目覚め
耳元から聞こえる水音に、クロカゲは意識を取り戻した。
まぶたが、まるで貼り付いたかのように動かない。
しばらく苦闘していると、ようやくうっすらと開いた。眩しい光に目が慣れると、鼻の先に水しぶきを上げる川面が見えてくる。真昼の日射しに、水が白く光っている。
どうやら自分は、川岸に倒れているらしい。クロカゲは、ぼんやりとそう考えた。
次は起き上がろうと、腕に力を込めてみた。だが、動かない。
体は今までにないほど気だるく、骨も肉も全部が泥になったかのようだ。
何度も繰り返し力を込めていると、ようやく指先が動き出した。それから長い時間をかけて、手首、肘、肩と少しずつ自由を取り戻していく。
上半身を起こしたときには、日が暮れかけていた。
夕焼けに赤く染まる渓谷を眺めながら、クロカゲは記憶を呼び起こす。
帝都で皇帝から反逆の汚名を着せられたこと。襲いかかってきたメイプルやビィル、ユユ、ハヤトのこと。
そして、カ・エル。
脳裏に次々と悪夢のような光景が明滅する。
焼き尽くされたクォン族のみんな、首のないキンメルの遺体、血を吐くアサギ……。
そして自分自身が殺される瞬間も、克明に思い出した。無数の矢に射ぬかれ、崩落する橋と共に銀月川に落ちたはずだ。
「なんで、僕は生きている……?」
まるで喉と舌が貼り付いているようで、まともに動かない。その呟きは川音よりも小さなものだった。
ゆっくりと自分の体を見下ろす。
衣服は、ぼろぼろだ。いたるところを矢で射貫かれたうえに、川に落ちたのだ。上着はほとんど原型を留めていない。ズボンに残るわずかな刺繍が、アサギの手によるものだとわかる。この小さな痕跡だけが、クロカゲの物であることを教えてくれている。
体のあちこちには、大きな傷痕が残っている。古傷のように見えるが、間違いなく殺されたときの矢傷だ。
特に胸の傷が酷い。
血こそ流れていないが、皮膚がズタズタに裂けた痕がある。指先で触れてみると、かさぶたが取れたばかりの治りかけの怪我のように、じくりと痛む。
左手にはしっかりと邪剣ベンズが握られていた。
生あるものに突き刺すと、刺した者が自らの意思で抜くか、刺された者が死なない限りは抜けないという呪われた邪悪な短剣だ。クロカゲの手から離れなかったのは、その呪いの影響だろうか。
右手には、傷痕以外は何もなかった。
父からもらった腕輪も無くなっていた。矢か橋の瓦礫でも当たって壊れてしまったのだろう。アサギにもらった一張羅も、焼け焦げた宿営地で拾ったみんなの遺品も、全て無くなっていた。
そうして失ったものを数えていると、身に染みるような切なさと悲しみが滲んでくる。
(一人になっちゃったよ。全部、なくなっちゃった……)
そんな思いをまぎらわすように立ち上がると、ふらふらと歩き出した。
川上に向けてゆっくりと歩を進めると、思いの外すぐに石造りの大きな橋が見えてきた。
クロカゲが破壊したはずの石橋は、既に修復されている。両岸に残る橋の瓦礫が、わずかに残る崩落の気配だ。クロカゲの身に起きたことが現実であるという証拠だ。
(もしかすると、けっこう時間が経っているのかも)
空には星が出始めている。北定の星を見つけ、星を辿る。夜のとばりが降り始めているのに、月が出ていない。鷲星が高いし、琴星も見える。これは秋の空だ。
帝都に足を運んだのは、七月だった。三か月ほどが過ぎていることになる。
(まずは……帰ろう)
橋を越えて、さらに北を目指した。川沿いに北へ進めば、クォン族の領域に近付く。
クロカゲは、歩きながら考えた。
(なんで、こうなっちゃったんだろう……)
ほんの少し前までは、幸せを感じていた。
背中を預け合える仲間と共にいた。戦いの先には平和と安定が待っていると信じていた。
しかし今の、クロカゲどうか。父も幼友達も、同郷の皆も失った。仲間と信じていた者たちに殺された。一人で傷付いて歩いている。
クロカゲは、改めて自分に問いかけた。
(なんで、こうなっちゃったんだろう……)
なぜか。
いくつかの理由は思い当たる。
(ひとつは、僕自身が優柔不断だったこと)
例えば、盟主アイセンと父キンメルの対話のとき。
父を諌めておけば良かった。無理な報奨などは必要なかったのだ。カ・エルに対抗心を燃やす必要などなかったのだ。
そして皇帝との謁見のとき。
最初から、徹頭徹尾、服従の姿勢を示していれば違ったのかもしれない。あるいは、ガイウスが敵意を見せた時点で、はっきりと決別し戦う決心をすれば良かったのも知れない。
カ・エルと相対したときもそうだ。
疑ってかかるつもりだったのに、中途半端に信頼して隙を見せてしまった。あの場で、あの状況で、誰かを信じていけなかったんだ。
思い返せば、いつもふらふらとしていた。
こうと決断し、果断に行動するべきだったのかも知れない。
(でも、だからといって僕たちがこんな目に遭っていいわけがないよ……! いくら僕が上手く振る舞えなかったといっても、殺されなきゃいけない理由には、ならないよ!)
ならば、理由を相手に求めてもいいはずだ。
クロカゲは、思い出す。
皇帝ガイウスは言った。
全体の利益のため、クロカゲを殺すのだと。クロカゲの孕む危険を放置してはおけないと。
じゃあ、お前はどうなんだ。
皇帝が先に剣を抜いたんだ。こっちは、最後まで話し合いをしようとした。皇帝こそ、平和を脅かす元凶だ。危険そのものだ。ならば、東方平原と銀月帝国の全体の利益のため、皇帝を殺すと言えば、お前は受け入れるんだろう?
お前が言った理屈なんだ。当然に受け入れてもらうぞ。
カ・エルは言った。
自分が生きるために、他人を殺すのだと。カ・エルが生きるために、クロカゲを殺すと。
じゃあ、お前はどうなんだ。
僕にとっては、カ・エルこそが生きるための障害だ。父を殺された。アサギを殺された。僕自身もだ。
ならば、僕が生きるためにカ・エルを殺しても、お前は受け入れるんだろう?
お前の言った理屈なんだ。当然に受け入れてもらうぞ。
クロカゲは感情の炎が燃え上がるのを感じた。全身が熱くなる。それは、怒りであり、憎しみだった。理不尽な理由でクロカゲの大切なものを奪っていったもの達への、憤怒と憎悪だ。
そうだ、悪いのはあいつらだ。
もし僕に悪いところがあったというなら、それは決断できなかったことだ。
だから、決めた。
もう迷わない。僕が怖れず、躊躇わずにいられれば、もしかするとアサギは助けられたかも知れない。父も皆も、死なずにすんだのかもしれない。
(絶対に迷わない。躊躇わない。決断する、そして進む)
なぜ僕は、生きているのか。そんなのどうだっていい。体が動くなら、父の、アサギの、みんなの仇を討ってやれる。あいつらにこの短剣を突き立ててやる。
奪われたのなら、こちらも奪ってやる。全てを奪ってやる。
「絶対に復讐してやる!」
クロカゲは、吹き付ける風に向かって叫んだ。
それから、川の水をすすり、川岸に生えるアケビやビワをかじり、クォン族の土地を目指した。夜は草木の陰に隠れて眠った。寝て食べて飲んで、それを繰り返すうちに、体力は徐々に戻ってきた。
それに反比例するように、怒りの炎は強くなっていく。踏み出す足にも力が入る。
そうして十日ほど歩きづめで戻った故郷の地は、全く変わっていた。牧畜が行われていた草地に人気はなく、焼けた天幕が打ち捨てられていた。近くには腐臭を放つ死体が転がっている。馬や山羊、羊、そして人までもが腐敗している。
矢が刺さったままのものや長槍の傷が残るもの、短剣で斬られたものなど、全て殺されたものだ。
「帝国か……」
誰がやったのかはすぐに分かる。
東方平原の民は、長槍を使わない。帝国兵が銀月川を越えて攻めてきたのだろう。折れた槍や大盾を見れば、全て帝国軍のものだ。
胸が焼けつくような怒りがこみあげてくる。
そうしてさらに数日をかけて北進した。クォン族の居留地を巡りながら、東方平原の北端にまでたどり着いた。
だが、そこまでの行程で、生きているクォン族に会うことはなかった。時折、逃げ出したヤギなどの家畜を見かけることがあったが、牧童などは影も見かけなかった。
平原の北に広がる森を見ながら、ここまでの光景を思い返す。
どこも同じようなありさまだった。死体、焼け跡、死体、残骸……。戦って死んだと思われるクォン族の戦士の亡骸だけではない。子供や老人まで、野で朽ちていた。そしてその全てに帝国軍の痕跡があった。それだけではない。東方平原の弓騎兵が使う矢もあちこちで見られた。
帝国だけでなく、おそらくシカ族も攻めて来たんだろう。中には、まだ襲われて間もない者もあった。帝国軍やシカ族は、まだ近くにいるだろうか。
辺りを探る様に歩き出すと、まもなくクロカゲの耳に馬のいななきが聞こえてきた。
(なんだ?!)
身を隠しながら様子を伺うと、すぐに見つけた。
帝国軍の一団だ。騎乗した帝国兵が、三十人ほどの軍勢を指揮している。槍や短剣を振りかざした彼らが追い回しているのは、馬に乗った遊牧民の少女だ。
東方平原の乾いた風でぼさぼさになった髪や日に焼けた肌は、アサギを思い出させる。少女の駆る馬は走り疲れて限界らしく、泡を吹いて倒れた。
そこへ、帝国兵が殺到し取り囲んでいく。
怒りのあまり、クロカゲの心臓が早鐘のように鳴る。呼吸が荒くなる。吐き気がする。秋の涼しい草原の風を受けても、寒さを感じないくらいに体が火照っていた。少女を助けたいという思いは、確かにある。だがそれを越えて、激しい怒りがクロカゲを突き動かしていた。
あいつら、これ以上殺そうというのか。
自分の都合で誰かを殺すことが許されると思っているのか。
そんな奴、全員殺してやる。
クロカゲは、走り出していた。




