決戦
ハイエンは、馬上で深く息を吸い込んだ。
草と土埃の混じった匂いが、鼻の奥をくすぐる。懐かしさすら感じさせる香りが、老いた体に染み渡る。
東方平原は、標高が高く雨量が少ない。大地には、背の低い草ばかりが生えている。ここでは、草いきれを感じることなど数えるほどしかない。
その一つが、騎馬の大軍が草原を踏み荒らす戦争の時だ。
「土が巻き上がり、草が踏まれ、馬のいななきと兵の怒号が飛び交う。これこそ戦場の空気ですな」
隣を振り向くと、馬を並べるアイセンの鋭い視線が返ってくる。
「出来得れば、二度と吸いたくない空気だ」
「たしかに、そのとおりですな」
頷いたハイエンは、もう一度深く息を吸い込むと、正面の戦場を見た。
兵力は、こちらの方が多い。
中央に四千の重騎兵を置き、左翼と右翼にはそれぞれ八千ずつ、一万六千の弓騎兵が配されている。総数二万に達する。
対するシカ族は、一万の弓騎兵を左右に長く広げている。
そしてハイエンは、左右両翼それぞれ八千の弓騎兵のうち、まずは五千ずつの計一万騎に攻撃を開始させていた。残る三千ずつの計六千騎は、迫りくるジュチ族とフラグ族に対する備えとして、後方での待機を命じている。
「急ぎ、シカ族を打ち払います。その後に反転してジュチ族とフラグ族を迎え撃つ。損害の程度によっては、シカ族を撃退したのちに一度退くことも考えねばなりませんが……いずれにせよ、目前の敵を素早く叩く必要があるということですな」
進軍を命じられた両翼合わせて一万の弓騎兵が、カ・エルの軍勢に向けて疾駆し、弓を射かける。
遊牧民の戦いは、弓騎兵による射撃から始まるのが常だ。遠距離からの攻撃で、自軍の被害を抑えつつ、敵の消耗と混乱を誘う。その後に鎧を着込んだ重騎兵が突撃し、刀槍で敵を蹂躙する。銀月帝国が擁する重装歩兵の大軍団を相手にしても、互角に渡り合ってきた戦法である。
その根幹となるのが、馬の質と弓の腕だ。
「敵の方が、馬が良い。しっかりと戦向けの給餌をしてきているな」
両軍の動きの違いを、アイセンが見抜く。
「ほう、さすがですな」
ハイエンは感心を隠さず吐露した。わずかな動きで馬の違いを見抜いた姪に、自然と笑みがこぼれる。ハイエンにとって、アイセンは君主であると同時に、愛する姪でもある。その彼女が見せる優れた素養は、いつも誇らしさを感じさせてくれる。
「確かに馬は奴らの方が用意できております。悪だくみの時間は、たっぷりとあったはずですからのう」
馬は、牧草を多く与えておけば、長距離の移動に有利になる。給餌と飲水の回数を減らすことができるからだ。
逆に餌の給与量を絞ると、体重が減り瞬発力と持久力が向上する。行軍には前者を用い、戦闘では後者に乗る。
これは馬ごとに体格や体調を見ながらの調整が必要になるため、一度や二度の給餌で調整が出来るものではない。何日も前から戦に向けて準備をしていたからこそ、可能なのだ。
もちろん決定的な差が生まれるわけではない。だが、距離を詰めるときや敵の弓の射程から脱するときに、わずかではあるが、差が出てくる。
「ですが用兵の練度はこちらが上かと」
ハイエンが見つめる先では、弓矢の攻防が繰り返されている。
接敵し矢を射かけ、また距離を取る。その間合いの取り方や呼吸、機の捉え方を比較すると、カ・エルの軍勢がやや鈍い。
それもそのはずだ。アイセン軍は、盟主の親衛隊一万騎を中心とした精兵である。互いに声を掛け合って連携し、負傷すればすぐに次の者が後を引き継ぐ。進むも退くも、呼吸がそろっている。
「さあ、急げ急げ。時が経てば、ジュチ族とフラグ族の軍勢が後ろから襲い掛かってくるぞ。それまでに急いでカ・エルとシカ族を打ち払わねばならんぞ」
ハイエンがさらなる攻撃を指示すると、両翼が巧みに回り込み、左右からシカ族を挟撃しようとする。
対するシカ族は、横に広がり挟撃を防ごうとする。しかし戦線が横に伸びると、シカ族の連携にほころびが見え始めた。アイセン軍がそれを見逃すはずもない。寄せて引いてを繰り返してシカ族を翻弄する。
そして数度の攻防の末、側面に回り込むことに成功した。そのまま背後に回り込めれば、練度でも兵数でも優位なアイセン軍の勝利が見えてくる。
はずだった。
最初に異変が起きたのは左翼だった。側面に回り込もうとしていたアイセン軍の動きが、突然鈍くなる。
ハイエンが目を凝らして見ると、すぐに理由はすぐに分かった。狩人の勇者カ・エルだ。
カ・エルがアイセン軍の左翼に矢を打ち込むと、一矢で必ず一騎が落ちる。するとアイセン軍は動揺し、動きが鈍る。すぐにまた攻撃を再開するも、再びカ・エルの矢が放たれ、動きが鈍る。
「カ・エルは神弓を使っているな」
アイセンのつぶやきに、ハイエンはすぐに頷いた。
「うむ、それも的確に千人長や百人長を狙っていますな。その後、他の者が指揮を引き継ぐと、その者が狙われる。神弓による将への狙撃は想定しておりましたので、装具を他の者と揃えて見分けられぬようにしたのですが……」
「全体の動きや一人一人の挙動から、指揮者を判断しているのだろう。悔しいが、カ・エルは目も頭もいい」
東方平原の軍の指揮構造は、難しいものではない。十人の隊をまとめる十人長、十隊を率いる百人長、その上に千人長、そして総勢一万の軍を采配する万騎長からなる。その命令者に狙いを絞って、巧みに狙撃しているのだ。
アイセン軍の左翼が失速したとみるや、次は右翼に向けて神弓が飛ぶ。
「数と質では勝っていても、たった一人に戦場をかき回されてしまうとは。いやはや、これが勇者という者ですかな」
感心したように、あるいはあきれたようにため息を吐くと、ハイエンは鉄兜を着けた。
「さて、時間がありませんからな。このままでは後方の狐狸どもが蠢動する。その前に、力押しで一気に行きますぞ」
ハイエンは、後方に待機する六千の弓騎兵にアイセンの守りを任せると、中央で温存していた重騎兵四千を動かした。
「突撃だ! この万騎大将ハイエンに続け!」
自らも馬を駆り、曲刀を振りかざし、シカ族の中央に向けて突撃した。四千の重騎兵が大地を揺らす。
重騎兵は、弓騎兵とは全く違う。
弓騎兵は軽さと速さを優先する。身の守りは革の胸当てなどがせいぜいだ。だが、重騎兵は、鉄兜や金属鎧を身にまとい、馬も防具を着ける。そして馬上槍やこん棒、曲刀などを手に敵へ突撃して蹂躙する。その重さと破壊力は、比較にならない。
馬蹄の轟きすら違う。地を叩く雷雨のような重厚な音とともに、土を巻き上げて突進した。
これに気づいたシカ族は、百人ほどの弓騎兵の一隊が矢を射かけながら前へ出た。だが、重厚な装備を前に矢が弾かれる。そして勢いのままに振るわれる戦槌と斧が、シカ族の弓騎兵たちを枯れ木のように打倒していく。
「中央を抜けば、シカ族は散り散りになる。勇者といえど、四千の重騎兵を前にしては、どうしようもあるまいて」
ハイエンはそう判断した。
「進め、進め! 一騎残らず蹴散らすぞ!」
ハイエンが天を衝くほどの大声で重騎兵たちを叱咤した、その時だった。
目の前で、カ・エルがシカ族の軍勢から一人飛び出し、重騎兵隊の前に馬を立てた。不敵な笑みを浮かべたカ・エルが、何か合図をするかのように右手を高く掲げるのが見えた。
(何かある!)
ハイエンは気づいた。が、既に重騎兵の一軍は猛烈な勢いで走っている。
(何かあるが、このまま突撃く!)
重騎兵は、容易く退かないし、曲がらない。些細な駆け引きで動揺していては、それは重騎兵ではない。つまらぬ企みに動揺することなく、圧倒的な力でねじ伏せる。それが重騎兵なのだ。
土煙を巻き上げて敢然と直進する重騎兵隊に向けて、相対するカ・エルが右手を振り下ろした。
ヒョウという風切音とともに、上空から矢が飛来する。
視界の端に影がよぎった時には、ハイエンは曲刀を振り抜いていた。破裂音とともに、矢がはじけ飛ぶ。
(神弓の一矢か!?)
矢は、ハイエンに向けて軌道を変えていた。カ・エルの矢だろう。だがそれも曲刀の一閃で砕け散った。もはや恐れるものはない。ハイエンが手綱を握る手に力を込めた、その時だった。
ざあっという音ともに、無数の矢が降り注いだ。
矢の一つ一つが意思を持っているかのように軌道を変え、重騎兵らに突き刺さる。ハイエンの周囲で、次々と重騎兵が落馬していく。
「この数千の矢の全てが神弓の矢だというのか? 馬鹿な!」
ハイエンは迫りくる矢を一つ払い、二つ砕き、三つ目を避けようとするが、間に合わなかった。鉄鎧の隙間に入り込んできた矢が、肉に食い込む。それをものともせず、さらに馬をあおる。
だが今度は馬が狙われた。鎧を着けていない部分に次々と矢が刺さり、馬体をえぐっていく。十を超える矢を受けたところで、ハイエンの愛馬が転倒した。
鞍から飛び上がってくるりと受け身を取るも、勢いを逃がしきれず地面に叩きつけられ、その強烈な衝撃に、一瞬息が止まる。草を噛んでようやく立ち上がったハイエンが見たのは、壊滅していく重騎兵隊だった。
隊の前方を走っていた者たちは、鎧の間に矢を打ち込まれて落馬し、あるいは馬を狙われて転倒している。その数は千を下らない。そしてそこへ、隊列の後ろにいたものたちが突っ込み、踏み砕いている。仲間に踏みつぶされ者たちの悲鳴があちこちで上がる。倒れた仲間を避けることが出来た者も、神弓の矢を受けて次々と絶命していく。散々なありさまだった。
「馬鹿な! 狩人の勇者といえど、無限の矢を生み出せるはずもない。これは……」
左翼と右翼の弓騎兵隊にも矢の雨が降り注いでいる。混乱しながらも、壊走せず必死に戦線を維持しようとしているが、いつまで戦えるかわからない。
そもそも、この神弓の雨が、いつ止むとも知れない。このままでは、全員がことごとく命を散らすことになるかもしれない。
「左右両翼に退却を伝えよ! アイセン様をお守りし、大都ジンドゥへ何としてもたどり着くのだ!」
ハイエンが叫ぶと、まだ動ける者たちが左右に馬を走らせる。後方に待機する兵らに向けて走り出す者もいる。それを見送りながら、ハイエンは主を失って右往左往する馬を捕まえ、飛び乗った。
「カ・エルは……狩人の勇者は、脅威だ! 今ここで、討たねばならない。命を惜しまぬ者は続け!」
前を見れば、カ・エルが、左右両翼へ走った騎馬を射ろうとしている。
「させるか!」
ハイエンの覇気に応えて馬が走り出す。
追従したのは、わずかに三騎だ。ハイエンに気づいたカ・エルが、向きを変えて矢を放つ。
「万騎大将様、ご無礼!」
従った三騎のうちの一騎が、ハイエンの前に出た。手にした槍で矢を一つ弾くが、続く二矢目を首に受けて落馬する。
「ハイエン様、お守りいたします!」
さらに一騎が前に出て、その身を盾にして五本もの矢を受け、馬上で絶命する。
「後のこと、お頼み申す」
最後の一人がしゃにむに矢を射かけながら前に出る。だがカ・エルを狙った矢は、カ・エルが放つ神弓の矢にすべて射ち落とされた。そのまま神弓の矢に眉間を貫かれ絶命する。
三人とも、重騎兵を務めるほどの優れた戦士だ。ハイエンの一声でためらわずに死地へと飛び込んだ俊英だ。普段なら、その死を悼んだだろう。しかし今は戦地だ。
「よく死んでくれた!」
ハイエンは笑った。三人が命を賭し、カ・エルまであと十完歩と迫った。神弓の使い手である狩人の勇者を相手に、平原の戦場で十完歩まで迫ることができた。
カ・エルが二本の矢をつがえ、ハイエンへと放つ。一本は右腕の曲刀で砕くが、もう一本は左腕で受ける。手のひらから入った矢は、肘まで達して止まった。
その間に三歩分の距離を詰めた。
カ・エルの弓から、更に二本の矢が放たれる。
一本は同じように右腕の曲刀で砕く。もう一本が首筋を狙うが、体をよじって左肩で受ける。鎧の隙間から入り込んだ矢が、肩の骨肉を断ち、筋を破壊する。左肩から下は、もう動かない。
その間に、もう三歩分の距離を詰めた。
目前の敵めがけて、足だけで馬をけしかける。だがカ・エルの方が早かった。間髪入れずに二本の矢が放たれる。振り上げた右腕の曲刀は、カ・エルを討つためのものだ。使えない。
あの男は、絶対に討たなくてはならない。
勇者という境地にたどり着いた人間がこれほどに恐ろしいと、ハイエンは考えていなかった。そもそも神弓という技は、視界内であれば狙った場所に矢を当てることが出来るものと考えていた。
確かにそれだけでも脅威だ。敵の弓の射程外から矢の続く限り射るだけで、容易に勝利することができる。しかしその真価は山地での戦いや攻城戦にあり、平野での大軍の決戦には不向きだと捉えていた。
だが、それは違った。
どうやったのかはわからないが、数千の矢の雨で重騎兵隊を壊滅させた。たった一人の人間が、軍に匹敵する武力を備えているのだ。そしてその人物は、野心を露わに、東方平原を呑み込もうとしている。奴がいる限り、この地に平穏は訪れない。
「カ・エル! 貴様だけは、ここで絶対に殺す!」
足だけで馬を操り、ハイエンは曲刀を振り上げた右腕に渾身の力を込めた。
カ・エルまで、あと三歩。
だが、カ・エルは既に、弓に矢をつがえている。そして同時に二本の矢が放たれる。
カ・エルまで、あと二歩。
放たれた矢が、それぞれハイエンの頭部と首元に迫る。神弓の矢であれば、避けても無駄だ。軌道を変えて迫ってくる。
ハイエンは、避けなかった。一本はハイエンの首を貫いた。もう一本は、左目から頭部に突き刺さった。カ・エルまではあと一歩のところで、ハイエンの視界が暗くなる。ハイエンが最期に見たのは、勝利に酔った様子のカ・エルの笑みだった。
これが死か。
ハイエンは悟った。
だが、ここからだ。
ハイエンは、戦場では多くの死を見てきた。そして死の間際の執念の恐ろしさも見てきた。
敵兵の首を落とした時、地面を転がる首が悪態を吐いてきたこともあった。斉射を受けてハリネズミのようになった戦士が、それでも最後の一矢で敵将を射落としたこともあった。
死の間際でも、真の覚悟があればそれが出来る。
消えゆく意識の中、暗転した視界で、最後に見たカ・エルの幻影を思い浮かべ渾身の力で右腕を振り抜いた。
ガン、バツン!
確かな手ごたえを感じた。
(カ・エルを……斬れた……か?)
それを確かめることはできなかった。命の尽きたハイエンは、どさりと落馬した。




