仲直りの握手
ひとしきり彼の胸で泣いた後、私達は外に出て、道中あった下り階段を降りつつ散歩を始めた。
彼との会話は懐かしくて、妙に弾みが良かった。
話題も転々としていたのだが。
「エマ、これからどんな子に育つんだろうね」
エマの話に行き着いた。
そうか、今のロームにはあくまで、私と別れる前の記憶しかないのだ。
これから私の所為でどんな目に合うか、知らないのだ。
「・・・ごめんな」
「え、なんて?」
「いや、なんでもない。それよりエマの将来の話だったな」
「そうそう」
正直、ロームがわからない話題な挙句、完全に許されたいだけのエゴの謝罪だったから早々に流して、閑話休題。
エマの話にした。
エマはどんな子に育つか、その答えを、彼よりわずか数年分知っている。
エマが、どんな子に育ったか。
そんなもの決まっている。
「良い子さ」
「え?」
「良い子に育つさ、そうに決まっている」
そう、決まっている。
なにせ私はもう見たのだから、確定事項に変わらない。
「ははは、だね!」
「そうさ」
快活に笑う彼に一瞥すると、少し胸が高鳴った。
懐かしい。
昔はこれが恋とすら思わなかったのだ。
成長、したのかもしれない。
「ねえ、ところでなんだけどさ」
「え、なんだ?」
「その手袋、やっぱり外さないの?」
「え、ああ」
「なんで?」
「なんでって・・・知ってるだろう?」
そう、私がこの手袋を外さないのは、穢れた手でエマに触らないため。
ここ最近エマとの仲が戻りかけても、これだけは絶対に外さなかった。
私の、重い十字架。
「まあ、それはそうなんだけどさ。そろそろ、外しても良いんじゃないかなって」
「・・・ッ! それはダメだ!」
「・・・トリスがそう思ってるのは知ってるけどさ、もう、良いんじゃないか?」
「いいわけあるか! これだけは絶対にダメだ!これだけが唯一、私に背負える咎なんだから!!」
その場に流れた沈黙が、痛く私を咎めた。
ロームはなにも悪くないというのに。
馬鹿だな、私は。
「馬鹿だな、トリスは」
「!?」
私を見透かしたように、彼はそう言い放つ。
まるでなにも気にしていない風に。
「トリス、君は君自身の人生を、なんだと思っているかい?」
「・・・いつになく哲学的じゃねえか」
「いいから」
かれは小さい身振りで私を急かすと、剣呑な表情をして見せた。
「・・・そうだな」
「うん」
「私の人生は・・・下り坂だよ。 どれだけいっても、どこまでいっても、待つのはただの転落人生。 いつまでも変わらない、無為の螺旋さ」
「・・・そうか」
「・・・」
私の答えを聞くと、神妙な面持ち崩さず、少しばり落ち込んでいる風であった。
そしてほんの数刻経つと、彼は此方に正対した。
「・・・」
「な、なんだよ」
「トリス、今僕らが歩いてるものはなんだい?」
「く、下り階段、じゃないのか?」
「そうだね、下り階段だ。だけどあくまで、下っているのは僕達だ」
「・・・なにが言いたいんだよ」
「いやね、結局今歩いているところが上り階段か、下り階段か、なんて決めるのは、トリス、君がどこを向いてるか、それに一任されるんだよ」
・・・その言葉に、思わず私は圧倒された。
確かに、私が後ろを向いているから下り階段なだけで、前を向けばそりゃ、上り階段だよな。
反論、できなかった。
「そして今この階段、ちょうど中段くらいだよな」
「ああ・・・そうだな」
「この階段を、下りにするか、上りにするか、決めるのは君さ」
「い、いや・・・」
視線を泳がし逃げ場を探るも、彼の目がそれを許さなかった。
強い、信頼の眼だった。
・・・ここで、選ばなければ、私が廃る。
「さあ君は、後ろか前か、どちらに向く?」
今 人生の岐路に立っている。
そんな風に錯覚した。
私はこれから、後ろ向きに生きるのか、前向きに生きるのか、それがまるで、ここで決まってしまうかのように。
・・・なんとなく、ここ数日のことを思い出した。
ずっと事態が前へ向くよう努力してきたし、実際、事態は前へと向いた。
アイツと一緒に、頑張ってこれたから。
きっとそうなのだ。
「ローム」
「なんだい」
「私、前を向くよ」
そういうと彼は、嬉しそうに微笑んだ。
宣言どうり、軀を前へと向ける。
眼前にあるのは────・・・
「ほら、上り階段さ」
「・・・ああ」
なんだか、気持ちが吹っ切れていた。
理屈なんてほとんどなかったのに、穢れがどうとか知ったことじゃないって、そんな気分ですらあった。
『・・・──さん! お──さん!』
するとどこからか、だれかが叫ぶ声がした。
一体、誰の?
『・・・──母さん! お母さん!!』
「・・・!」
私のことをそう呼ぶ者は、この世にもあの世にも二人といない。
エマが、私のことを呼び覚まそうとしてくれているのだ。
ロームの方を向くと、強く頷き微笑んでくれた。
「だな、ローム」
一歩一歩、階段を踏み締め登る。
ロームを置いて、二度と戻れぬ過去を越え。
もう私は振り返らなかった。
ただ背中を彼に向けたまま、真に別れを告げる為。
「じゃあな」
彼の微笑みが、背中を押してくれた気がした。
※
階段を登り切ると、目が覚めた。
ひどい頭痛だ。
頭の側面がひどく痛い。
「いつつ・・・」
微睡んだ眼球を駆使して周囲を見渡すと、どうやらここは名無しとエマが泊まっている宿のようだった。
・・・死んだと思っていたけど、死力を尽くして助けてくれたのだろうな。
全く、お人好しが過ぎるぜアイツは。
「お母さん・・・!?」
私の覚醒に気付いたエマが、こちらを潤んだ目で見つめていた。
「・・・ただいま」
言うと、自身の上擦ってしまった声にも構わず、私の首元あたりに抱きついてきた。
「おかえり・・・! おかえり・・・っ!!」
「・・・ああ、ただいま」
本当にこの子は、私にあんな酷い事を言われておいて尚だもんな。
アンタはすごい子だよ、エマ。
「なあ、少し頼みがあるんだが」
「え、なに?なんでも言ってよ」
「手を 握らせてくれないか?」
するとエマは、少し当惑した顔を見せた。
でも、それでもだ。
「・・・そんな事でいいの?」
「ああ、そんな事がいい」
エマはその小さな体躯に相応の小さな手をこちらに差し出し、少しばかり怪訝そうにしながらこちらを見てきた。
私もまた、その手に向かって掠れた掌を差し向けた。
ずっと着けたままだった、手袋を外して
「・・・・・・」
あと少し握れる所で、私の腕はその場に滞空した。
唐突に、怖くなった。
無論ロームとの会話を忘れたわけではない。
だが、だからといって自分の愚行だって忘れちゃあいない。
今まで、私はエマにどれだけ非道いことをしてきたか、そんな事、私が一番わかっているのだ。
それを、私は何やらことを終えて満足でもしたのか、急に手を握らせてくれ、だなんて言い出したわけだ。
自己満足の前に謝罪が先だろう。
まだ、仲直りの言葉すら、満足に吐けていない。
手が、小刻みに震え始めた。
自身の愚考に気づいたからだろうな、無理もない。
・・・なにやってんだ、私。
やめだやめだ。
「いや、やっぱりやめよ───・・・」
そう言いかけで目を逸らすと、手のひらに小さな温もりが宿った。
弱々しいけれど、確かな芯を持つ、強い温もり。
見れば、エマが私の手を握り上下に振っている所であった。
「はい、仲直りの握手!」
「・・・!」
・・・その笑顔は、陽光よりも鮮烈だった。
「急に手を握らせてくれ、だなんて言うからなんだと思ったけど、仲直りがしたかったんだよね? お母さんの照れ屋!」
私がずっと気に病んでいた事なんて、些細な事だと笑い飛ばすかのように、エマは笑って手を握った。
こんな事、エマにとってなんのことではないのだろう。
だけど、だけども私には━━━━・・・
「・・・・・・」
「・・・お母さん?」
「眩しいなあ・・・眩しいなあ・・・」
「・・・」
「そうだったな、そうだったよ・・・」
太陽みたいに、眩し過ぎる物を見ると人は、涙が出るんだった。 そんな事、ずっと忘れていたけれど。 やっと今、思い出せた。
「ごめん、ごめんなあ・・・」
「・・・うん、いいよ」
「ほんとに、本当にごめん・・・」
「いいって」
「ごめんよ、ごめんよぉ、エマぁ・・・」
「大丈夫、大丈夫だから」
全く、どちらが母親かわかりゃしないな。
だけど私は、この時初めて、エマと親子になれた気がした。