さらば青春のひかり
槍の柄を握りなおす。
砂塵を受けてざらりと乾いたクロカゲの手は、いつも以上に力を込めないと取り落としてしまいそうだ。
ふと、視界の端に動くものがあった。蛇だ。反射的に槍を振る。
大人の身長の倍ほどもある褐色の毒蛇が、砂埃を突き抜けて襲い掛かって来る。だがもう遅い。疾風のごとく振られた鋭利な穂先は、音を立てて蛇を口から尾まで両断した。
「これで81匹目……」
冥界は、荒涼とした砂塵と薄闇の世界だった。どこまで歩いても、当然ながら人の気配など無い。時折、毒蛇や巨大なハゲワシが襲い掛かってくる。切り捨てたハゲワシは36羽まで数えた。
「十日が過ぎたころかな」
日の昇らぬ冥界で、クロカゲは時間の感覚を保っていた。
東方平原では春と秋に、昼夜の長さが等しくなる日がある。そんな日に、日の出を起点に数えたことがあった。同じ拍子で数を刻むと、およそ四万で日が沈んだ。つまり一昼夜は約八万だ。
そして冥界に降り立ってから刻んだ数は、既に八十万を超えている。
「僕じゃなかったら、死んでるよ。いや、僕も何度か死んだけど」
寂寞としたこの地には、時折、闇の風が吹いた。その漆黒の風に触れると、それだけで命を奪われた。不滅が無ければ、再び立ち上がってはいなかっただろう。
そして、その風が再び眼前に迫ってきた。
「……っ!」
迫りくる闇の霧を避けて、走った。
不滅を持っていても、蘇ると決まっているわけではない。何かのはずみで不滅が働かなければ、本当に死んでしまう。それにもし確実に蘇生すると分かっていても、死ぬのは嫌だ。
砂を蹴って必死に駆けていると、やがて盆地のような場所にたどり着いた。円形の窪みの真ん中に犬面人身の金属像が立っている。
「あれか……?」
冥界の入り口となっていた神像と同じものだ。恐る恐る近づいていくと、懐に入れていた黒い宝石が震えた。入口の神像の手にあったもので、ヘポヨッチに持たされた魔石だ。
懐から取り出すと、神像の右手にそっと乗せた。
その瞬間――。
強烈な反発力がクロカゲを襲った。突風よりも強力で、大波よりも圧倒的な、不可視の力を全身で受けた。弾かれたままぐんぐんと上昇していき、灰色に染まった空へと至り、黒い雲に吸い込まれた。
右を見ても左を見ても、ただ真っ暗だ。上も下も分からない。いや、上昇しているのか、落下しているのかさえ、不確かになった。
何もかもが分からなくなったとき、唐突に耳元でヘポヨッチの声が聞こえた。
「大丈夫か?」
気が付くと、天井も壁も見えない広大な空間に寝転んでいた。
「え?」
床には線上に光が走っており、微かな明りを頼りに辺りを見渡せる。その光が集まる先には、犬面人身の金属像が安置されている。冥界に入る直前にいた部屋に間違いない。
戻ってきたのだ。
「おかえり。なかなか帰って来ないから、心配したぞ。と言っても迎えに行くわけにもいかないからなあ。不滅を持たずに冥界に入れば、余とて帰っては来れん」
不滅を持っている。それこそが、ヘポヨッチが迂遠な手を使ってでもクロカゲに接触した理由だったのだ。
「それにしても、よくやってくれた。余は満足じゃ、満足じゃ」
ひょうきんにお道化るヘポヨッチの手元では、アルフェルニュンフォムが目を開くところだった。
「……あら、ここは? へ……何よ魔王じゃないの」
金髪の美少女が、かすれた声を上げる。
「まさか、本当に蘇生したのか……!?」
「うむ、そのとおり。だが今はとりあえず逃げよう」
自信満々に頷くヘポヨッチのすぐ横に、巨石がズンと落ちて砂埃を巻き上げた。周りから地鳴りのような音が響き、部屋が、大墳墓が、揺れている。
「無理矢理に冥界入りして、無理矢理に這い出してきたからな。門を固着する魔法器具たる大墳墓に、多大なる無理があったのだろう。この様子じゃ、間を置かず崩壊するだろ」
気安く言うと、朦朧とした様子のアルフェルニュンフォムを抱えて機敏に走り出す。それを追いかけながらクロカゲは問うた。
「いったい何が起きたんだ? わけが分からないよ」
「ごく簡単な原初の取引、等価の物々交換さ。クロカゲが持って行った黒い石。あれは大墳墓に分離して保管しておいたヘポヨッチの命だ」
「なんだって?」
「なんだ。こんなところから説明が必要か? 人間とは肉体のほかに霊体や幽体、魂魄など複数の要素の集合から成ることは周知の事実であるが、そこから生命の神髄のみを取り出したことにより、肉体がいくら損壊しようとも生が否定されぬわけだから、死なぬこととなった」
「……以前に言っていた不死の秘密か」
「お、察しの良い子は好きだよ」
元魔王は、倒れ来る石壁をひょいと飛び越えながら笑った。
「そこで等価交換だ。余の命を冥界に送ることで、アルの命を返してもらった」
「……生者の命を送れば、死者の蘇生が出来るっていうことか?」
「おっと、そんなに簡単に考えない方が良い。そもそも本来ならば深淵の王と取引するだけで、計り知れない危険がある。余は昔馴染みだから何とかなったのだけれども。それに、冥界の門は失われた」
「……そっか」
疾走するクロカゲの背後では、今も崩落が続いている。物理的に再建することさえ不可能だろう。ましてや、神威を宿すほどに高度な魔法器具であった神像など、人の手で再現することなど、果たしてできるのか。
きっと、無理なのだろう。
「ま、そういうことであるからして、つまり余の命は死後の世界にあるということであり、これで余は死んだのだ。不死のヘポヨッチから、不死のヘポヨッチになったということさ」
飄々とした言葉に、抱かれたままのアルフェルニュンフォムが噛みついた。
「ちょっと、魔王! あんた、勝手に命を粗末にしないでほしいんだけど? 誰が生き返らせてなんて頼んだ? 頼んでいないわよね?」
さっきまで死んでいたとは思えない剣幕だ。
「困るんだけど? 随分と身勝手で自分勝手な振る舞いだと思うんだけど! ねえ、魔王。あなたも自分でそうは思わない?」
「魔王じゃなくて、元魔王なのだけれども」
「職なんてどうでもいいことでしょ? 人間たちに虐げられたあたしたちが集い憩える場所は、あなたの下だけなのよ。それが分からないから、四大悪魔とかいう配下に好き勝手されて魔王軍が暴走して、挙句に七勇者に討たれることになっているんだけど、自覚あるの?」
「ない。別にどうでもいい。それにアルだって四大悪魔と呼ばれていただろうに」
「なによなによ、許せないわ! あんたがやられたっていうから、あたしは……」
ヘポヨッチがくるりと振り返ってクロカゲを見た。いたずらっぽく笑っている。
「アルの二つ名、“落涙”の由来を教えてあげようか」
アルフェルニュンフォムが慌てたようにその頬を引っ張る。
「人のことを勝手に言いふらすのはよくないと思うのだけれど、本当にそういうところは直した方がいいんじゃないかしら。そろそろ本当に嫌いになるわよ?」
「余と離れると寂しくて泣き続けるから。理由はそれだけ」
「ねえー‼ だからそれは魔王が勝手に言ってるだけでしょう? 私がいつ泣いたっていうのよ、何時何分、文明が何回滅びたとき?」
アルフェルニュンフォムがヘポヨッチのほっぺをぶにぶにと粘土細工のようにこねくり回している。まるで母親に戯れる娘のようだ。
「でもね、アルはこれで余より年上なんだ。ほんの百歳くらいだけどね」
「そうよ! そんなあたしが寂しくて泣くわけないでしょう? まったくふざけた物言いだけれど、まあ今日は許してあげなくも無いわけで、それにはもう少しそれなりの態度が必要だと思うのよね」
色々とぐちぐち言いながらも、ヘポヨッチの胸に顔をうずめている。そして元魔王は、優しくその頭を撫でている。
そんな風に走り続けていると、やがて行く手に白い点が見えてきた。陽光だ。
近づくにつれ、まとわりついていた冥界の瘴気が浄化されていくような気がする。生命と活力に満ちた世界に帰ってきたのだと実感する。
二人そろって太陽の下に飛び出したところで、大墳墓が完全に形を失った。もはや巨大な石材がうずたかく積もっているだけであり、それらも砂塵を巻き上げて脆くも崩れ転がっていく。
ほんの少し前までは、完璧な計算で整えられた美しい四角錐であり、化粧石で飾られた外面は太陽のごとく燦然と煌めいていた。それらは全て、失われた。
「余は、あの大墳墓に生命を分離することで、死を遠いものとして我が世の春を謳歌してきた。だがそれはもう失われた。安穏と遊んでいられる時は、過ぎたのだ」
そうつぶやくヘポヨッチの背は、どこか寂し気に感じられる。だが次の瞬間には、邪気にまみれた目をクロカゲに向けた。
「さて、これでアレクサンドラとアルフェルニュンフォム――かわいい娘を二人、助けてやってほしいのだという余の願いは果たされた。もう余とクロカゲの間にいかなる約束事も存在しないな」
そうだ。
これまでは申し出に付き合うことを条件に、ヘポヨッチは七勇者への復讐を止めていた。これでくびきから解放されたのだ。もう、何が起きてもおかしくはない。クロカゲは、短槍と短剣を取り出すと、強く握りしめた。
ヘポヨッチは邪悪を形にしたような笑みで近づいてくる。
「ところで余は不死となったことで弱点が増えた。不死系の魔物は、物理耐性こそ極めて高いが、火系の魔法や神聖系の術に弱い。具体的には、魔法使いの勇者や神官の勇者が脅威だ。そこでクロカゲに提案があるんだが……」
そしてクロカゲと肩を組み、耳元で囁くように言った。
「二人で共闘をして、やつらに復讐をしないか?」




