池の底
ざらりとした感触が舌へふれる。そっと、その角に舌を這わせると甘い味が溶け出した。えもいわれぬ甘露で、今となっては唯一の甘いものだ。
でも、あまり長い時間は味わっていられない。これは他人の一部なのだから。
「ありがとうございます、あの・・・」
下腹部がじんわりと熱い。私は角から口を離し、持ち主の顔をうかがった。
彼は何も言わず、すべて承知という笑みを浮かべた後、私の体に手を回した。その手がほんのわずか触れるだけでも、私の体は喜びと快感を感じるようになってしまった。
「守様、ありがとうございました」
「気をつけてお帰りなさいね」
私は何度もふり返りふり返り、彼の社を後にした。私の姿が見えなくなるまで、彼は前に立って見守ってくれていた。だから少しさびしいけれど、私の足取りは軽い。
「巫女さん、お勤めご苦労さまです」
すれ違った墨色の鯉が私に向かって頭を下げた。
「こちらお祖母さまから預かりましたよ、どうぞ」
鯉がぱくっと口をあけた。私はあわててその前に手をさし出した。すると小さい素焼きの皿が鯉の喉の奥から吐き出された。
「ありがとうございます」
「ではこれで。おやすみなさい。」
鯉は森の奥へと去っていった。
自分のすみかとなっている小さな洞穴へ戻り、水面から差し込むわずかな光をたよりに皿の文字に目をこらした。
「十二月二十六日 二十四時」
と書いてある。ここにいると正確な時間や日付がわからなくなってくるが、たぶん明日だろう。
ここに居れるのは祖母のおかげだ。母は止めたが、祖母が最後説得したのだ。
「もう戻ってこれないかもしれないんだよ、お前」
母はそう言ってなんとか私を止めようとした。
「でもお母さん、私、捕まってしまうかもしれない・・・」
だって、人を殺したかもしれないのだから。
私は山を越えた村にある大きい神社に奉公へ出ていた。
大きな神社には豪華な布や糸を扱う仕事がたくさんあり、針仕事が得意な私は重宝された。同じ年頃の巫女も多くいて、そこで働くことは楽しかった。
あの事が起こるまでは・・・。
「お前、名はなんと言う」
几帳に赤紐を結んでいる最中、いきなり声をかけられて集中していた私は驚いて紐をおとした。
「失礼いたします」
男の足元に落ちたそれを拾うため、私はかがんだ。
「見目良い巫女だな」
上から見下ろす目線はあからさまに私の品定めをしていた。身分の下の女にかける無慈悲な好奇心がありありと感じられた。
「・・・失礼いたします」
ぞっとした私は奥の部屋に下がろうと立ち上がった。すると手首をつかまえられた。
「俺のいう事を聞け。ほら、こっちだ」
「おやめ下さい、足が・・・」
ぐいとひっぱられた衝撃で足がもつれ、私は転んだ。文机が倒れバラバラと札が散った。
「どうかしたのですか?」
奥の部屋から他の巫女がやってくる気配がした。男は私をつかんでいた手をはなし、一瞥をくれたあと足早に廊下へと出て行った。
札を拾い集めていると、先輩の巫女がおくから出てきた。
「大丈夫?今男の人といた?」
「は、はい・・・」
「あの人、宮司さんの一人息子よ。いつもは家を空けてるんだけど、時々帰ってきて・・・・」
先輩はそこで声を潜めた。私はその先を続けた。
「巫女に手を出すんですか?」
「そうよ。気をつけてね。あんまり一人にならないほうがいいわ」
「・・・はい。ありがとうございます」
先輩の言うとおりに、仕事中はなるべく一人にならないよう気をつけた。先輩巫女もなにかと一緒にいてくれるようになり、ぽつぽつと前あった出来事を話してくれるようになった。
「あなたも遠くから来ているんでしょ?」
「遠くと言っても、村境の山からです。・・・先輩は?」
「私はこの村よ」
「じゃあずっと都会に住んでるんですね、いいなあ」
「そうかしら」
「私のいた山はなんにもないです。こんなに人もいないし、物もない・・・。」
そういうと先輩はふふっとわらった。
「あなたぜんぜん元気なのね。普通遠くから来ている娘は自分の家が恋しくてさびしくなるものよ」
「そりゃあ時々はそう思うこともありますけど・・・。涼さんはすぐ帰れる距離だからいいですね」
「そうね・・・長いこと、家には帰っていないの」
「え、なんで・・・?」
「私は姉と一緒に働きにきていたんだけどね・・・」
先輩巫女が話してくれたことは、私の想像を絶することだった。
先輩のお姉さんは、きれいな人だったそうだ。そこであの男に目をつけられた。妹の彼女が気がついたときにはお姉さんは身ごもっていたそうだ。当然男は知らんぷりし、両親にも勘当同然の扱いを受けて、
困ったお姉さんは・・・
「橋の上から川に飛び込んだの」
「そんな・・・・」
私は言葉を失った。
「死んじゃったらどうしようもないのにね。でも父なし子を抱えて女一人で生きていくなんて無理だし。」
先輩はすべて諦めきったような投げやりな口調だった。
「先輩は・・・今後どうするんですか」
「そうね・・・いずれはここも辞めるけど」
しばらくして、本当に彼女は巫女をやめてしまった。ある朝いなくなっていたのだ。
今まで以上に男は一人のときを狙ってくるようになった。私はできる限り男を避けていたが、ある日とうとうつかまってしまった。
「あの女がお前に何か吹き込んだんだろう、わかってるぞ」
私の手首をつかんだ男の目はギラギラ光っていた。悪いことに、そこは本殿からはなれた蔵の中だった。
(しまった、気をつけていたのに・・・)
「安心しろ、あの女のいう事は嘘だ。だから俺が辞めさせたんだ」
「辞めさせたって、先輩は自分から・・・・」
「巫女が辞めたいといっても、親父が認めなきゃ辞められない。だから俺が親父に進言したんだよ。あれは卑しいうそつきだから辞めさせろってな」
「・・・・」
「お前も辞めたいか?」
嘗め回すように男はじっくりと私の顔を見た。ここで逃げられるなら喜んで辞める。だがそう言ったところで逃がしてくれるわけがない。
目を伏せた私に男は満足げに鼻を鳴らした。男の手が緩んだその瞬間に私は逃げ出そうとしたが、男の力にかなうはずもなく、地面にねじ伏せられた。
「ずいぶんはねっかえりな女だな。」
男が体を押し付けてくる。重くて私は身をよじった。むっと鼻をつく嫌な匂いがおしよせてくる。私は必死で手足を動かして、逃れようとした。
「うるせえな、じっとしてろ」
男は私の足に圧をかけた。あまりにもの痛みに、私は口走った。
「わかった、わかりました。言うとおりにします、だから」
「ふん、最初から素直にしてりゃいいんだよ、」
男は私の上からどいて言い放った。
「じゃあまず服をぬげ。」
「わ、わかりました・・・」
立ち上がると足がみしっと痛んだ。どうしよう。これでは走って逃げることができない・・・。
「とっととしろや」
私は震える手で着物の袷に手をかけた。そこで私は思いついた。
「あ、あの・・・あちらを向いていてもらえませんか」
「あ?」
「こんなこと、はじめてなので・・・・・」
「ちっ、しょうがねえな」
そういいつつ、男はまんざらでもない表情をしこちらに背を向けた。
私はきぬずれの音をさせながら壁にたてかけてあった棒をそっと手に取った。
「おい、まだか?」
男がこちらにふり返った瞬間、棚の上のものを棒で押しやった。
ものすごい音がして、大小積み上げられたかめや皿が落ちてきた。ひときわ大きい壷が男に命中して砕け、男は倒れた。
(うまくいった・・・・!)
男は動かない。頭から血が出ている。死んでしまったかもしれない・・・!
私は急いで外へ出て戸を閉めた。
その後すぐ、私は持ち物をまとめて神社を出た。足は痛むが、急がなければ。
幸い誰にも見咎められなかったが、村境を越えるまでずっと心臓はバクバクしていた。
「あれ?お前かい?!なんで戻ってきたんだい?」
仰天した母がこちらに駆け寄ってきた。
久々に見る家と家族の顔を見て、ほっとしたのか目からどっと涙があふれでた。
すぐに炉のそばで母と祖母に事情を話すと祖母はこういったのだ。
「しばらく池でかくれておいで」と。
柔らかい海草にくるまって横になると、月の投げかけるひかりがゆらゆらと溶けて池の中にふりそそいでいるのが見てとれた。
あの守様の肌は、この月のひかりみたいだ。
池の巫女になったら、毎日榊を守様にお奉げしなくてないけない。それが唯一と言っていいお仕事だ。だから池に入ってすぐ榊を届けた。
社はしらじらと大きく、そこだけほの明るく見えたのですぐにわかった。
白い鳥居の前に降り立つと、奥のほうに誰かが立っているのが見えた。私はあわてて榊をささげて祝詞を口にした。
「たかあまはらにかむずまります、すめらがむつかむろぎ・・・」
だが奥にいる誰かが、それをさえぎった。
「かたくるしいことはなしで良いですよ。こちらへいらっしゃい」
わたしはおずおず礼をしてと鳥居をくぐった。白い寝殿の前に長身の人が立っている。その人はこちらまで歩いてきて言った。
「あたらしい巫女さん、こんにちは。私はこの池の守をしている者です」
深い青色の袴に、白い肌。濡れ羽色の髪の下から切れ長の涼しげな目が面白そうにこちらを見ていた。一見青年だが、そのたたずまいは年をたくさん重ねた老人のものだ。そして、髪の間から伸びる2本の角・・・・。
「はじめまして。私は深山の神社の巫女の・・え、ええと・・・巫女の・・・・」
名乗ろうとしたのに、自分の名前が出てこない。こんなことってあるだろうか。しどろもどろになった私の肩に守様は優しく手を置いた。
「あわてることはありませんよ。ここの池に入るとみな名前を忘れてしまうのです」
「そうなのですか・・・」
「呼び名がないと不便ですか?」
「え?ええ・・・」
今考えれば彼以外私を呼ぶ人もいないのだから不便でもないが、わたしはついうなづいた。
「ではそうですね・・・あなたの名前は、桃。それでいいですか?」
「すごい・・・なんで私の好きなものが、わかったのですか?」
私はぱっと笑顔になった。彼はすこし面食らった顔をした。が、すぐ穏やかな笑顔に戻った。
「ふふ・・・なんとなくですよ」
白い目じりの下がった睫が、頬に藍色の影を落としている。その顔を見て、こんな美しいものを見るのは初めてだと思った。
「守様、榊をお届けに参りました」
あくる日は晴天で池の水は透き通っていた。地上は寒いはずだが、なぜだか池の中ではまったくそれを感じない。常に温かいくらいだ。
「ありがとうございます、桃」
二人で一緒に寝殿の中に上がり、祭壇に榊をささげた。
「昨日はよく眠れましたか?」
「はい、守様は?」
「ええ、よく眠れましたよ」
そう微笑む顔は柔和でやっぱり綺麗だ。
「なんですか?ももさん」
「ごめんなさい。つい、」
つい、見とれてしまって。わたしの心の内のつぶやきまでも、彼はすべて知っている。
「つい、ですか。また、食べますか?」
「大丈夫・・・です。だって毎日毎日なめていたら、守様の角がなくなってしまいます。時々でいいんです。」
「そのくらいではなくならないから大丈夫ですよ」
「守様・・・」
私は彼を見上げた。彼はすぐに私の気持ちを見抜いて、優しく両手で私をだきしめた。
「こうですか?」
「・・・はい」
彼に触れていると、とても満ち足りた、幸せな気持ちになる。
初めて体を開いた日の事を思い出す。
その日は榊が少ししおれてしまっていて、私は申し訳なくて守様に謝った。
「大丈夫ですよ、このくらい」
「でも・・・榊が枯れていると守様は元気がなくなってしまうでしょう?」
「なければないで平気なのですよ。あなたなしでも、これまでなんとかやってこれましたから」
「そうですか・・・」
私の胸はすこしきゅっとなった。こんな些細なことで。
「桃さんこそ、お腹がすきませんか?こんなところにずっといて」
「いえ、意外と食べ物がたくさんあって不自由してないです、ただ・・・」
「ただ?」
「桃はさすがにないので、たまに食べたいかなって・・・ちょっと思うだけですけど」
「桃さんは甘いものがすきなんですか?」
「はい」
「ではどうぞ、私の角をなめてみてください」
「えっ?」
私は面食らった。
「私の角、甘いんですよ」
「でも・・・そんな・・・」
「よかったら、ですけど」
彼は艶やかな黒髪をかきあげた。細い角の根元があらわになった。彼に触れてみたい・・・・その気持ちに逆らえず私はうなずいた。
「はい、どうぞ」
彼は座ったまま私に向けて両手を差し出した。
「し、失礼します」
私の声は緊張で震えていた。膝立ちになってそっと守様の肩に手をかけた。ますます震えながら、そっと角に口をつけた。
角は土壁のようにざらっとしていたが、陶器のような光沢があった。そして信じられないほど、甘かった。
「本当だ、甘い・・・」
夢中になってなめていると、くつくつ笑い声がして、守様の腕が軽やかに私を抱き上げた。その膝の上に。
「ちょっとくずぐったいです、桃」
とっさの事で私は声が出なかった。
「桃・・・」
彼の手が私の唇に触れた。
「守様・・・」
きれぎれにそう言うのが精一杯だった。
守様は、私が望んでいたけど到底できないと思っていたことを、してくれた。
彼はとても優しく私の体を開いていった。いとも簡単だった。
彼に触れられるところすべてがおかしいほど嬉しがった。心も体もめいっぱいで、一つになったときは、あまりに未知の感覚に気絶しそうになった。
「大丈夫、ですか?」
「あついです・・・・守様・・・」
「桃・・・・」
彼は私の額にそっと指を這わせた。
「冷たい・・・守様の手・・・」
そして彼は私のからだをぎゅっと抱きしめた。
・・・頭の中が焼き切れそうになるほど、嬉しさを感じた。痛みさえ、甘かった。
その日以来、私は日課のうち長い時間を守様と一緒に過ごすようになった。
朝起きると嬉しい。守様に会いにいけるからだ。夜寝るのも嬉しい。朝が来るからだ。
私の愛情はきっと一方的で、私ばかり守様に熱を上げている。守様にとって私はたくさん出会ってきた巫女の一人に過ぎないということはわかっている。だが、それでも。
朝な夕な彼を眺め、彼の事だけ考え、彼と体をあわせているのが幸福だ。
こんな気持ちで毎日を過ごすのははじめてだ。池に来てからの日々と比べたら、地上にいたころの私の日常は死んでいたといっていいほど、味気ない。
寝殿の畳の上で抱き合った後は、必ず眠くなってしまう。仕える神の前で居眠りなんて許される事ではないが、守様は私の目が覚めるまでいつも横で見守ってくれている。
「守様・・・」
「目覚めましたか」
「すみません」
守様はそっと私を抱き寄せた。その胸元は外見に反して逞しく、煙草を炒ったような深くてよい匂いがする。最初は意外に思ったが、今はもう、1も2もなくこの匂いが大好きだ。
「・・・何を考えているのですか?」
「・・・匂いも、取っておくことができればいいのにな・・・と」
彼は私の髪を撫でながら言った。
「いつか貴方の夫になる男が、うらやましいですね」
「・・・そんな事、ありえません。」
「おやおや」
「そんな悲しい事・・・おっしゃらないでください」
いつか、守様と会えなくなる時がくる。わかってはいるけど、今はそんなこと考えたくもなかった。
池の中央からだいぶはずれた場所に、森の入り口がある。この森にはいろいろな生き物が住んでいる。夜の十二時までにはまだ時間がある。その時間を使って河童を訪ねることにした。
「ごめんください、おばあさん」
「おや・・・そこにいるのは誰かね?」
「新しい巫女です、おばあさま」
河童のおばあさんは目をしばたかせてこちらをじっと見た。もう高齢なので、目が良く見えないのかもしれない。私は少し足を進めて姿がよく見えるようにした。
「このあいだお会いしました巫女です、おばあさま」
「おやまあ、巫女かね。まあこっちにお座んなさい」
なんとかわかってもらえたようだ。私はおばあさんの隣に腰を下ろした。
「あんたが何の用かは、わかっているよ。今まで色んな娘を見てきたからね。」
おばあさんは噛んでいた海草をぺっと吐き出して言った。
「あんたも食べるかい」
私は素直に皿に盛られた海草を一つ取った。
「あんたはなかなか順応する気質だね」
「順応?」
「すぐ馴染んだだろう?ここの生活に。染まりやすいんだね・・・。さて、あんたの聞きたいことに答えようか」
私は背筋を伸ばした。いままできた巫女たちも、同じことを聞いているにちがいないのだ。
「あんたには残念だけれど、今まで守の神と添い遂げた巫女は、いないね」
「皆、地上に戻ったのですか?池の中にとどまることは・・・?」
「とどまった巫女は見たことないね。それができるかできないかは、わからん」
「そう・・・ですか・・・」
彼と離れたくない。その上追っ手のかかっている地上に戻るなんて。
「巫女さんには巫女さんの方法があるんでねえか?」
「巫女の・・・方法?」
「そうじゃて。ばばにはわからんけどね」
十二時に池の端に行くと水面からぽとんと榊の束が落ちてきた。守様にささげている榊はいつもこうしておばあ様が届けてくれる。
聞きたいことがあるのに、私は水面に出ることはできない。そういう決まりだからだ。池の中に戻れなくなる危険は犯したくない。自分でなんとか方法を見つけなければいけない。
でも、どうすれば。
私はとぼとぼ歩いて自分の岩場にもどった。
あと何日だろう、ここにいられるのは。そう考えただけで胸が締め付けられる。守様と離れたくない。でも、言ったらきっと彼を困らせるだろう。
「桃は最近元気がないですね」
守様は私の額に手をあてた。
「大丈夫ですよ、守様。わたし、元気です」
私は笑ってそう言ってみせた。
「・・・私の前では、嘘などつかなくていいのですよ」
「・・・え・・・?」
「あなたの元気がないと、私もつらいのです。だから遠慮せず、思っていることを言っていいのですよ」
どうして守様は、こんなに優しいんだろう。取るに足らない、巫女のわきまえもないこんなつまらない女に。
「ごめんなさい。桃を泣かせてしまった・・・」
私は守様の腕の中でたくさん涙を流した。それだけで、心が慰められた。
言わなくても守様は私の気持ちをわかっていてくれていて、私もそれをわかっている。
「これをどうぞ」
やっとの事で泣き止んだ私に、守様は握りこぶしを差し出した。
「なんですか・・・?」
開いた手のひらの中に、小さな白い花があった。守様はわたしの髪にそれをさした。
「よく似合っていますよ、桃」
「巫女さん、おつとめご苦労様です」
「ありがとうございます、鯉さん」
鯉はじっと私を見つめた。
「少し痩せました?」
「そうでしょうか?気がつきませんでした」
「ええ。そうそう、おばあさまからあずかりましたよ」
ぽんと吐き出された欠片には「緊急 今夜に」と書いてあった。
ああ、とうとうか。
そう思いながらこわごわと池の橋で水面を見上げた。
ほどなくしてぽとんと石のかけらが落ちてきた。
「アス期限」
とそこには記してあった。
「守様・・・!」
夜に駆け込んできた私を見て、彼はさびしそうに笑った。
「桃・・・」
何も話していないけれど、彼は桃の気持ちをすべてわかっていた。
「あなたに、お願いしなければなりません」
「何を・・・?」
「地上に、帰るのです」
「知っているのですか・・・?期限を・・・・」
「あなたのことですから。桃、今帰れば間に合うのです」
「・・・・いやです」
私は泣きそうになりながら我慢していたことを言った。
「いやです、もう守様と会えないなんて、絶対にいや。」
「桃・・・」
彼はいつになく強く私を抱きしめた。
「お願いです。あなたが消えるところを、見たくない・・・。」
「守様・・・」
顔を見上げると、守様は悲しげな目をして私を見ていた。
「それならば、地上に戻るほうがどんなに良いか・・・」
その深い目の淵に朱が差している。
それを見た瞬間、今までつかみどころのなかった守様の気持ちがわかってしまった。
守様も、悲しんでいる。
私を失うのを、悲しんでくれているんだ。
「守様・・・困らせて、ごめんなさい」
これ以上、彼を悲しませては、いけない。つらいけれど・・・帰らなければ。
後ろを振り向くと、暗い水の中に一本の糸がのびていた。
「これは・・・・」
「その糸はあなたの体につながっているのですよ」
さびしげに守様はほほえんだ。
「気がついたのならば、あなたは帰れます」
その悲しい笑顔に、私の胸はしめつけられた。
「帰りたくなんかない、ないです、でも・・・守様・・・」
行きたくない。でも、このままぐずぐずしていたら守様を悲しませることになる。わかってはいるけれど・・・・。
守様にもう二度と会えないなんて。
悲しくて胸の中がぐちゃぐちゃになり、頭がおかしくなりそうだ。混乱状態の中ふいに視界が白く染まってきた。
「桃、これを・・・・!」
とっさに守様が紐をつかみ私の手に握らせた。
「守様、私・・・・・!」
握った瞬間、青い世界は目の前から消え去った。
「ここ、どこだろう」
一瞬にして世界が変わった。私は瑠璃色の水の中ではなく薄暗い灰色の空間に漂っていた。
地面は黒く、ところどころ枯れ木が立っている。
地平線だけぼんやりと光がさしているようだがその光はみすぼらしく、この不毛の地をますます暗く見せていた。
ふと右手を見ると、しっかりと紐を握っていた。
(そうか、これをたどっていけばいいんだ)
紐をたどるため振り向くと、目の前に薄い影のようなものが立っていた。
「ヒッ・・・・」
その影はもやがかかったようではっきりとは見えないが、たしかに人間の形をしていて、目や鼻、口があるのが見て取れた。その影は口をあけて何かを言おうとしていた
「・・・モリ・・サ・・・マ」
その言葉をきいたとたん、雷が閃めいたように正体がわかった。
この影達は、巫女のなれの果てだ…!
早く戻らなければ、私も彼女らのように、永遠にこの空間をさまよう影となってしまう。
私は必死で紐をたどっていった。
「あんた!目が覚めたのかい!」
涙目の母が、上から私を見下ろしていた。
「おか…あ」
しゃべろうとしたが、かすれて上手く声が出ない。身体も枯れ木のように細って、こわばっていた。
「無理もない、あんたずっとここに居たんだから」
おばあはそう説明をした。
「池の中にいっていたのはあんたの魂。体はここに、ずっと横たわっていたんだよ。だから期限があったのさ・・・」
そうか。命のある身でなければ、守様のそばへは行けないのだ。幽鬼になってしまった巫女達を思い出した私は、悲しみの中目を閉じた。
おばあと母さんの看護のおかげで、ほどなく私は回復した。
だが、幾日たっても守様が恋しい。守様のこと、そして彼に会いたいという思いが日々募っていく。
池に飛び込まずにいられたのは、おばあと母が私を止めていたからだった。一人娘を失う母の気持ちを考えると、もはやそれはできなかった。
「あんた、ふもとの村に降りていかないかね?」
ある日おばあがそう言った。
「ずっとここにいちゃ、危なっかしいったらありゃしないからね。そろそろ、ほとぼりも冷めたころだろうし。」
ふもとの村に向かうと、おばあはまっさきに手習い所を訪ねた。
「さあ、世のため人のため、そしてお前のために仕事をするんだ。お前は読み書きそろばん、針仕事もできるんだからね」
とまどう私の顔を、たくさんの子どもたちがしげしげとのぞき込んでいた。
手習い所に勤めはじめると、日々はあわただしく、あっという間に過ぎていった。
そのうち神社にまで、娘や子どもたちが訪ねてくるようになり、山奥はにぎやかになった。
「先生、ここの文字を教えておくれよ」
「私の娘のお針の腕を、どうか見てやってくれませんか」
私はその一つ一つを丁寧に引き受けた。
そうだった。人の役にたつのは、心地よいことなのだった。
昔の生活を思い出し、精を出すうちに年月は過ぎていった。祖母がなくなってからは、母と2人して神社を守っていこうと決意を固めた。
池の守様への燃えるような思いは、いつしか春の日ざしのようなおだやかなものへとかわっていった。
ところが、おだやかな日々は突然破られた。
とある夜の事。不穏なざわめきを耳にとらえた私はすばやく境内へ向かった。
「一体、どうしたの!?」
そこには、真っ黒な手足をした子ども達がぼろぼろの状態でようやく立っていた。
「先生、先生、どうしよう…!」
「村が…!」
山の下に目をやると、村のあたりが赤い炎に包まれている。
「あれは…!?」
「侍たちがやってきて、おいらたちの村に火をつけたんだ…!」
「戦の邪魔になるから、って…」
「おいらの家、燃えちまった…母ちゃんも…」
なんてことだ。しかし、呆然としている間もなく、神社の階段を駆け上ってくる猛々しい足音が聞こえてきた。
「お前達、ここで何しているッ!」
物の具をつけた荒々しい男たちが、子どもに向かって長刀をつきつけた。
「待ってください、この子たちは村の百姓の子です!戦とはなんの関係も…!」
とっさに前に出て子どもたちをかばった私の顔は凍りついた。その男は、あの宮司だった。
「久しぶりだなぁ、お高くとまった巫女さんよぉ…!」
男は私の腕を乱暴にひねりあげた。その時。
「おやめっ!うちの子に何するんだい!」
走り出てきた母さんが宮司にかじりついた。そのはずみで男は私から手を放した。
「くっ…」
よろけた男は、すぐさま体制を建て直しそのまま母を切った。
「母さん…!」
だが駆け寄ろうとした娘に母は叫んだ。
「行きなさいッ!その子たちを連れて…!早くッ!!」
お母さんを見捨てるなんて、できない…!
だが私は子ども達の手を握って走り出していた。
神社の奥の院まで走った私は、子ども達を神棚の下に隠した。
「ここに隠れておいで。いざとなったら、裏口から出て山を下りなさい。反対側の村に出るから」
「先生、どこいくの…?」
「母さんを、助けなくちゃ。大丈夫、すぐ戻るから」
私は長刀を手に、境内へ戻った。
母は、血だまりの中で倒れていた。
「母さん、母さん!!」
「おま・・・・え・・・にげないと・・・」
「いや!母さんを手当てしないと」
母は首をふった。
「私は・・・もうむりだ・・・にげて・・・あいつら、もどってくるよ・・・」
「なにいってるの、母さん!」
泣きながら抱きつく娘に、母は言った。
「やっと・・・神様から・・・とりもどしたお前を・・・死なせちゃ・・・ばちが・・・」
言葉はそこで途切れた。
「母さんッ!!!」
母を掻き抱く私の背後から、嘲りの声が飛んできた。
「苦しまず死なせてやったんだ、ありがたく思えよ…!」
あの宮司が、数人の男をひきつれて戻ってきた。
「おい、あのガキどもはどこだ?」
宮司はにやにや笑いながら言った。
「…その前に、お前にたっぷりお返しをしてやるとするか」
彼が一歩踏み出したその時、私は長刀をつかんで一目散に駆け出した。
足には自信がある。なんとか追いつかれずに池の淵まで男たちをおびき出す事ができた。
あれ以来、池のそばに近づくのは初めてだ。池はその水面に星空をうつし、神秘的な輝きに満ちていた。
「おいおい巫女さん、後ろは池だぜ」
男たちが浮かべる表情は判で押したように一緒だった。弱い獲物をいたぶる事を楽しむ、卑劣な笑い顔。
だがそう簡単にやられてたまるか。
「すぐ殺しちまうには、もったいねぇ顔だよな?お前ら」
「なかなかのべっぴんだなぁ、まずは得物を取り上げねぇとな」
「おい女、そいつを捨てろ。そしたら命は助けていやってもいいぞ」
迷う私を見て、宮司は猫なで声で言った。
「そうだ、なんならガキも見逃してやっていい。どう見ても敵方の侍じゃあねえからな」
その言葉を聞いた私は、長刀を池に投げ捨てた。驚くほど静かに、それは池に吸い込まれていった。
「よし、聞き分けがいいじゃねえか」
男は私に近づいて、手を伸ばした。
その瞬間、私は男の懐に飛び込んで、隠していた短刀をその胴めがけて振り下ろした。
「っ・・・!」
派手な音を立てて、男は倒れた。
が、私も腹から血を流していた。
「お前ッ・・・!」
後ろにいた男たちがこちらへ踊りかかってきた。
短剣は刺してしまったし、腹からは血が滴っている。勝算はない。
だが心配ない。私は後ろの池へ足を踏み出した。その瞬間、身体は優しい水につつまれた。水しぶきがあがり、薄れる意識のなかで私は思った。
ごめんなさい、母さん。神社を守れなくて。
あの子たちは、無事逃げられたかしら。心配だ…
すると、目の前にまばゆい金色の輝きが広がった。
「こっちだよ、おまえ・・・!」
「私だよ、母さんだよ・・・!」
おばあと、母さんの声だ。安心した私は、無心にそちらに手を伸ばした。
だが途中でその手は下ろされた。なぜなら。
後ろは池の底だ。そちらに、行きたい。
もうこの体は死を待つだけなのだ。ならば、逢いたい…
気が付いたら、あの岩場に横たわっていた。自分が灰色の影になっていないかと思ったが、どうも違うようだった。手も、体も、元のままだった。
戻れたんだ!!
そう思うと、胸の中にはじけるよう喜びが沸いた。
私の姿を早く、見てもらわなければ。はやく行かなければ。
立ち上がって水を蹴ると、気持ちと同じように身体は軽かった。
彼は戻ってきた私を見て、喜んでくれるだろうか。
また、「私のかわいい桃」と、言ってくれるだろうか――