潜入
藩都ジンドゥの城壁の上からは、早朝の草原を駆ける弓騎兵隊がよく見えた。
(三千くらいかな。カ・エルは……いない)
遠ざかる騎馬隊を見送ると、クロカゲは城壁から音も無く飛び降り、大通りの雑踏に紛れ込んだ。
(ここまではあの人の想定どおりだ。すごいな)
クロカゲが藩都ジンドゥを進発する軍を見るのは、三度目だ。
一度目は、カ・エル自身が、弓王の親衛隊一万に諸氏族から徴兵した二万を加えた軍を率い、神弓の矢も仕込んでの出立だった。
それもそのはずだ。
――アイセン・カアンが帰還した。
その電撃的な報せがジンドゥに飛び込んできたのだ。カ・エルは万全の構えで戦いに挑んだのだろう。しかしそれは虚報となった。
アイセンが兵を集めているとされた平原の北方には、宿営の跡が残るだけで、人ひとり残っていなかった。放棄された天幕やかまどの跡は、三千人程度はいたと推測できる規模だった。
だが、カ・エルはそこでの欺瞞工作を見抜いた。
よく見れば、かまどのすべてが使われているという様子でもないし、馬の足跡は僅かに百程度である。この東方平原で急を要する際に、兵より馬の方が少ないはずがない。恐らくカ・エルに不満を抱く小勢が、動揺を誘うためにアイセンを騙り、それなりの軍がいたと見せかけるつもりだったのだろう。
そう結論付けた。
二度目は、カ・エルが率いているものの、兵数は一万に減っていた。そして同じようにアイセンが現れたとされる地には、工作された宿営の跡が残るだけだった。
そして今回だ。
カ・エルは、アイセンの帰還と挙兵という報せに慣れ、飽きている。完全に、アイセンの手のひらの上だ。あの黒髪の少女は、華奢な体のどこにこんな智謀を隠しているというのか。クロカゲは、恐ろしくもある。
そんな考えに気を取られていたせいか、道行く人と肩がぶつかりそうになった。
「おっと、ごめんよ」
「いえ、すみません」
恐らくジュチ族の商人だろう。たくさんの荷物を背負わせたロバを引きながら、忙しそうに歩いていく。通りはたくさんの人であふれている。あっという間に人波の向こうに見えなくなった。
大通りは石畳が敷かれ、商家や飲食店などが軒を連ねている。そのどれもが客であふれていて、ひっきりなしに人が出入りしている。
弓王カ・エルの治める藩都ジンドゥは、大いに賑わいを見せていた。商人の往来は、以前より多くなっているともいう。
特に西方からの人の流れが増えたそうだ。
銀月帝国からの商人が増え、土木技術者や鍛冶職人、芸術家なども移住しつつある。帝国の版図となったことで、帝国民が安心して訪れることが出来るようになったのだろう。
これは、弓王カ・エルの治世方針によるところも大きい。
帝国の文化を積極的に受け入れるのだ。職人や技術者を多く招き、帝国風の建物を導入する。葡萄酒をはじめとする食物や絵画、彫刻などを次々に輸入する。音楽家や役者を頻繁に招き、惜しげもなく報酬を与える。
その姿勢に好感を持った帝国民や、商機を見出した商人、名を売る機会につなげたい駆け出しの芸術家などが、我先にと訪れたのだ。
さらにカ・エルは、帝国と藩都ジンドゥの間の街道の整備にも力を入れている。道幅を広げ、宿を増やし、哨戒の兵を走らせる。これで旅人の安心と快適さは、大きく変わる。交易隊の数が増え、扱う品の量が増え、動く金の額も桁が上がる。
こういったところからもカ・エルの動きを歓迎する向きは、案外と多いと分かってくる。
しかしこれらの施策には、莫大な金がかかる。どこから調達したのかといえば、大きく二つある。
一つは東方平原内の改革だ。
銀月帝国に対抗するために備えられた砦を放棄し、各部族に課せられた軍役も免ずる。その代わりに、金銭での納税を義務付けた。そうして得た金で、帝国との交易に投資していく。
そして二つ目は、かつて東方平原を治めていた五氏族同盟としての財産だ。
アイセンが質素倹約に励み、銀月帝国との戦いに備えていた蓄えは、カ・エルの奢侈に消えつつある。
これらは、カ・エルにしか出来ない治め方だ。皇帝ガイウスとの暗い密約があればこそ、帝国の侵攻が無いと割り切れる。そしていざとなれば帝国軍の長槍隊など、神弓で蹴散らしてやろうという思惑もあるのかもしれない。
いずれにしろ、五年後、十年後を考えた施策ではないし、自分の亡きあと、後代に引き継げる方法でもない。
だが少なくとも、今現在のジンドゥは賑わっていた。街自体も作り替えられている。石畳の通りが増え、闘技場が作られ、劇場も新造予定だ。多くの興行が街に盛況を運んでいる。
(一度、戻るか)
クロカゲは、街の北東に足を向けた。
この藩都ジンドゥに、クロカゲは二人で潜入していた。商家が連なる一角に、小さな一軒家がある。この隙間風すら入りそうな寂れた二階建てが、クロカゲ達の隠れ家だ。
扉を開けると、よい匂いが漂ってきた。炊きたての白米と炙り肉の香ばしい香りだ。
「おかえり。ちょうどご飯の支度ができたところだ。豪華だぞ」
アイセンが美しい黒髪を後で束ねて、ご飯をよそっている。そんな姿を想像したのは、先程まで彼女のことを考えていたからかもしれない。
実際には、太い腹を揺するゼ・ノパスが、椀を卓の上にドンと置いただけだ。湯気を上げる米の上に、魚醤を付けて焼いた鳥肉がどっさりと乗っている。
「出来立てを持ってきてもらった。美味いぞ」
ゼ・ノパスは、すでに米をかきこんでいる。クロカゲは黙って向かいに座ると、椀に手を伸ばした。
「おい、飯の時くらい、その恰好は何とかならんのか」
不満そうなゼ・ノパスが指さすのは、クロカゲの顔だ。浅黒い肌と色の薄い髪の毛は、どう見てもフラグ族の少年だ。
「ああ……」
今更気付いたクロカゲが“偽装”を解くと、黒目黒髪のクロカゲに戻る。
偽装は盗賊職固有のスキルだ。ちょっとした感覚の錯誤を引き起こすことで、ごまかしたり不意を突いたりすることが出来る。これが勇者級の盗賊なれば、外見を完全に変えることも可能となる。
もちろん完璧ではない。同じく勇者級の職にある者であれば、看破することは不可能ではない。ユユやカ・エルなどと相対しても正体を見抜かれぬようにするには、複数の勇者の力が必要になる。
魔王討伐の旅の中で、狩人のスキルである“隠蔽”の力を借りることで、クロカゲの気配を完全に消し、“偽装”で他人になりきることもあった。あるいは、神官の強化を受けることもあった。
そうなれば、ガイウスの眼を以てしても見抜けず、魔王軍の幹部を奇襲する事にも成功したものだった。
「相変わらず凄いもんだなあ、盗賊の勇者ってのは」
「そう……ですかね」
ゼ・ノパスの感嘆を受け流したクロカゲは、黙々と米をかみしめた。炊き立ての白米は、驚くほどに美味しい。
「美味いだろ? 新しい協力者を得られたんだ。三軒先の商家の娘でな、今は別の大店に嫁いでいるはずなんだが、ちょうどよく実家に寄ったところを捕まえられたんだ。食事や情報を融通してくれる手はずになった」
「……大丈夫な人ですか?」
「ああ、問題ない。昔、婚約していた娘だ。俺が手を怪我したから破談になったんだ」
クロカゲが黙っていると、ゼ・ノパスがふんと鼻を鳴らす。
「あれの父親が野心家だからな。俺に武での栄達が無いとみるや、ジュチ族の商家に嫁がせることにしたのさ。その後に俺が正絹査官になったろう? そうしたら、娘を離縁させるから、あらためて婚姻をと言って来やがった。二人は仲が良かったのだから、簡単だろうとな」
その先はクロカゲにも想像が出来た。
「断ったよ。俺も娘も、その夫も、皆を馬鹿にしてるだろ? その親父の前で、椀に入れた酒を溢して言ったのさ。“この酒を元に戻せたならば、俺も縁を元に戻そう”ってな。恨み言を言いながら帰っていったさ」
ゼ・ノパスはさっぱりと笑いながら言う。
「そんなわけで、その娘は大丈夫だ。同じ敵と戦った同士みたいなもんだからな。まあ、お前が信頼できるかどうかっていうなら、難しいだろうけどな……。そんな奴、一人もいないだろ」
ゼ・ノパスはそう言って肩をすくめると、てきぱきと食事の片づけを済まして白紙の羊皮紙を広げた。
「で、様子はどうだった」
問われるままに、出撃していった兵やジンドゥの様子を話していく。ゼ・ノパスは、それを逐一書き留め、必要があれば私見も書き込んでいく。こうして得た情報は、フラグ族の下にいるアイセンへと運ばれる。
「とうとうカ・エルがジンドゥに留まるようになったか。これならば大劇場の落成式典に合わせての進軍も出来るかもしれん。上々の首尾だな」
ゼ・ノパスが悪い顔で笑っている。
「欲を言えばカ・エル自身の様子も知りたいところだが、まだ藩王邸への伝手が無いからなあ。次は官僚に浸透していくか」
このゼ・ノパスの言葉も、決して大言壮語ではない。この隠れ家を手配し、生活に必要な品々を調達しているのはゼ・ノパスだ。ジンドゥでは顔が知られているため、一切の外出をしていないにもかかわらず、知人や友人を通じて、秘密裏に物や情報を動かしている。
一筋縄ではいかないことは、クロカゲにもわかる。誰であれば、秘密を漏らさないだろうか。誰であれば、露見することなくやり遂げられるだろうか。それらを間違いなく分別した上で、カ・エルの勢力下でも正に膝元といえるジンドゥで、協力を取り付ける。
ジンドゥの官吏や経済界に精通しているゼ・ノパスならではの働きと言える。
「じゃあ、僕が藩王邸を見てます」
クロカゲが何でもないように言うと、途端にゼ・ノパスは目を細める。
「アイセン様の言葉を忘れたわけじゃないだろうな」
「……どうでしょうね」
アイセンが東方平原奪還ための打ち立てた目標は、二つある。一つは、会戦で勝利する事。もう一つは、カ・エルを倒す事。
会戦での勝利は、アイセンの帰還を東方平原に印象付けるために必要だという。実際のところ、カ・エルさえ排除すれば東方平原を掌握することは可能らしい。
だが、短期間で確実に事態を進めるため、決定的な示威を求めているそうだ。
カ・エルのいない軍勢であれば、十分に勝機を見出せる。
そのために幾度もアイセン軍襲来の誤報に触れさせることで、実際にアイセンが挙兵した際の対応を誤らせるのだという。
そして、軍勢が離れている隙を狙えば、カ・エルの暗殺も容易であるとの企みも含んでいるそうだ。
これらの構想を実現するためには、カ・エルを狙うクロカゲの存在を知られてはならない。ジンドゥでの潜伏の際には、絶対に見つからないようにしてほしい。
クロカゲは、アイセンからそう頼まれていた。
約束したわけではないし、命令を受けたわけでもない。アイセンがクロカゲにお願いをしているだけだという。そして、きっとアイセンの言葉を守ってくれると信じているという。
「もしアイセン様のお言葉に背くなら、容赦しないぞ」
ゼ・ノパスが低い声で言う。
「俺はアイセン様に忠誠を誓っていると言った。だがな、唯々諾々とするのが務めではないと考えている。諫言であろうと恐れずにするし、必要とあれば独断で行動もする。あの方がお前を庇護すると決めたとしても、必要があればその命令を破る……かもしれん」
クロカゲの目を見て、真っすぐに言う。そこに悪意も敵意も感じられない。
「僕を殺しますか?」
「いや、今はそのつもりはない。お前はカ・エルを殺せ。復讐を果たせ。俺が協力してやる。あいつを殺すことは、アイセン様のためになる。だが、それは今じゃない」
「……そう。それじゃあ、行ってきます」
隠れ家を出たクロカゲは、真っすぐに街の中心へと向かった。
弓王の私邸は、帝国風の豪華な石造建築だった。
かつて見た盟主の邸宅は、大きな天幕が連なるものだったが、その面影はない。質素で実用的だった大天幕は、彫刻やモザイク画で彩られた豪華な宮殿に変わっている。そして今も拡張の工事が続いている。
たったの四か月やそこらで、よくもそこまで自儘に振る舞えるものだと、あらためてカ・エルへの不快感が込み上げてくる。
苛立ちを抑えて、建物へと近づいた。
広い敷地は壁に囲まれており、大きく開かれた入口の門扉には衛兵が張り付いている。だが出入りする者は意外に多い。職務中の役人や見回りをする兵、陳情を持ち込む街の有力者、出入りの商人などが、衛兵の確認を受けながら邸宅に吸い込まれていく。
クロカゲはその人の流れに紛れて、敷地に入り込んだ。普通であれば不可能なこの動きも、盗賊であるクロカゲなら可能だ。
狩人は、自然の中に身を隠す術に長けている。気配を消し、完全に木や石と同化するのだ。いわば、無になれる。
一方の盗賊は、その場に紛れる技を得意とする。雑踏の中、町の中、人々の息遣いに隠れるのだ。
そうして入り込んだ後は、人の流れからするりと抜け出る。幸いにも、敷地内には身を隠す場所が多くある。庭には草木が見映えよく植えられているし、大きな彫刻が置かれていたりもする。腰よりも高い植木の影を中腰で走り、奥へと進んでいくと、ところどころで窓などから話し声が漏れ聞こえる。
「またアイセンが出たらしいぞ」
「三回目だな」
「どうせ逃げ出したカアン族の悪あがきだろ」
そんな会話を聞きながら、さらに奥へと入り込んだ。カ・エルの気配は無い。
すると水堀が現れた。これより先は、弓王の私的な居住区なのだと分かる。渡されている橋にも衛兵が見えた。
水堀は膝ほどの深さで、さらさらと流れている。水を綺麗に保ちたいのだろう。東方平原では貴重な水という資源を無為に流している。
この堀を超えれば、カ・エルとの距離も近づくはずだ。クロカゲの侵入が露見する可能性が、極めて大きくなる。
つまりここを超えるか否かが、アイセンの信頼を裏切るかどうかの分かれ道になる。
アイセンは言った。「決してカ・エルに見つかるようなことはしないで欲しい。頼む、君を信じているぞ」と、曇りのない目でクロカゲを見つめていた。
クロカゲは、それを思い出しながら呼吸を一つすると、迷わずに水堀を飛び越えた。




