第三話 ベガ 5
僕は顔を洗ってきてからちゃぶ台の前に座り、なでしこさんと向かい合い「いただきます」と一緒に言って食べ始めた。
彼女は、静かに、少しづつ箸を動かす。ゆっくりできれいな動きは、少しも気持ち悪くない。ふたり無言で食べるが、気まずさは感じなかった。
白いご飯、ワカメと豆腐の味噌汁、言うとおりおいしい炒め物、だし巻き卵、きゅうりとナスの浅漬け。全部おいしくて、おかわりまでしてしまった。
「ごちそうさまでした。輝君と一緒に食べると、ひとりの時よりおいしいよ」
同じことを思っていたと返す前、玄関の戸が大きく叩かれた。
いちごちゃんの飼い主の田畑さんが「朝からすまない」と言い、本当にすまなそうな顔で居間に上がり、話を始めた。
「ばあさんが、入院と手術をすることになったんだ。悪いんだが…」
「いちごちゃんのことは任せて、田畑さんは、看病がんばって下さいね」
「ありがとう」と言ったあと、田畑さんは本当に残念そうに言った。
「明日は『だいあんさす』の日だから。ここのところ練習してた、ばあさん落ち込んでな」
「今月は、そうなんですね。入院は明日からなんですか」
「ああ、手術もな。命に関わるようなもんじゃないんだけど」
「じゃあ、今日、開けちゃいましょうか」
「そんな、うちのばあさんの為に、せいちゃん衣笠のところで忙しいんだろ」
「今日は、私がお店を開けます。ご近所のみなさんに、伝えておいてくれませんか」
「ええっ」と田畑さんは大きく言い、彼女は「待ってますね」と言った。
二人の分からない会話のあと、僕はいちごちゃんと一緒に田畑さんの家に向かった。
大きないちごちゃんのごはんの袋、皿にペットシーツと大きなトイレ。人間用だろうがいちごちゃん愛用の枕を台車に乗せた。
「いちごはトイレを朝夕の散歩中にするが、後片付けは丁寧にな。外から部屋に上がるときは、足を拭いてからにしないと床が汚れるからな」
田畑さんはいちごちゃんの世話の仕方を細かく教えてくれ、表情を緩めて続ける。
「心配してたが、なでしこちゃん、ルミ子さんの家に来てから一番いい顔してる。坊主、ありがとう。ルミ子さんも喜んでるだろうよ」
「そんな」と返すと、田畑さんは笑みを消して続けた。
「なでしこちゃんは、周りのせいで、どちらにでもなれる子になってしまった」
「どちらにでも」とつぶやくと、いちごちゃんが足に顔をすりつけてきた。
「坊主、なでしこちゃんを綺麗な女性だと思うか」
もう苦手じゃない、いちごちゃんの頭をなでていると言われた。
僕が小さく「はい」と返すと、田畑さんは「そうか」と言い固い声で続けた。
「なでしこちゃんみたいな人間は、とても目立つ。悪い輩から目を付けられやすい。周りが守ってやらないとダメなんだ。ご両親は危機感が薄かった。だから、妹がなでしこちゃんを誘拐犯から救った。それから、妹に縛られたまま、なでしこちゃんはまっとうに生きられてない」
田畑さんが肩を強くつかんできて、僕は質問し損ねた。
「あの家に居て、何か起きたら、すぐにこの辺りの大人に助けを求めなさい。どんなささいな事でもいい、坊主からすれば大人だが、私らからすれば、なでしこちゃんは危なっかしい子供だ」
元警察官と言っていたのが分かる、鋭い視線に捕らわれ。僕は「はい」と小さく返して、いちごちゃんと台車を押して帰った。
玄関に入ると出迎えはなく、靴を慌てて脱いだ。一階のふたつの部屋、台所、洗面所、トイレ、一階に居ないのを確認して階段を急いで上がっていたとき。聞こえてきた小さな鼻歌に、足を止めた。
後ろを着いてきていたいちごちゃんも止まっていて、足を拭いてないのに気づき、力の抜けた身体で一階へ降りる。
「おかえり、体調大丈夫? ちゃんと、水分取ってる?」
二階から降りてきた、洗濯ものを両手にしているなでしこさん。黒い髪の毛をほどいて、明るい笑みを浮かべている。
僕はほっと息を吐き、なでしこさんは洗濯ものを片付けてから隣に座った。




