殺しのターゲットの恋人が元カノだった件
「もうこれ以上、あなたと一緒にはいられない」
真っ暗な部屋の中で、目尻に涙を溜めながら、彼女――大林美夜子はそう言った。
美夜子と交際を始めて、早3年。キスをはじめ、恋人たちが経験することは一通り済ませて、最近では半同棲生活を送るようになっていた。
そんな順風満帆な交際の最中で切り出された、突然の別れ話。俺の目の前は、真っ白になっていた。
「美夜子……」
美夜子と別れたくない。美夜子を離したくない。独占欲が体内から溢れ出した俺が、彼女を抱き締めようと一歩近づくと、
「いやっ! 来ないで!」
間髪入れずに向けられる拒絶。
演技ではない。これこそが、美夜子の本心なのだ。
「そんなもの着ている人に、抱き締められたくなんてない」
美夜子は俺の服を――返り血がべっとり付いた服を見ながら言う。
「道端で大怪我を負った人を助けていたんだ。これはその時浴びた返り血だ」。そう言えたら、どんなに良かったことか。
しかし実際に俺のやった行為は、人の命を救うのとは正反対の行為。俺は人を殺めて、この返り血はその時浴びたものだった。
殺し屋。それこそが、俺の仕事である。
そして俺は自身が殺し屋であることを、美夜子に告げていなかった。
「外交官だって言ってたよね? 仕事が忙しいから家にもあまり帰れないし、デートもたまにしか出来ない。そう言っていたよね?」
「……あぁ、そう言った」
「でもそれは、嘘だったわけだよね! 私をずっと騙していたんだよね!」
嘘をついていたことは認めよう。でも、好きで嘘をついていたわけじゃない。本当のことが言えないから、仕方なく嘘をついていたのだ。
「今まで外交官って言っていたけど、ごめん、実は俺の仕事は殺し屋なんだ」なんて、表の社会で生きる彼女にどう伝えれば良かったっていうんだよ。
騙したままじゃダメだ。真実を打ち明けなければ。常々そう思っていた。でも――
殺し屋だと知れば、美夜子は俺から離れていってしまうかもしれない。仮にそばにいてくれたとしても、俺の素性を知っていればいつか必ず危険な目に遭わせてしまう。
そんな不安が俺から真実を語る機会を奪い続けたのだ。
涙を流しながらも、美夜子は俺を睨み付ける。
「殺し屋って、自分の正体を知られちゃいけないんだもんね。だからあなたの名前も、本当の名前じゃないんでしょ? 誕生日も趣味も、私に教えてくれたことは全部全部嘘なんでしょ?」
「……っ」
俺は美夜子の指摘を否定出来なかった。なぜなら、彼女の言っていることは正しいのだから。
何も答えないことこそ答えだと判断したのか、やがて美夜子は諦めたように俺から視線を逸らした。
「私を愛してるっていう気持ちさえも、きっと――」
「それは違う!」
今までとは一転し、俺はすぐさま美夜子の言葉を否定する。
「確かに俺はお前に沢山の嘘をついてきた! それどころかこれまでお前に話してきたほとんど全ての事実が偽りで、結果的にお前騙していたことになるのかもしれない! でも! お前のことを愛している。その言葉と気持ちだけは、俺がお前に告げることの出来た唯一無二の真実なんだ!」
「そんなの……信じられないよ」
散々嘘をついてきたんだ。今更「信じてくれ」だなんて、虫が良い話である。
「そう……だよな」
結果俺は、美夜子の主張を受け入れることしか出来なかった。
俺にとってこれは初恋で、だから必然的に初めての失恋ということにもなる。
クソッ、何なんだよ、この気持ちは。こんな気持ちになるくらいなら、美夜子を愛しているという感情さえも嘘であって欲しかった。
「さようなら。もう二度あなたと会わないことを願っているわ。名前も知らない私の元カレさん」
そう言って立ち去る美夜子を、俺は追い掛けることが出来ない。そんな資格、あるわけがない。
こうして俺こと殺し屋・大鴉の、最初で最後の恋愛は終わったのだった。
◇
美夜子と別れて、1年が経過した。
あの夜以降、俺は誰とも恋愛をしていない。
恋愛に臆病になっているのも理由の一つだけど、それ以上に、美夜子ほどの良い女と出会う機会がなかったのだ。
もしかすると、俺は美夜子以上の女とはもう巡り会えないのかもしれない。
だけど、それならそれで別に良い。恋が出来ないのなら、仕事に生きれば良いだけだ。
皮肉なことに、美夜子と別れて一切の隠し事がなくなったことで、殺し屋というすこぶる順調だった。
この日も俺は、殺しの師匠であるコードネーム「死神」に呼び出されていた。
路地裏でひっそり経営しているとあるバーにて。俺は死神と落ち合った。
「急な呼び出しに応じてくれて感謝するぞ、大鴉」
「気にしないで下さい。どうせ暇なんで」
「そうか。1年前まではあまり付き合いが良くなかったのにな。一体どういう心境の変化だ?」
変化したのは心境ではなく、環境だ。フラれたことで、俺はそれまで美夜子に費やしていた時間を持て余すようになっていた。
「師匠とはいえ、殺し屋のプライベートを詮索するのはマナー違反でしょう?」
「上手い誤魔化し方だな。……まぁ良い。受ける仕事の量も増えているし、私としては何一つ文句はない。……で、呼び出した理由は他でもない。新たな依頼だ」
言いながら死神は、一枚の紙を俺に見せてきた。
「今回のターゲットは、千丈アキラ。保険会社勤務の、26歳。見てわかる通り、どこにでもいる若者だ」
「そんなどこにでもいる若者相手に、どうして殺しの依頼が? しかも俺を雇うなんて、余程の事情があるんですか?」
自分で言うのもなんだが、俺は日本でも指折りの殺し屋だ。端金を提示された程度じゃ動かない。
俺に仕事を依頼したいのなら、最低でも1000万は用意するべきだろう。
つまり今回の依頼者は、1000万位上の大金を用意したというわけで。素人でも殺れそうなこんなクソガキに、俺を差し向ける理由は何なのだろうか?
「実はこの男……志島晴臣の息子なんだ」
「こいつが志島晴臣の!? 嘘ですよね!?」
志島晴臣……彼は日本有数の資産家「だった」男だ。
しかしつい先週、老衰で亡くなっている。
「信じられないかもしれないが、まごうことなき真実だ。……こいつは志島が愛人に産ませた子供なんたけどな、あろうことか志島晴臣は妾の子に遺産の全てを譲ると言い残しやがったんだ」
「それに納得のいかない本家の者たちが、殺しの依頼を出した。そんなところですか」
「察しが良くて助かる。成功報酬は3億円。前金として既に1億受け取っている。こんなに大きな仕事は、そうあるものじゃないぞ。……わかっているよな、大鴉?」
「失敗は許されないぞ」。死神は案にそう言っている。
失敗出来ないからこそ、死神は数多いる弟子の中でも最も頼りになる俺にこの依頼を任せたのだ。
「わかりました」
俺は力強く頷く。
「この大鴉、必ずや依頼を完遂させて見せましょう」
◇
千丈アキラの自宅は、家賃6万円台のアパートだった。
アパートの隣には廃ビルがあり、俺はそこのトイレから千丈アキラを狙っていた。
トイレ窓から突き出す銃口は、真っ直ぐに千丈アキラに向けられている。
時刻は深夜1時を回ったあたり。周囲の家の明かりは消えており、殺しには最適な時刻だといえた。
「狙いを定める前に、スマホの電源を切っておかないとな」
以前引き金を引く直前で、美夜子から電話がかかってきたことがある。あの時は突然だったのでびっくりしてしまい、思わず誤射するところだった。
そんなことがあったせいか、俺は仕事中はスマホの電源をオフにしている。彼女から電話がかかってくることなんてもうないというに、その習慣は抜けていなかった。
スマホの電源を落としてから、暗視スコープを覗き込む。するとそこに映ったのは――ベッドの中で愛を確かめ合う男女の姿だった。
男の方は、千丈アキラだ。間違いない。
まさか人に見られているなどと思っていないから、恥ずかしげもなくチュッチュッしている。その光景を見て、俺は心底驚いた。
「……美夜子」
千丈アキラとキスをしているのは、なんと美夜子だったのだ。
仕事柄、俺は一度見た人間の顔は忘れない。ましてや元カノの顔を忘れて、見間違えるわけがない。
それでも信じたくないという思いからか、一度暗視スコープから顔を離し、目薬を差した後、再び覗き込んだ。
……美夜子さんや。さっきより過激になっていませんか?
仕事とはいえ、元カノが新しい恋人とイチャイチャする姿を見るのは、かなり応えるものがあった。
危険な依頼はこれまで幾度となくあったが、ここまでの大ダメージを受けたのは初めての経験だぞ。
俺はプロの殺し屋だ。たとえ美夜子と抱き合っていたとしても、彼女にかすり傷一つつけないで千丈アキラを殺すことは容易い。
弾丸が一発あれば、それで仕事は終わりだ。
だけど、暗視スコープ越しに美夜子を見ていると、引き金を引くのに躊躇してしまう。
嘘をつくのが上手い俺は、嘘を見破ることにもまた長けている。相手の目を見れば、嘘をついているか否か瞬時に判別出来るわけで。
千丈アキラと愛を語り合っている美夜子の気持ちに、偽りはなかった。
千丈アキラが死ねば、きっと彼女は悲しむ。
俺と愛し合っていた頃と同じくらい……いや、それ以上に幸せそうな彼女の笑顔が、一瞬にして悲しみに覆われてしまう。
俺は美夜子を幸せに出来なかった。それなのに、今度は彼女から幸せを奪おうというのか。
美夜子に名乗った名前は、偽りだ。誕生日も趣味も、何もかもが嘘だ。
それでも美夜子を愛しているという気持ちだけは、別れて1年が経った今でも変わらぬ真実であり続けている。
仕事の成否よりも、どこかの金持ちの遺産問題よりも、世界平和よりも、俺にとっては美夜子が幸せでいてくれることが何よりも大切なんだ。
俺は構えていたライフルをしまい始める。
すみません、死神。俺にはこの依頼、達成出来ませんわ。
今夜の予定はなくなった。さて、これからどうしようかな。
そうだ。このまま行きつけのバーで、どぎつい酒を朝まで飲むとしよう。
そう思いながら、俺はこの場をあとにするのだった。




