第五話 シリウス 6
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『ごめんね、もう、寝てたかな』
初めて聞く、電話越しの彼女の声。トイレの中で僕は感動し、『輝君?』と呼ばれ、慌てて言葉を返す。
「……寝てません、井口、……幼なじみがもう寝てて、家のひとも、……今、トイレで、声小さくてごめんなさい」
井口の家は十時には電気を消してしまい、弟におばさん、井口もすぐに眠ってしまう。
僕も、いつもなら寝る時間で、井口のでかいいびきも気にならず眠りにつける。
……今日は、彼女のことをとりとめもなく考えて、眠れないでいた。
『そっか、ごめんね。切るね』
「何で!」と、大きな声を出してしまい、小さく僕は言った。
「……何か、あったんじゃないんですか」
何かなくても、電話をかけてきてくれたことが嬉しい。声をまだ聞いていたい。
そう、思っているままを、恥ずかしくて口には出来なかった。
『明日、もう今日だけど、夕飯、何がいいかなって』
僕は、力が抜け、少し考えてから返す。
「……何でも、いいですよ」
『そっか、分かった』
「……さっきみたいに。困るって、言わないんですね」
思ったままを言った僕に、彼女は少しして言った。
『言ったほうが、もう少し、輝君と話せたかな』
ぎゅんっと僕の心臓をわしづかみしたあと、彼女は続ける。
『ごめんね、何かはないんだけど、声が聞きたくて』
……無意識かわざとかは分からないけれど、……どうして、そんなに。
「……僕が、嬉しいことばかり、言わないで下さい」
思ったままを言ったあと、少しして、小さくなった彼女の声が聞こえた。
『どうして、嬉しいの』
「……あなたが、好きだからです」
しんと電波の向こうが静かになったあと、とても小さく聞こえた。
『私は、消えなきゃいけない、化け物だよ』
「違う。化け物じゃない。消えないでいいです」
はっきり言うと、また静かになり、声色を変えて彼女が言った。
『お願い、そういうことはもう言わないで、私をもう見ないで』
緩んで、柔らかい。なでしこさんのものじゃない。透明で固い、しんと静かな声。
彼女の本当の声が、僕はとても好きだと思い、言った。
「じゃあ、もう、戻らないほうがいいですか」
言ったあとすぐに後悔したが、仕方ないと思った。
……うぬぼれかもしれないけれど、僕を、彼女は意識してくれている気がする。
それは、僕が好きと言ったことを、受け止めてくれたからだろう。
……僕を、ちゃんと、見てくれているからだろう。
笑顔は見られなかったけれど、それだけでもいい。
……もう、一緒に居られなくても、僕の恋は意味があった気がする。
そう、自分の中であきらめがついたときだった。
『ごめん。君が戻らないの、いやだ』
聞こえた彼女のかすれている声が、とても小さく続けた。
『戻ってきて、今すぐ』
「はい」と返し、僕はすぐにトイレを出て、玄関に向かうと「テル」と呼ばれた。
「これ着ていけー、傘役に立たないぞ」
うしろに向くと、カッパを差し出す井口が立っていた。
「テル、すげー、男の顔になってんなあ」
カッパを着ていると言われ、「元からだよ」と玄関を出た。
階段を早足で降り、外に出ると雨風に全身が包まれる。街灯が少なく人はもちろん車も通らない道、雨に打たれ風を受けながら進む。
台風ではないことを、時折鳴る雷が教えてくれる。深夜、こんな悪天候の中出歩くなんて、夏休み前は思わなかった。こんな、どうしようもない気持ちを抱えて、彼女の元へ急ぐことになることも。
カッパを着ているが、全身ぐっしょり濡れて、それが不快でなく丁度いいと思う。
身体の奥からの温度で全身熱くて。早く早くという気持ちを、水で重くなった服と靴がゆっくりにしてくれる。
少しづつ近くなる。彼女ともうすぐ会える。浮かれた気持ちで着くと、荒れた闇を背に、おばけ屋敷は身体を震わせていた。
窓や戸から中の灯りは見えず、玄関の鍵を開けて中に入った。雨風に代わり、薄い暗闇が僕を包み。電気を点けようと壁のスィッチに触れたとき、ばさりと、頭から全身が包まれた。
タオルケットだろうに包まれ、僕はカッパごとわしゃわしゃともまれ始める。
「……ごめん、外、雨なの知らなくて」




