第三話 ベガ 7
小さいへらでヨーグルトに似たお菓子を食べながら、井口が教えてくれた。「それだけ」と拍子抜けした僕は、チョコレートのかかったとうもろこし味のバーを食べる。
「ああ、あと、お世話になってる人のところに、一度、あいさつに行ってもいいか聞いといてって。なんか、照れてて、キモかった」
僕は、ははっと力なく笑い、良かったと思う。
「井口、今居るのは、その人のところじゃないんだ」
「だろうな、なんか、優秀な弁護士が住むところじゃねえって思った」
「僕、ここに、さっきのおばけじゃない人の家で、夏休みの間居ることになった」
「え、じゃあ、あの女の人とふたりで暮らすんか」
井口に言われ、少しして、顔がとても熱くなる。
「いーなー、こんなきれいで静かな部屋で、女の人とふたり暮らし! ジュース濃いし! 変わってくれよ!」
井口は五人兄弟の真ん中。僕は母さんとふたりだった2LDKに、お母さんを入れて六人で住んでいる。お父さんは長距離のトラック運転主でほとんど居ないが、いつもぎゅうぎゅうで、明るい声が響いている。
井口と井口の家族は、僕をよく構ってくれた。お陰で、一番下の小二の弟には親戚の子だと思われ、クリスマスや誕生日に長期の休みを寂しいと思うことはなかった。
「大学は寮のあるとこ行くんだろ、部活抜けてきて良かったのか」
「輝、ここのが居心地いいだろうけど、ウチ来てもいいんだぞ」
普段は、いくら注意してもテルと呼ぶのに。真面目な顔と声で井口が続けた。
「姉ふたりがリゾートバイトってやつ行ってさ、この夏休み中、男子ばっかりで気を使わなくていいぞ。弟達喜ぶし、母ちゃんは俺より輝のこと好きだし、大歓迎だぞ」
井口と一歳と二歳上のお姉さんふたりは仲が良く、学費をバイトで稼ぎながら同じ美容師の専門学校に行っている。
井口は中学の時から県大会常連の長距離走者で、すでに奨学金をもらえる大学のスカウトを受けている。高校から強豪校に行けたのに、近距離ドライバーで忙しいお母さんに代わり弟達の面倒を見る為近くの学校に入った。
そんな井口の家には行けない。事情を話せば、絶対に誘われるのが分かっていた。仕方ないけれど、担任を少し恨む。
「誰にも迷惑かけたくないとか、思ったんだろうけど。俺には頼れよ」
口をとがらす井口は、幼稚園の頃から顔が変わっていない。
「あんま食べなくて散らかさない輝がひとり増えても、うちは迷惑じゃない。なんなら、卒業までうちに居ていいって。さっき、母ちゃんに電話したら言ってた」
予想通りの井口のお母さんの言葉に、喉の奥が痛くなった。
「輝、来年には姉ちゃんふたり居なくなるし、井口家の覇権ふたりで取れるぞ!」
明るい声に、うっかり出そうになった涙がひっこみ、咳をひとつしてから返す。
「……お姉さんたち、ふたりで暮らし始めるんだ」
「ああ、一番上が就職するからついでに次のネエも、あ、話そらしただろ!」
「じゃあ、あの家寂しくなるな、お前もいなくなるし」
「ふたりは近くに住むし、俺が大学で出ていっても、週末には戻って家事と弟の面倒見ろって母ちゃんに言われてる」
「あっ、また」と言った井口に、僕は緩んだ顔で答えた。
「井口のいびきうるさいから、やだ」
「何だと、たまにだけどテルもかいてる時あるからな!」
向けられた軽いパンチを手のひらで受け、答える。
「夏休み中は、ここに居る。その後は、まだ考えてない」
夏休みの前日から、まだ三日。色々なことが起きて、色々な話と事情を聞いて、ここに居ると決めるだけで精一杯だ。
「そうか、じゃあ、気が変わったらいつでもウチに来いよ。遊びに来るだけでもいいし」
「部活で忙しいだろ、弟の面倒も」
「部活は日曜完全に休みだし、彼女なんかいないし、弟の面倒一緒に見てくれよ」
「考えとく」と返すとにかり笑った顔。いきなり真面目にして井口が言った。
「おばさんが、テルの一人暮らしを許してくれたのから意外だったけど。新しいお父さんは、意地悪なんか」
もう一度「意地悪なんか」と小さく聞いた、井口の本当に心配している顔。僕は吹きだしてしまった。
「ひでえなあ、真面目に心配してんのに」
「センシティブな話題に、とうとう斬り込んできたなあって」
「取り扱い注意だっけ。まあな、俺ら、思春期まっただのガキだからな」
「あ、僕、ガキじゃないらしい。……担任の友達、優秀な弁護士に言われた」
「なんだと」と僕の首を筋肉質の腕で絞め、井口がぼそり言った。
「まじ、どうにもならんときは頼ってくれんと、寂しいぞ」
振り向くと、「いてええっ!」の声とともに腕が離れた。
「輝! おしり! 食べられて、なくなる!」
数時間前の衣笠さんの様に、いちごちゃんにお尻をかまれている井口。目の前の姿に顔が緩み、お陰で、ひとつ落ちた涙に気づかれなかった。




