東方平原の日常(アイセン)
アイセンは書き上げた書状を脇に置いて伸びをした。
朝から筆を動かし続けていたので手は痛いし肩はこわばっている。冬場は特に書類仕事がつらい。本当なら毛皮をたっぷりと着込んで遠乗りに出たい。しばらく走るだけで体の芯まで温まって、たっぷりと汗をかけるのだ。
だがそんな我儘を言ってもいられない。左右に体をよじって、こりをほぐす。
執務室の扉が叩かれた。さっと姿勢を戻して背筋を伸ばす。
「なんだ?」
「クロカゲ様がお見えです」
声はサーキのものだ。
「入ってもらってくれ」
すぐにクロカゲが入ってきた。変わらず元気そうで、内心で安堵する。サーキが温かい牛乳の入った木杯を置いて出ていくと、クロカゲがふわりと笑いながら言った。
「戻りました。久しぶりにアイセンさんの顔を見れてうれしいです」
まったく困る。こういうことを屈託なく言うから、誤解が生まれるのだ。
「昨晩着いたとサンサから聞いている。元気そうで何よりだ。どうだった?」
「首尾は上々です。不思議な体験もいくつかしましたし」
「どんな体験だ」
報告は逐一事細かに受けている。だが紙面からでは読み取れない生の感情を知りたかった。
クロカゲは本当に忌憚なく話してくれた。大貴族の令嬢と知り合ったくだりなどはもやりともしたが、不死の魔王が生きていたことやイオス王国の大墳墓から冥界へ足を踏み入れたことなどを改めて聞いた時には、肌が粟立った。
やはり話を聞いてよかった。その思いを噛み締めながら、顔では悠然とした笑みを作る。
「うん、クロカゲの話を聞いて安心した。不死の魔王は大丈夫だろう」
アイセンが最も警戒したのは、当然ながら不死の魔王の動向だ。勇者が一国に匹敵する重大な要素だとしたら、不死の魔王は勇者十人にも匹敵する。均衡の破壊者だ。これが介入するのであれば、計画は全て練り直す必要がある。
だがひとまずはこの地を去り、事態を静観するという。であれば、ひとまずは放っておける。
アイセンは不死の魔王を油だと考えている。極めて引火性の強い油だ。そして一度火が付けば、多大な犠牲を払わねば鎮火しない。だが頑丈な壺に入れて堅固に管理すれば、周囲に被害が及ぶことはない。着火されなければ良いのだ。
不死の魔王自身に、野心はない。それを利用したり排除しようとする者がいなければ、爆発しないのだ。
ただし外連味のある振る舞いを好む道化師のような性格らしい。面白そうとなれば首を突っ込んでくるかもしれない。だからアイセンは、クロカゲを通じて計画のすべてを開陳している。先の展開が分かっているなら興味をなくすだろうという読みは、的中した。
勇者への復讐が成った今、不測の事態が起こらぬ限りは、こちらへ興味を示さぬだろう。
木杯を取ると牛乳をすすった。温めた牛乳は甘い。本当は馬乳や山羊乳の方が好きなのだが、どちらも搾乳時期は春から秋だ。
「アイセンさんは変わらず忙しそうですね」
机に山と積まれた紙束を見ながら、クロカゲが気遣わしそうにいった。確かに机上の一角が雑然としているが、本当は心配いらない。演技なのだ。
「これは、手を付けたくない案件を放ったらかしにしているだけだ」
「そうなんですか?」
「うん、ほら」
山から紙片を一枚引っ張り出すと、クロカゲに手渡した。
「えっと……テュリアス・ヴェスパシアス。帝国四大貴族ヴェスパシアス家の第二位氏族長。知勇兼備の将軍。五年前に最初の妻と死別。娘が一人……なんですか、これ」
怪訝な顔のクロカゲが持つ紙には、体格の良い髭面の男が描かれている。
「結婚の話だ。独身の王だからな」
「それ全部が……ですか?」
「そう、全部」
紙の山は見ずに言った。
クロカゲはあっけにとられたように口を開いている。
「だから放ったらかしているんだ。こうして山にしておけば、結婚など考えていないと示せる」
東方平原の盟主となれば、その結婚相手は権力者に限られる。
無名で無力の配偶者となれば、広く民の同意を得られないだろうし安定的な政にも支障をきたす。逆に権威ある出自を持つ相手ならば、勢力間の友好関係構築に繋がるし、いざ国難となれば頼みにも出来る。一つしかない席なのだから有効に使うべきだろうと、皆が考えることだ。それがこの大陸では常識なのだ。
だが今のところアイセン自身に婚姻を望む気配がない。
すると自分こそは王族と縁を持つに相応しいと考える者達が、自ら売り込んでくることとなる。自分自身であったり、息子であったり、あるいはどこからか養子を迎えてまで駒を揃えるものまでいる。
だがそれらは徒労なのだと知らしめる必要がある。だからこうして山を作って示している。
「結婚する気はないからな」
「なんで結婚しないんですか?」
「この紙束の中には、クロカゲのような人がいないからだ」
クロカゲは暫しきょとんとしたあと、何となく納得したように頷いた。これは意志が疎通していない可能性が高いなと気付いたアイセンは、説明を加えようと口を開く。
「ああ、勘違いをしないでほしいのだが……」
さてどう説明しようかと言葉を選んでいるうちに、途中でクロカゲに引き取られた。
「大丈夫です、勘違いはしていないですよ。好いた惚れたではなく、その中には信頼できる相手がいないと言うことですよね」
信頼。それはクロカゲにとって、時には命より大切なものだろう。そして権勢を求めて婚姻を企む輩など信ずるに値しないということも、容易に推測できることだ。
人とは基本として信頼に値しない。これはクロカゲの信念のようなものだろう。だがクロカゲの方でも他人を信用しないのだから、おあいこだ。
だが一方で、クロカゲはこれと決めた人はとことんに信頼する。自分以上に大切にする。その一人がアイセンである。だからこれを裏切らぬよう、アイセンは気を払う。利用しようなどとは考えない。信頼には信頼で応える。そういう思想だ。
だが別段難しいことではない。こちらが有数の権力者であろうとも、相手が稀有な実力の持ち主であろうとも、人としての交わりを持てば自然とそうなるのだ。友人関係と変わらない。
だからアイセンはごく自然にねぎらいを口にした。
「まあこちらの色々なことは置いておこう。帝国の滞在は疲れただろう。美味い飯でも食いに行こう」
「あ、いいですね」
ぱっと華やいだ声を上げたクロカゲだが、何か思いついたように口を開いた。
「じゃあ冬星の日にしませんか?」
冬星の日といえば、一年の中で太陽が最も低い位置を動き、昼が最短になる日だ。春に向かう起点であり、放牧や農作の基準をする節目の一つでもある。
そして実務的な面以外に、もう一つの性格を持っている。家族や恋人などごく親しい人が集まる行事の日でもあるということだ。
アイセンは猛烈な勢いで思考を巡らせた。
(どういう意図だ? 血縁は無いのだから親族としての意味合いではないだろうが……まさか二人で? そういえば予定はどうだったか……確か各氏族から挨拶の応酬と記念品の贈答があったはずだが、昼前には終わるだろう。ゼ・ノパスが何か公務を入れていたが、それは蹴っ飛ばしてしまえ。そうすれば夜まで……)
目まぐるしい思考はおくびにも出さず堂々と微笑んだ。
「うん、構わない」
クロカゲは「じゃあ細かいことはまたあとで」と退出していった。
しばらく机に向かうふりをしたあと、そっと窓によって日除けの布の隙間から外を見た。藩王邸の庭には歩き去るクロカゲの後姿があった。
クロカゲが声の届かない距離にいると確信して呟いた。
「やっぱり勘違いをしているじゃないか」




