第三話 ベガ 9
……女子と手をつなぐのは、幼稚園以来じゃないだろうか。
彼女とは正反対、とても熱い僕の温度は不快ではないか。聞けず。彼女の寝息を聞きながら、僕は、今何から考えればと思う。
そういえば、さっき井口に言われた。夏休みの後どうするか。アパートはなくなった。ここには、もちろん居られない。お盆休みには家に戻る。
……また、僕はわがままを言って、母さんと義父さんを困らせるのか。
そう思ったとき、ぐいっと、繋ぐ手を引っ張られた。
「……寒いから、こうしててね」
僕は布団に倒され、後ろから薄いタオルケット越しに抱きつかれてしまった。
「……輝君は、あったかくて、気持ちいい」
心臓の大きな音が聞こえてしまうんじゃないか。とても動揺している僕とは正反対、なでしこさんは落ち着いた声で小さくゆっくり続けた。
「……今、ここに居てくれて、嬉しい」
多分、いちごちゃんの様に思われているんだろうけれど。それでも、こっちこそ嬉しくて。なぜか、泣きそうになった。
「……居ますから、寝て下さい」
涙を我慢して小さく返したあと、少しして、小さな寝息が聞こえてきた。すーすーという音を聞いていると僕の心臓の音は静まっていき、自分のとは違う音を背中に感じた。
変な気持ちはなくなり、とろりとした柔らかさに包まれ。色々考えることはいっぱいあるけれど、いいやと思った。
……こうして、今は。……居るだけで嬉しいって言われることが、嬉しいから。
そう思い、両目を閉じて、目を覚ますとひとりだった。
「あ、おはよう。お腹空いてない? ご飯、食べない?」
明るい隣の部屋に入り、まぶしさに目を閉じて開くと、驚いた。
「いちごちゃん、ご飯は、輝君にだけです。さっき、食べたばっかりでしょ」
いちごちゃんに言い聞かせる彼女の姿に、僕は固まってしまった。
緩くウェーブしている髪の毛を上半分まとめ、コバルトブルーの膝下のタイトなワンピースを着た姿。元から大きい目に細いラインを引き、濃いピンクの口紅をつけて、お化粧をしている顔。
まるで、百貨店のマネキンの様な、初めて見る華やかな姿のなでしこさん。
「お店に出るときは、お金を払ってもらうのにふさわしい格好をしなさいって、ルミ子さんに言われてるの」
見とれているのに気づいたんだろう。別人みたいに見える彼女が、笑みを浮かべて言った。
「一時間後にタクシーを頼んでるから、ご飯食べて行こうか」
壁の時計を見ると四時少し前で、ぐうっとお腹が鳴った。エプロンを着けて彼女は台所に立ち、僕は洗面所で顔を洗ってからちゃぶ台に着いた。
「レーズンとナッツはお好みで、らっきょうは衣笠さんからのおすそわけ。おかわり遠慮しないでね」
目の前には、白いご飯の上カレールーが平らに盛られたドライカレー。
カレーの上には薄切りのゆで卵が飾られ、いかにもおいしそうな見た目とスパイシーな香りに「いただきます」とスプーンを伸ばす。
卵を崩さずに一口。辛いのあと、スパイスの色んな味。そのあとには甘みが残る。家とお店半々みたいな味は、とてもおいしい。卵を崩して食べるとマイルドになっておいしい。トッピングを少しづつ乗せる、味が変わってぺろりと平らげてしまった。
「輝君、見てると、食欲わいてくる食べっぷりだねえ」
そう言ったなでしこさんはまだ半分も食べていなくて、おかわりは自分で盛り台所からちゃぶ台に戻る。
「なでしこさんは、色んなご飯を作れるんですね」
酢漬けのらっきょうの酸っぱさで、頬の裏がひっぱられたまま言った。
「ルミ子さんとせいちゃんが、苦労して教えてくれたから」
僕のグラスにピッチャーから水を注いでくれ、彼女は教えてくれる。
「私がいつまでも料理が下手だから、色んな食べ物屋さんに連れていってくれたの。十三の駅の周りって、色んな国の色んな食べ物屋さんが多くて。食べ物に興味がなくなってたのに、おいしいと思うものがいっぱいあった」
冷たい水を飲むと、レモンの味がかすかにした。僕は、黙って、ずっと聞いていたい彼女の声を聞く。
「おいしいと思ったものから、作れるようにがんばった。このドライカレーは、私の初めての成功作。ひとは、興味があるから、頑張って上手くなろうとするんだって教えてもらったの」
「……どうして、食べ物に興味がなくなってたんですか?」
引っかかってしまったことを質問し、聞いて大丈夫だったかなと思う。
「高校卒業と同時に一人暮らし始めて、仕事が忙しくて、空腹が満たされたら何でも良くなってたの。満腹になると頭が回らなくなるから、空腹との真ん中を保つ為に、今みたいなちゃんとしたご飯を食べる事はなかったなあ」




