大貴族のあとしまつ
ミライコは、目つきの悪い女の子だった。
いっぱいに見開いても三白眼になってしまう。微笑んでも睨んでいると言われ、ぼうっとしていても怖いと言われた。さらに悪いことには、髪も恐ろしくぼさぼさだった。ちょっとでも櫛をさぼると、首から上がいばらの茂みのようになってしまうのだ。
「ミラはとっても可愛いよ」
父は小さいころからそんな風に言ってくれていたので、七歳くらいまでは信じていた。けれど、二つ違いの妹の顔と、鏡に映る自分の顔を見比べるようになってから、真実が見えてきた。
だから幼いうちに見た目を磨くことは諦めて机にかじりついた。歴史や法律を勉強し、社交ではなく実務によって立身する官僚になる。その方向に貴族として生きる道を見出したのだ。実家が貧家でなかったことに甘えて、帝国各地の遊学などもした。
「ミラちゃんはやれば出来る子だから」
幸いにも幼いころから母が言っていた言葉は本当だったみたいで、父の領地経営で発揮した手腕を買われて皇城に詰めるまでになった。
本当に優秀な人は二十歳くらいで皇帝の御前会議に参加することもあるらしいけれど、さすがにそこまでではない。だけど上役が決定した事項の調整に駆けまわったり、書類の作成に汗をかいたりしているうちに評価が上がっていき、ついにはこの対イオス王国外交使節団の随行文官の一人に選ばれるまでになった。
――貢献したいです、この外交交渉の成功に!
そんな強い念願が湧いて出た。もちろん、将来の栄達に繋がるとか、自己顕示欲とか、そういった邪な欲望もある。けれど何より、この巨大な外交事業の一端を任されたという喜びが大きかった。
これまでだって困難な業務であっても、歯を食いしばって何とか突破してきた。大貴族家同士の裁判に関わる膨大な量の書類仕事を片付けたり、繊細な法律の条文の言葉を吟味するために過去の文献を読み漁ったり。そうして乗り越えるたびに達成感と幸福感を味わってきた。
そんな文官ならではの悦楽を噛み締めるため、全力を尽くすつもりだった。もちろん、実際に尽くした。
イオス王国との事前調整では髪を梳く間もないほどに駆け回ったし、条約案の作成では夜を徹しての作業で目の下をどす黒くした。その甲斐あって水面下の交渉は進み、渡航までこぎつけた。
残すはイオス国王へ謁見し調印するだけである。
というところで、盛大に躓いた。いざ渡航してはみたものの、イオス王国の王が病を得たために謁見が出来ぬというのだ。絶望のあまり気が遠くなった。謁見が不可能であること告げるイオス王国の担当官を、ぼんやりと眺めることしかできなかった。だって、ミライコに出来ることなんてないのだからと、そこで一度諦めてしまった。
だけどやっぱり大貴族は違った。
正使のアレクサンドラ様は、イオス王国で国王に成り代わって王国内の意見の取りまとめするというのだ。すぐに考え方の方向転換が出来なかったミライコとは違って、柔軟さが違う。目的を達成しようという執念が違う。そして窮地にも一切動じぬほど、心の強さが違うのだ。
そんな人としての質の違いを思い知った翌日、銀月帝国使節団が逗留する大きな邸宅は殺伐とした慌ただしさに包まれていた。
「誰か文案の確認を手伝ってくれっ。読み合わせしたい」
「こっちは無理だ、忙しい。ああ、紙が足りない。誰か持ってないか?」
「あるけど、在庫は僅少だよっ。誰か買い出しを頼む」
「自分で行けっ」
何せ異国の地に到着した直後に予定が全く変わってしまったのだ。やらなくてはならないことがどっと増えた。
イオス国王への提案として作られていたものを、個別の交渉相手ごとに細分化して整理しなおす必要がある。当然その資料も作らねばならない。折衝予定の者の経歴や為人を調べ直すことも必要だ。手土産を新たに用意し、予算を組みなおし、本国への報告書類も調製しなくてはならない。しかも皇帝から示されている交渉の締め切りは動かないのだ。
外交使節として渡航してきている官僚団は、今まさに忙殺されようとしている。
大貴族様が勝手に予定を変えたせいで、下が後始末に奔走することになるんだ。そんな風に愚痴る者もいたが、ミライコはそうは思わない。
八方ふさがりの状態から、奔走すれば挽回できるところまでアレクサンドラが戻してくれたのだ。首の皮一枚でつながったのだ。
これに同意してくれる同僚も多い。むしろ多数派だ。だからこそみんなは大騒ぎしながらも必死で職責を果たしているのだ。
文官としての将来と矜持を懸けた人々の喧騒を背に、ミライコは正使の二人へ進捗の報告をしていた。
「……以上が、現状の課題です。これを期日に収めようとすると、今の体制ではかなり無理があります。強行すれば人が死にます」
冗談など交えない率直な意見だけれど、ロクサーヌの答えは簡潔だった。
「たとえそうでも、やりなさい」
冷徹な言葉に、ミライコは汗が噴き出した。
正使である二人の大貴族――アレクサンドラとロクサーヌ――は、周囲の評価が全く違う。
ロクサーヌは、四大貴族であるイオニア家の長子だけあって、思考の理路は明晰で、常に果断だ。先見の明に優れており、怜悧冷徹な思考と決断が出来る。自分にも他人にも厳しい実用主義者である。
一方のアレクサンドラは、かつての栄華を失ったとはいえペイライエウス家が出自であり、帝国の柱石であった風格を感じさせる人柄だ。普段は優しく柔らかいのだが、茫洋としていると言わることもある。些細な事を咎めたりもしないけれど、思考の肌理は粗く、疎漏でさえある。だが、一度動き出すと、川の流れを変えるほどに大きな一石を投じることもある。昨日のイオス王国書簡官との対話などが好例だ。
職務に忠実であり、冷静で厳しく完璧を求めるロクサーヌ。大海の大波のごとく漠然としながらも、いざとなれば全てを押し流すアレクサンドラ。ミライコや同僚たちが抱くのは、そんな印象だ。
だからこそロクサーヌの言葉は、ミライコに刺さった。
忌避間や負担感からではない。使命感だ。
突然の計画変更や作業の増大で、不安に駆られてしまっていたが、そもそも我々に逃げ出すという選択肢はない。使命に向けて邁進するロクサーヌの言葉が、それを思い出させてくれた。
自らの責務を改めて噛み締めるミライコに、ロクサーヌが問いかけてきた。
「あなた、名前は?」
「サロニコス地方のリンセイ家でございますです」
家名を名乗ったが、実は今回の外交使節団を組む前にも、ロクサーヌには会っていた。イオニア家のサロンで挨拶をしたことがあるのだ。あの時は父の付き添いとして後ろに控えるだけだったので、さすがに覚えていらっしゃらないだろう。
そんな配慮があったのだが、不要だった。
「家名は知っているわ。個人名を聞いているのよ」
「あ、え、ミ、ミライコでございますです」
驚愕した。あのイオニア家の令嬢が、こんな平凡な貴族の顔と姓を覚えていたというのだ。さらに驚くことに、ロクサーヌは凛とした瞳に熱意を宿しながらミライコを見た。
「ミライコ、我々は今、帝国外交の要衝にいると思いなさい。帝国のために親征されている皇帝陛下が、戦地から勅命を下されたの。これを為せるか否かで、臣民一千万人の命運が決まるの。ならば私たちの命など、今は安いわ」
ロクサーヌはミライコたちに死ねと言ったわけではない。共に死地にある仲間として、共に戦おうと言ってくれているのだ。事実、こうして報告を聞く間もロクサーヌの手は動いている。訪問予定者への挨拶の文案を自ら書き添削しつつ、イオス王国における会見の風習との齟齬が無いか確認を怠らない。いくつもの仕事を同時に、精力的に進めている。
自ら先頭に立って勤勉に働きつつも、戦友としてミライコたちの叱咤激励もし、監督もしている。遥か雲の上にいるはずの大貴族がそんな姿を見せるのならば、奮起するしかない。
ミライコの湿っていた胸の内がからりと乾き、火が燃え盛り始めた。活力が全身に満ちて来る。
一人黙して気合を入れていると、アレクサンドラが資料を繰りながら付箋を付けていた手を止め、ふと口を開いた。
「食事と睡眠はあんまり忘れないようにしてくださいね。本国に増員もお願いしたいところだけど、船が往復してるうちに期日を過ぎちゃうですよ」
やはり優しい。貴族社会は上意下達が常だ。力ある者が下風の者を使う。それこそ道具のように使い捨てる者さえいる。だのにこの少女は、ミライコたちを一個の人間として見てくれている。上に立つ者としては失格だけれど、一人の人間としてはこの上なく好感が持てる。
ロクサーヌが自ら先陣を切って他を引っ張る闘将ならば、アレクサンドラは優しく守りながらも背を押してくれる城将だ。ただそこにいるだけで安心感がある。
「あ、いいこと思いついた。護衛の人達の半分を文官に転任させよう。チトスとか、書類仕事も交渉もできるはずだし、ね?」
そんなことを言い出すと、近くに立っていた護衛の青年は「ずいぶん無茶を言う。だけど……できないことも無いか」と言いながら警護予定が書かれた紙を取り出して朱を入れ始める。魔法使いの勇者すら、少しの不機嫌さを放つだけで粛々と計画の見直しを始めた。やっぱり粗雑だけど、彼女が動けば周りも動く。この調子でイオス王国という巨大な敵も、手の内で転がしてしまうんじゃないだろうか。
そんな思いが湧いたのもつかの間、ミライコはまたしても飛び上がることになった。
「あ、そうだ。交渉事とかで困ったら、いつでも私の――ペイライエウスの名前を使っていいですからね」
大きな後ろ盾は、折衝において切り札の一つだ。貴族の常識であるし、帝国社会における普遍の認識だ。ミライコも上官の名を受けて行動するときは、この主張が誰の意思であるかを先方に伝える。その結果、上役の力関係で有利に働くことも多い。
だがしかし、自らの名を自由に使えと言う者などいない。名を使って無理を通せば、家名に傷がつく。そんな危険を、他人に許すものではない。重代の忠臣に、稀に使わせる程度だ。あるいは自らの氏族に取り込もうとする相手に許すものだ。アレクサンドラらしい、大層な抜けっぷりといい加減さだ。
それに、今は昔ほどの家勢ではないとはいえ四大貴族の筆頭たる家名だ。ミライコにすれば、出せば勝利が約束される抜き身の宝剣をいきなり握らされるようなものだ。
「ひえ、そ、そんな。恐れ多いことでございますです」
「そういわず、使えるものは何でも使って下さいね。そこそこ使えると思うんですよ」
そこそこなんてものではない。
今後も交渉は多数控えている。正使の二人が主役を張る会談だけでは無いのだ。その日程を調整し、事前に相手方の実務者と資料を共有し、事後に取りまとめることも必要だ。複数の会談を経れば、以前の内容に手直しが必要になることもあろう。
いや、異国で生活するならばそれ以外にも無数に調整が必要な場面は出て来る。当方の警備警護役とイオス側の衛兵とが調整を求められることもあるだろう。日々の生活のために食料や物品を買い入れる必要もある。ことがあるときにペイライエウスの名が使えれば、どれだけ助かることか。
このイオス王国では、場合によっては帝国本土よりペイライエウスの名が通用する。王国民とすれば、帝国は長きにわたって対立する憎き仇敵だが、唯一ペイライエウス家だけは親愛と尊敬、そして恐怖を抱いて見る対象なのだ。それもこれも、歴代のペイライエウス当主が平素は親しく付き合い、いざ戦となれば勇猛果敢に正々堂々と戦い抜いたからだ。
そうして長い年月と多くの努力の果てに築かれたペイライエウスという栄光ある名を、使って良いというのだ。
「か、畏まりましてございますです。御家名、過たずも怯えず頼りにさせていただくこと、ここにお誓い申し上げますです」
深々と頭を下げる。ミライコの後ろでは、話を聞いていた同僚たちが立ち上がり同様に礼をしている。難事にあってこれほど頼もしい主家があるだろうか。皆の熱意に火が付いていたのだ。
ミライコは――当然アレクサンドラ自身も――予期していなかったが、この外交使節団に参加した者たちは、ペイライエウスの名を使うことで「我こそはペイライエウスの一員である」と自然に自認していくことになる。
そして後にペイライエウス党と呼ばれ、後には新生ペイライエウス家を盛り立てていく優秀な官僚団へと発展するのだった。




