イオニア邸事件 前編
帝都へ帰還したメイプルを、一つの凶報と二つの誤算が待っていた。
「ドンナーが、妊娠した?」
その報せを受けたのは、イオニア邸へ向かう馬車の上であった。
混乱に包まれるイオス王国を脱出した外交使節団は、海路をひた進んでペイライエウス港へとたどり着いた。そして一連の出来事を早馬で知らせつつ馬車を連ねて帰還を急ぎ、帝都に入るなり旅装を解いてイオニア邸へと向かった。
今回の外交交渉の最終的な責任者はイオニア家である。まずは当主のニカルノへ報告を行う義務があるのだ。
広大な邸宅では、報告のための祝典と使節団の帰還を祝う宴の用意がされていた。皇城の高級文官や各藩王国の賓客、イオニア家の派閥に連なる貴族たちが集まっていた。
そんな華やかな雰囲気溢れるイオニア邸の門前で馬車の順番待ちをしているところで悪しき報せを受けたメイプルは、激情に駆られた。
「ドンナーめ! あのいやらしい不潔な女郎めが。必ず、刺してやる!」
怒りのままに馬車の床を蹴ると、驚いた馬がいななく。
レオンとあの女が結婚して、まだ二か月だ。そんなに都合よく子供が出来るわけがない。きっとほかの男との間に出来た子を、レオンナトスの子供だと言い張っているに違いない。
ドンナーを問い詰めて、その不義を暴いてやる。そう思い込んだメイプルは、遅々として列が進まぬ馬車を飛び降りて、速足に歩いた。
本来ならば貴族の妊娠という繊細な話題は、慎重に扱われるものだ。特にロクサーヌの養女であるドンナーの子となれば、イオニア家の直系であり家督承継もありうる重要な位置にある。少なくとも、イオニア家が公にすると決定する前に漏らすのは、避けるべきだ。
ここでは精々が当人にのみ聞こえるようお祝いを伝え、後日に祝いの手紙を送るのが礼儀に適った振る舞いだろう。
誰かがそう囁いてくれるだけでも、違ったかもしれない。だが、今までそういった至らぬところを補佐してくれていた執事はもういない。侍女や召使は、メイプルの怒気を恐れて息をひそめるばかりだ。
取次も待たずに邸内に上がり、召使らを押しのけて居室の扉を開いた。
広い室内には、幾人もの貴族が集い、あちらこちらで談笑している。それらをかき分けるように進むと、最奥の窓際でドンナーとレオンナトスが一つの長椅子に座っていた。レオンナトスが本を読み、そこへドンナーが寄りかかる様にして本を覗き込んでいる。その睦まじい様子に、メイプルの怒りが爆発した。
「このカッコウ女め、殺してやる! 腹の子の父は誰だ?!」
吠えながらドンナーへ詰め寄ろうとすると、レオンナトスが立ち上がった。
「ドナは僕の妻だ。もし傷つけるつもりなら、姉さんでも許さないよ」
線の細い弟には珍しく、怒気を孕んだ口調だった。
そこに違和感を覚えつつも、メイプルは止まれなかった。ここでわずかでも頭を冷やすことが出来れば、自分の無礼に気が付けたかもしれない。
いや、そもそもが養女とはいえイオニア家の直系であるドンナーに対して、軽々に話しかける事さえも非礼であると言える。周囲からは、それを非難するような視線が集まってもいた。
だがそれらを忘れるほどに、メイプルは激していた。
「あ、あの女はあばずれよ?! 今までどれだけの男と浮名を流してきたか……」
「ドナが過去に誰と付き合っていたかは関係ないよ。今、僕だけを見てくれていればそれでいい。昔の男なんて、忘れさせてやる」
そう言ってレオンはドンナーを抱き寄せた。その目は愛と慈しみに満ちている。
何でそんな女に、そんな目を向けるのだ。何で姉である私にでは無く、そんな汚らしい盛りのついた淫らな雌犬じみた畜生女に愛を注ぐのだ。怒りが、思わず口を突いて出そうになる。
口惜しさに歯噛みをしていると、ドンナーが気遣わし気にこちらを見てくる。長い付き合いだからわかる。ドンナーは、時折、分もわきまえずにメイプルに対して説教や心配を向けて来ることがある。そういう時は大概この目をしているのだ。
「私さ、マルケラと違って馬鹿で品はないけど、誠実さは忘れないようにしてるのよね。だから言うんだけどさあ……」
この言葉もカチンときた。お前は頭がよくて品はあるけど、誠実さのかけらもない――そう言われたのだと捉えたのだ。ずいぶんと洒落た真似をするじゃないか。そう怒りを深めた。
だがドンナーの言葉は、全く意外なものだった。
「……今度の外交交渉の結果、マルケラには不利に働きそうよ」
「なんですって」
メイプルは、今回のイオス王国との交渉は不首尾であると考えていた。
当初の予定であるイオス国王との約定にたどり着けなかったからだ。実務者であるアレクサンドラと宰相らとの間では不戦と友好的な通商を約しているが、当然に格は落ちる。加えて、当事者の一人である書簡官のセネンセは大墳墓崩壊の騒動の中で、メイプルが殺した。
皇帝の勅命に端を発し、四大貴族であるイオニア家が旗を振ったにしては、得るものの少ない外交使節だったはずなのだ。そうなれば自然と正使であるアレクサンドラとロクサーヌの評判は下がる。
一方のメイプルは、亡者の大群に襲われるという不測の事態でも魔法で使節団を守り抜いたという実績がある。いや、自分自身でも独自に早馬を立てて方々に喧伝してさえもいた。メイプルがいたからこそ、使節団は欠けることなく帰還できるのだと、帝都に着く前から世論の醸成に努めていた。
だのに何故だ。
「あのね、早馬で知らせを受けた陛下の反応が、悪くなかったらしいの。しばらく南からの侵攻が無いという状況が作れれば、それで良かったみたいね」
皇帝の計算は、メイプルの弾く算盤とは違ったのだ。これは全くの誤算だった。
実務者の段階であるとはいえ、不戦の約定が成された。加えて、王都アレクサンドリアは不測の大混乱に見舞われた。さらにはイオス国王が臥せっているとの情報も得た。当面の間、南に対応するための戦力を引き抜き、北伐に使えれば良いと考えていた皇帝にとって、今回の結果で十分だったらしい。
「近く、帝都へ凱旋されるらしいわ。使節団への報奨もお考えだそうだし、もしかするとプルケラ家が損をするかもしれないわよ」
「そ、そんな……」
数日後には魔王軍残党の討伐を終えた皇帝が帰還し、民衆の前で大演説が行われる。勝利宣言と共に、南方との交渉成果が公表され、さらには北方諸国への出兵が発表されるのだ。それらは慎重に調整された予定であり、一部の者は既に知っている。
そんな大局が動き出す状況では、使節団の無事という材料は、些末なものでしかない。むしろ皇帝の望む状況を作り出した貢献の度合いで言えば、アレクサンドラの方が上だろう。
そしてアレクサンドラに報奨が与えられるとすれば、ペイライエウス家がかつて有していたなにがしかの権益の復活ということは十分にあり得る。それらの多くを承継しているメイプルとしては、最も恐れていたことだ。
だからこそ、ペイライエウス邸事件においては、かつてペイライエウス家に属していた財産のうち、プルケラ家が継承したものについて、ペイライエウス家及びイオニア家は何ら関知しないことを約束させた。
だがメイプルとロクサーヌの約束など、皇帝の決定の前では意味を成さない。
「あんな小娘の遊びみたいな交渉が評価されるっていうの? この私の功績が蔑ろにされるっていうの? そんな馬鹿らしいことがあったら堪らないわよっ」
「それを決めるのは陛下やニカルノ様よ。ところでマルケラ。あんた、欠点になるような変なことしてないでしょうね? 脇が甘いと、あれこれ理由を付けて財産を引っこ抜かれるわよ」
ドンナーに問われて、どきりとした。
だが、反射的に強がりを言った。
「だ、大丈夫に決まっているでしょう」
「そう、それなら良いんだけど。幼馴染で義理のお姉さまが没落する姿なんて、あんまり見たくないわよ」
そんなやり取りをしているうちに、居室にイオニア家の召使が現れて式典会場である大広間への移動を促した。
歩きながらも、メイプルは必死に自分に言い聞かせた。
――きっと、大丈夫よ。
メイプルが糾弾されるような悪材料は多いはずだ。今まで、ぎりぎり崖の上をいくような強行軍でプルケラ家を興隆させてきたからだ。
イオス王国への旅程だけを見ても、いくつかある。
まずはセネンセの策略に乗ってアレクサンドラへ変性魔法の指輪を着けさせたことだ。だが実際には効果が無かったことだし、セネンセも既にいない。
そのセネンセを葬ったことは、場合によっては攻撃の材料にされ得る。だが敵国での出来事であるし、早馬で知らせた内容には含まれていない。イオス王国から直行したメイプルたちを追い越してイオス王国から情報が届くことも無い。ならば、まだ帝都の高官の皇帝も知り得ぬ情報だ。
そもそも、王都の防衛に助力していたメイプルに難癖をつけて襲い掛かってきたのはセネンセの方だ。それを排除したとして、非難される謂れはない。
きっと大丈夫だ。そう自分に言い聞かせた。
大広間へと向かう人の流れに乗って、足を踏み入れた。
広間の天井は高く、壁には大きな絵画がならび、向こう側が見えぬほどに人が溢れている。大きな窓からの陽光が清々しくも美しく、観葉植物や生花が会場を彩り、活気に満ちている。
部屋の奥にはアレクサンドラやロクサーヌなど、外交使節団の面々が集まりだしている。メイプルもそこへと向かって歩いた。
このあとは正使の二人が首尾を報告し、ニカルノが成果を褒めたたえるという段取りだ。
皇帝の覚えが良いということなので、もしかするとその場で褒美の話になるかも知れない。必死に手に入れたプルケラ家の財産も権益も、絶対に渡しはしない。
そう決意しながら前を見ると、ニカルノが目に入った。近くには王太子クロカゲや王女ニレハなども並んでいる。
艶のある髭を撫でながら談笑し、時折柔らかな視線でロクサーヌたちを見ていた。その目が一瞬だけメイプルに向けられた。途端に、表情が変わる。冷たく厳しいものだった。
いや、きっと気のせいに違いない。
そう思い直したのだが、次の瞬間、メイプルは驚愕のあまり立ち尽くしてしまった。ニカルノの横に、居るはずのない人物を見つけたからだ。
帝都で待ち受けていた、二つ目の誤算である。
メイプルの驚きなど意に介さないニカルノが、朗らかに口を開いた。
「さて、皆さまお集まりいただき感謝する。この度は、皇帝陛下のご下命を受けたイオス王国への使節団が成功裏に帰国したことをお知らせする。詳細は正使の二人にしてもらうが、こちらの客人を見ていただくだけでも、上首尾であることがお判りいただけよう」
そう言ってニカルノは、隣に立つ美男子を紹介した。
背が高く腰を越えるほどの長髪が特徴的な貴公子は、一礼の後に
「イオス王国の書簡官、セネンセ・テプニプタハと申します」
と名乗った。
歓迎の拍手が鳴り響く中、メイプルは叫んでいた。
「何で貴様がここにっ!」
この日の出来事は、後世においてイオニア邸事件と呼ばれることになる。
様々な側面のあるこの事件だが、肝は、魔法使いの勇者メイプルが発狂したとして拘禁されたことであろう。衆目の面前で魔王が復活したなどと喚き散らし、東方藩王国の王太子を爆炎魔法で焼き尽くしたからだ。
五章はあと五話で終わります(予定)




