弓王カ・エル
カ・エルは、上機嫌だった。
目を通している羊皮紙には、藩都ジンドゥで竣工が間近に迫った大劇場の落成式典の計画案が、縷々記載されている。
新たに設置された東方藩王国の外交の端緒とし、同時に経済力と文化力を知らしめるため、銀月帝国内外の諸侯を招待し、贅を尽くした催しや食事で歓待するのだ。
サツマ藩王国の刀王や東国の西域鎮守府総督ら名だたる者たちを迎え、ロムレス王国の最高級葡萄酒や南海の海鮮珍味をそろえる。銀月帝国で一番の人気劇団を招くとともに、南方イオス王国からも踊り子や楽団を呼び寄せ、華を添える。
その内容に満足したカ・エルは、書類を机に置き、最上段に“弓王カ・エル”と署名をした。
これで羊皮紙に記載されている内容は、執行されることが確定した。東方藩王国の予算から莫大な金が支出され、自分がこまごまと指図をしなくても、準備が進んでいく。
横に立つ副官ジ・ヤクシに指で合図をすると、彼は若さに相応しいはつらつとした動きで羊皮紙を捧げ持ち、まだ湿るインクに砂をかけて吹き散らす。その一つ一つの所作がやる気に満ち、また、主君への敬意にも溢れている。
その様子を見ながら、カ・エルは満足感を胸に自室を見回した。
藩都ジンドゥに新築した藩王の宮殿は、かつての盟主邸とは比較にならない規模と豪奢さを持つ。石造りの大邸宅は、大理石で美しく整えられ、モザイク画やステンドグラスで煌びやかに彩られている。
この帝国風の建物は、わざわざ銀月帝国の帝都から職人らを呼び寄せて作らせたものだ。
屋内には帝国から輸入した絵画や彫刻をならべ、色とりどりの花で飾っている。隙間風の入る遊牧民の天幕などは、もう使わない。
建物や美術品だけではない。西方の上質な葡萄酒やオリーブ油、牛肉などを好きなだけ仕入れることが出来る。もう不味い干し肉を齧ることも無いし、臭い乳酒をすすることも無い。
全てが順調に進み始めている。その深い充足感にカ・エルは、我知らず笑みをこぼす。
三か月前、カ・エルは東方藩王国を打ち立て、その支配者たる藩王に即位した。皇帝から、弓王という名乗りを許され、王殿下と呼ばれる身になった。
もちろんカ・エルは、自分自身が苦労を重ねた結果だと思っている。自分でなければ成し遂げられなかった偉業だと確信している。
そもそも、アイセン軍との戦いは、勇者の力をもってしても薄氷を踏むものだった。
銀月帝国からの援軍を得ていたものの、その数は決して多くない。そしてまた、自身が動かせる兵も、満足できる数ではなかった。
アイセン・カアンは、若く未熟であるが、盟主としてしっかりと東方平原を統治していた。
奢侈にふけるでもなく、老人や伝統をないがしろにするでもない。さりとて必要があれば果断に変化を選択する。帝国相手にひるむことなく戦い、かといって交易をないがしろにするでもない。優れた人材は、いずれの氏族であろうとも、将や官僚に登用した。
何より、氏族間の紛争は公明正大に裁いた。
叔父であるハイエンを筆頭に、前盟主の側近らは、アイセンの手腕に満足して従っていたのだ。
そのアイセンを除き、自身が取って替わろうというカ・エルの野心は、簡単に味方を得られるものではなかった。
そこでカ・エルが目を付けたのは、“自分は、本来の実力に見合わない不遇な扱いを受けているのだ”と思い込んでいる者達だった。
例えば、兄より優れているのに、生まれの順番で家督や官職を継げない次男や三男など。
大都ジンドゥで活躍する高官に使われる下男や使用人など。
各氏族の有力者の庶流にある者や娘婿など。
弓馬の腕に劣るため、意思に反して羊やヤギの世話を命じられている者など。
もっと大きな役目を与えられれば、自分はさらに飛躍できるはずなのだ。今の自分は、本来の自分ではないのだ。
そう心の奥で確信している者は多い。
そういった者達に、カ・エルは囁いた。「盟主や族長たちは、その生まれだけで権力を得ている。既得権益を守るために、実力ある者を遠ざけている。悪しき支配者を倒し、健全で活力ある東方平原を取り戻そう」と。
そして、こうも言った。「お前は優れている。他の者はお前を評価しないだろうが、俺は違う。俺だけはお前の真価を知っている。お前は、一番になれるのだ」と。
こう言われて喜ばない男はいない。
カ・エルは知っていた。なぜなら、自分自身がそうだからだ。
他人に尊敬されて、嬉しくないわけがない。他人に侮られて、我慢できるはずがない。俺は誰よりも優れている。俺の行動は称賛されるべきだ。俺の思いどおりに動かぬ奴の、なんと愚かなことか。なぜ、俺の思ったとおりに世界は動かないのか。
そんな感情は、誰もが当然に胸に抱えているとカ・エルは信じている。自分がそうだからだ。「お前を評価する、お前の望むとおりのお前にしてやる、お前の望む世界に変えてやる……だから俺に付いてこい」と、言葉を選び時機を選び、味方を増やした。
当然ながら全員がたぶらかされるわけではない。
そしてカ・エルに従った者たちには、実際に実力が劣る者も多かった。だが、勢力を形成することが出来た。“帝国及びカ・エルの連合”と“アイセンら東方平原の現首脳陣”の対立という構図を作り出すことに成功したのだ。
そうして秘密裏に戦いの準備を進めつつ、帝国と交渉を持った。帝国の協力を引き出すため、皇帝ガイウスと密約を交わしたのだ。
その約束に従い、キンメルとクロカゲを殺した。これは帝国の望みを叶えると同時に、カ・エル自身が東方平原を掌握するためにクォン族を弱体化させるという布石でもあった。
そして、復讐でもあった。
かつてカ・エルは、槍の名手として知られていた。
シカ族で最も優れた槍使いの一人であった。槍の腕ならば、自分が誰より優れていると確信していた。だが武者修行と称してクォン族の土地を訪れた時、その自信はあっさりと打ち砕かれた。
神槍キンメルなどと呼ばれる者を倒して、更なる名誉を得てやる。更なる栄光を掴んでやる。
そう意気込んでいたカ・エルは、自慢の槍を半ばで折られ、自らの意思に寄らず地に伏した時、槍では敵わぬ相手がいると知った。
そしてカ・エルは槍を捨てた。
それからは、弓矢に没頭した。こちらでも天賦の才があったカ・エルは、狩人職で勇者級に登り詰めることで、何とか自尊心と自己顕示欲を抑えることが出来た。
だが、心の奥底ではキンメルとクロカゲに対する暗い感情を抱えていた。怒りと嫌悪が燻り続けていた。
だからキンメルらを殺すことに、何のためらいも無かった。
キンメルを射抜いた時、心の濁りが無くなったように、何ともすがすがしい気持ちになったのを覚えている。クロカゲを殺したとき、過去の苦労の全てを清算したような気がした。
ただ、クロカゲの死体を確保できなかったのは計算が外れた。橋を落とされたときは、なぜ大人しく俺に殺されないのかと、怒りがこみ上げてきた。
だが川に下りて瓦礫をさらい、右腕を見つけることが出来たのは上首尾だった。その手の腕輪が特徴的だったので、帝国への説明は簡単だった。
神は俺を見捨てていなかった。日頃の行いを見ていてくれるのだ。そう自信をつけることができた。
そうして東方平原へ戻ると、すぐにシカ族の居留地に入り、兵を率いて北進した。
クォン族を攻めるためだ。キンメルをはじめ一族の主だった者を失い、予期せぬ攻撃を受けたクォン族は、それでも頑強に抵抗した。だがカ・エルが神弓を使い、同時に帝国軍も銀月川を越えて侵犯したのだ。
抗し切れるものではない。
そうしてクォン族の主だった集落を各個撃破したのちに、アイセン軍との戦いに備えて、カ・エルは五千もの矢を用意し、神弓を纏わせた。それだけで、一日がかりの仕事だった。
そして矢を上空へ滞空させたのちに、並行して軍を動かしアイセン軍との戦闘まで一昼夜、神弓を維持し続けた。
アイセン軍を打ち破ることはできたものの、その負担は大きく、しばらくはまともに弓も握れなかった。血を吐く思いという言葉もあるが、実際に吐いた。
だがそれを隠し、衰弱する体を押して各氏族へ重ねての調略を行いながら、休む間もなく軍を動かし大都ジンドゥへ迫った。
アイセン軍を蹴散らした戦果を喧伝し、自らの武勇を誇張し、散々に虚飾を吹聴した結果、大都ジンドゥを囲んだとき、カ・エルの軍は十万に迫ろうとしていた。
シカ族の中でも非カ・エル派であった者たちも恭順して参戦してきた。勝ち馬に乗るという意図もあっただろうが、シカ族長のカ・エルが盟主と矛を交えた以上、毒を食らわば皿までの心であったのかもしれない。
そしてジュチ族とフラグ族も駆けつけてきた。こちらも、日和見派が寝返っただけでなく、一部であっても同族が盟主に反旗を翻したことで退路を断たれた者達がいたようだ。
だが大都ジンドゥを手に入れる直前で強敵に阻まれた。
“五騎四槍”と呼ばれるアイセンの腹心だ。
五騎とは、組織の管理や監督に秀でた将軍と高級官僚のうち、特に選ばれた五人を指す。万騎大将ハイエンなどは、その好例であった。
四槍は、個人の武勇に秀でた四人を指す。神槍と呼ばれたキンメルがその筆頭であった。
その五騎四槍の一人であり、四槍に一席を占める剣神ウドウが一騎打ちを申し込んできたのだ。
ウドウは、傭兵稼業で知られるフラグ族の出身で、将としても一流である。もし相手が勇者という超越の存在でなければ、ジンドゥに残るわずか一万ほどの守備兵を率いても、野戦で十万の軍勢を打ち破ったかもしれない。
しかし将として以上に、大剣の使い手として傑出していた。もし勇者と呼ばれる者達がいなければ、その剣腕は間違いなく大陸一と称されていただろう。
そんな男が、大都ジンドゥの守りを命じられていたのだ。当然のことながら無血で開城することなどできるはずが無いだろう。
しかし、カ・エルが相手では、野戦を挑もうとも兵が無駄死にすることは分かっていたはずだ。戦場から脱出したアイセン軍の兵が、カ・エルの神弓が重装歩兵を容易く粉砕したと報告しているからだ。
野戦を避けて籠城したとしても、はるか遠くから守備兵を狙い撃ちされれば抗しようがない。もし神弓で火矢を撃ち込まれれば、大都が失われる。
死ぬのは自分一人で十分である。一騎打ちであれば、そしてウドウの剣腕であれば、あわよくばカ・エルを討ち取ることが出来るかもしれない。
おそらくは、そんな判断だったのだろう。
カ・エルは、この一騎討ちを受けた。
実はカ・エルにとっても都合が良かったのだ。アイセン軍との一戦で神弓を使い過ぎたため、雨の如く矢を降らせるほど体力が残っていなかったのだ。
軍勢同士が衝突してしまえば、これが露見してしまう。だから二つ返事で一騎討ちを承諾した。
決闘は、大都ジンドゥの外の平原で行われた。
城門からただ一騎で現れたウドウと、軍勢からただ一騎で進み出たカ・エルが向かい合い、自然と闘いが始まった。
ウドウが距離を詰めようとすると、カ・エルが矢を放つ。それを巧みな剣捌きと弾き馬の扱いで避けたウドウが、さらに距離を詰めようとする。それを再びカ・エルの弓矢が迎え撃つ。
一進一退の攻防は、日が沈むまで続いた。日が落ちると再戦を約して別れ、翌日の夜明けから再び一騎打ちを始めた。
そうして三日目に、とうとう決着がついた。
神弓を温存し回復を待っていたカ・エルが、ついに神弓で二十の矢を一気に放ったのだ。
二十のうち十を剣で粉砕し、七をその身で受け、それでもカ・エルへ突進するウドウは、正に剣神と呼ぶにふさわしかった。だが残る三矢がウドウの命を確実に刈り取った。
ハイエンの時のような油断はしなかった。
ウドウが絶命して落馬したとき、カ・エルは顔では笑っていたものの、ハイエンに斬られた腕の傷が開いていた。激痛で倒れそうであった。
だが、勝った。
そう愉悦に浸ったカ・エルであったが、大都ジンドゥを手に入れるには、まだ障害があった。
十万の軍勢が大歓声でカ・エルの勝利を称える中、大都ジンドゥから、さらに一騎が姿を見せたのだ。
背は低く、痩せた老人だった。衣服こそ典雅な絹織物だが、見る者に影の薄い印象を与える飄々とした老爺だ。
五騎四槍の一騎、サーサーだった。
ウドウと二人で大都の守護に任じられていたこの老人は、カ・エルの前に出るとすぐに平身低頭して臣従の礼を示した。
「此度の戦勝、おめでとうございます、カ・エル様。このサーサー、全く感服いたしましてございます。さて、大都ジンドゥへの入城ですが、二日ほどお待ちいただけますでしょうか。その間に、カ・エル様に従わぬものを捕縛し、街に入る準備を整えて御覧に入れましょう」
そう言って、自らの妻子や孫までも、人質としてカ・エルへと差し出した。
カ・エルは、この老人をひとまず信じた。
サーサーは、五騎に数えられているものの、故事や式典に通じた文官であり、すぐに思い当たるような戦歴も武勲も無かった。
人柄は誠実で知られている。そして人質も出している。ならばこの老人に、死兵が隠れているかもしれない大都ジンドゥを掃除させるのも悪くはないと判断したのだ。
だがこの老人は、二日の内にアイセンに忠誠を誓う者達をまとめ、大都ジンドゥから逃がしたのだ。
ウドウが時間を稼ぐ間にも準備をしていたのだろう。驚くほどの迅速さと手際の良さだった。
そして激怒し人質を殺そうとするカ・エルに、サーサーは軽く言ってのけた。
「女子供を殺すなど、勇者の名に泥を塗る所業でしょう。人質を戻していただければ、この枯れた首を差し出してもよろしいが、いかがか?」
カ・エルはこれを受け入れざるを得なかった。ただの文官であると侮っていたサーサーが、このような知略を隠していた。生かしておけば何をされるか分からない。しかしサーサーを殺して、さらにその家族も殺せば、非道だと誹りを受けるかもしれない。
いずれ殺すにしても、今は殺せない。そう諦めてサーサーの首を刎ねるだけで満足するしかなかった。
こうして大いに手こずりながらも、カ・エルは大都ジンドゥを掌握すると、すぐにジュチ族とフラグ族にも服従を求めた。
するとアイセンの不在が重く響いたのか、双方とも、意外なほどにあっさりと応じた。
カ・エルは東方平原の政権を奪取することに成功したのだ。
権力を得たカ・エルが真っ先に手を着けたのは、官僚や将軍らを排斥する事だった。その官職に、自分の身内や早期に味方した者達を据えた。
かつてアイセンに対して官職を私物化していると批判したが、その舌の根も乾かぬうちにカ・エルは手のひらを返して見せたのだ。
いきなり役人や将軍を入れ替えるのだから、当然、能率は落ちる。
それも三か月たち、苦戦しながらもなんとか行政の運営を回せるようになってきている。
日焼けしていたカ・エルの肌も、屋内の事務仕事が続くことで少し白くなっている。これが勝利の証だ。
皇族から迎えた妻のララは、腐心の甲斐あって、藩都ジンドゥを気に入っている。帝室との関係も良好だ。
周辺諸侯を招待し、式典が成功すれば、カ・エルの藩王としての地位が確固としたものになる。自分の名と地位によって諸侯を集めることにも、強い悦びを感じる。
全てが順調だ。
「あとは任せるぞ、ジ・ヤクシ」
「はい、畏まりました!」
まだ書類は残っているが、放り出して執務室を出た。
「酒でも飲むか、女のところにでも行くか……」
手に入れた栄光と権力を、カ・エルは存分に楽しんでいた。




