも一人の味方がいるのだ、とクロカゲは安心することができた。
「クロカゲ、お前は良い婚約者を持ったな。帝都から戻ったら祝言だ。良き夫となれるよう精進しろ」
キンメルは、二人の様子を見てこぼれそうになる笑みを、小言を口にすることでこらえた。
室内の優しい空気を追い出すように、おもむろに木戸が開けられた。
入って来たのは、花の香りを漂わせる色男だった。東方五氏族の一つであるシカ族の族長であり、狩人の勇者でもあるカ・エルだ。
配下らしき女戦士を連れている。盟主の邸内であるというのに、まるで緊張した様子がない。自慢の高い鼻をこすりながら口元に笑みをたたえ、自室でくつろいでいるかのように落ち着き払って口を開いた。
「やあ、キンメル殿。研ぎ澄まされた槍のような気配だ。相変わらず鍛錬されているな」
「当たり前だ。弓馬と槍を怠る者に、東方平原で生きる資格はない」
「なるほど、けだしそのとおりだ。俺もたまには鍛錬しようかなぁ」
「……盟主殿とは随分と話が弾んだようだな」
キンメルがじろりと睨むが、カ・エルは飄々と笑っている。
「ああ、良い話をたくさんもらったよ。銀月帝国の皇帝から魔王討伐の褒美がもらえる。領地を増やせそうだ。それに皇族との縁談もだ」
「ほう」
「シカ族の領地は、ざっと見積もって五倍になる! シカ族は実務肌の郎党が少ないから忙しくなるなぁ」
「なんと、それほどの……っ!」
キンメルが目を見開くと、カ・エルが笑みをこらえきれない様子で羊皮紙を見せつける。
「皇帝ガイウス直筆の書状だ、間違いない。実は、前々から帝都と直接交渉していたんだよ。盟主様に連絡があった後からじゃあ、褒美の内容をひっくり返すのは難しいだろうからな。ま、俺のココが優れていたってわけさ。はっはっ」
カ・エルが自分の頭をつつきながら自慢げに笑うと、今度はクロカゲを見た。
「よお、クロカゲ。久しぶりだな、元気にしてたか?」
「はい。カ・エル様も変わらず壮健のようで」
「そう見える? これでもようやく怪我が治って疲労が抜けたんだぜ。いやぁ大変だったよな、魔王討伐。でも皇帝からの褒賞がたっぷり貰えるんだ、報われるってもんだよな。俺は先に帝都に向かうから、あっちで酒でも飲もうぜ。良ければアサギちゃんも一緒に」
「いえ、私は……」
アサギがクロカゲの後ろに隠れると、カ・エルは「仲の良いことで」と口笛を吹きながら部屋を出て行った。
閉められた扉を睨みながら、キンメルが呟く。
「あの男は好かん。いつも女を連れて、東方平原の男らしくない浮ついた格好をし、軽薄に振る舞う。帝都にかぶれたのか香油まで付けている始末だ。まったく気に食わん。だが……」
キンメルはそこで言い淀み、少し迷った後に続けた。
「だが……強い戦士だ」
クロカゲは黙って頷いた。
それから間を置かずに呼びこまれ、クロカゲらは謁見の間に入り盟主の前に跪いた。
「顔を上げて良いぞ。クォン族長キンメル、そして勇者クロカゲ。よく来た」
クロカゲが顔を上げると、盟主アイセン・カアンが牛革を張った杉材の椅子に座っていた。
荒くれ者が多い東方諸氏族を束ねる長となると、多くの人は剛腕豪傑の巨漢を思い浮かべる。だが、そういう想像をしていた者は、実際にアイセンに対面し、彼女が美しい黒髪の若い女性だと知ると周章狼狽する。
正絹をふんだんに使った豪華な白い衣服は、緻密な刺繍で埋め尽くされている。黒く輝く長髪は艶やかで、よく手入れがされていると一目でわかる。乾いた草原の風に当てられてボサボサの頭になっているクロカゲやアサギとは、髪の毛一本から違うのだ。
あまりの違いに恥じたのか、アサギが自分の髪を手で押さえている。強い風が吹く東方平原では、髪の乱れなどは仕方がないことだ。
盟主アイセンはクロカゲより年長だが、そう年は離れてはいないはずだ。だが盟主として東方平原を支配する彼女の貫禄に、クロカゲは向かい合っているだけで気圧されてしまう。
「クォン族頭領キンメル、嫡男のクロカゲを連れて参上いたしました。盟主アイセン殿におかれましては、ご機嫌麗しゅう……」
「世辞はよい。お前の柄ではないだろう」
アイセンは、さわやかな声で本題に入った。
「帝国から早馬が来てな。魔王討伐の報奨付与があるそうだ。すぐに帝都を訪れろと言ってきている。随分と急だが、それなりの報奨を得られるはずだ。悪い話ではあるまい」
「はっ。ありがたいお話でございます。して、帝都からの知らせはどのような?」
「報奨として金銭財物の授受があるそうだ」
「……それだけで?」
「カ・エルから話を聞いたか?」
険のある返答をするキンメルを、アイセンは水晶のように鋭く輝く目で見据えた。
「シカ族と比べて見劣りすると感じたかもしれないが、実のところそうでもない。シカ族は領地付与といっても、まだ場所も指定されていない。どこぞの辺境かもしれん。荒地など手に入れても、どうしようもあるまい」
「確かに仰るとおりではありますが……」
「不満か」
アイセンが低く鋭く言い放つ。
キンメルは黙ったまま、身じろぎもしない。
そのまましばらく沈黙が続いた。
クロカゲの頬を、冷や汗が伝う。
(僕が何か言うべきか? でも……どちらに味方して、何を言う?)
父を諫めるか、盟主へ進言するか。
道理で言えば、盟主に逆らうものではない。けれど父の不満も理解できる。東方平原の暮らしは、楽ではない。クォン氏族の繁栄を思えば少しでも多くのものを得たいのだろう。
クロカゲが答えを出せないうちに、アイセンが口を開く。
「カ・エルは東方五氏族同盟の盟主たる私を差し置いて、帝国と直接の交渉を持った。そのうえ、帝国から領地を得ようとしている。これは筋が違う。分かるな?」
「無論ございます」
「われら東方平原に住まう諸氏族は、先祖伝来、血を吐く思いをしながら、帝国から独立した地位を守ってきた。しかるにシカ族は、我らの盟友でありながらも帝国の臣下としての地位も得ようとしている。本来なら、許されるものではない」
「……確かに、カ・エルの振る舞いはそうとも取れますな」
「クォン族がそんな恥知らずではないと信じているぞ」
「……」
答えないキンメルに対して、アイセンは歯切れよく明快に言い放つ。
「すぐに帝都へ向かえ。これはクォン族長キンメル及び勇者クロカゲに対し、東方五氏族同盟主アイセン・カアンの名で発する命令だ」
「畏まりました」
「ところで、そちらの娘は?」
アイセンがアサギを見ると、アサギはもともと縮こまっていた体をますます小さくする。
「愚息の婚約者でクォン族の娘アサギと申します。もともと従妹で幼馴染でしたが、魔王討伐の功績を契機に、婚約者としました。祝言は帝都から帰ってからになるでしょう」
「それは良い。アサギも帝都へ同道してはどうか。旅費は私が出そう。クォン族の次期族長の妻として、ぜひ見聞を広めてほしいものだ」
「それは……有難く存じます」
キンメルが頭を下げると、アサギも「あ……ありがとうございます」と深く頭を下げた。
盟主の前から退出したクロカゲ達は、すぐに帝都へ向けて出立する準備に取り掛かった。